長い長いトンネルの先に一筋の光が見えた。歩を進めるほどにその光は明るさを増して、私たちのたどってきた暗い祠のようだったトンネルをじわりと飲み込んでいく。
 やがて目前に立ち、一筋の光を挟み込むようにケルビムが手を置くと、両開きの扉を押し開けた。
 扉の向こうには食堂と思われる大広間があった。構造は東館と似ているように感じたが、森の如く変幻した東館とは異なり、這い廻った植物は息を潜めていた。
 木の温もりが感じられる総木造の建物で、古い学校か、由緒ある大学図書館のような佇まいをしている。広間の隅には背の高い観葉植物が置かれ、静かで落ち着いた雰囲気だった。
「どの分館も、一階は食堂なの?」
「いいえ、たまたまでございます。しかし御覧ください、木をくりぬいて作られたこのシャンデリアなど、見事な出来栄えでございましょう!」
 天井からは大型の木製シャンデリアが吊り下げられている。すずらん型の小ぶりなランプシェードが6つ配置されているが、乱反射するクリスタルなどは付いていないため煌びやかな感じは受けない。温かみのある電球の光と、重量感のある物理的な影が独特な仄明るさを供し、広間全体をアンティークな雰囲気にまとめている。
「シャンデリアってキラキラしないの?」
 アケルが万華鏡をシャンデリアに向けて覗きながら言う。
「そうね、シャンデリアって名前の響きがすでにキラキラしてるからキラキラしてないのは残念よね」
 少し疲れを思い出す。包み込まれるような柔らかい光のせいかもしれない。ふたりで上を仰いでいると、ケルビムが不意に言った。
「おふたりとも、今日はもうお休みになられては?」
 そう言われてはっとする。ホテルエデンに来てからというもの、初めの部屋でも廊下でも広間でも、一度も時計を見た記憶がなかったからだ。ホテルに時計がひとつもないというのはいかにも不自然だけど、他に不思議なことがありすぎて気づいていなかった。
「ねぇケルビム、今何時なの?」
 私がそう訊ねると、ケルビムはスーツの内ポケットからおもむろに懐中時計を取り出し、文字盤を確認する。
「おや? もう午前二時になりますね」
「もうそんな時間? アケル、急いで寝るわよ。夜ふかしはお肌の天敵なんだから!」
「うん!」
 アケルは元気に答えて万華鏡を両脇に携えなおし、私のもとに駆けてきた。自然と手をつなぐ。
「それではお部屋にご案内致しましょう」
 私たちは食堂を出て廊下を進んだ。
 
 しばらく行くと少し開ひらけた場所まで出た。東館と同じ造りであればエレベーターホールがあった場所だが北館は構造も違うようだ。
 ふと気づくとケルビムがいない。
「ケルビムー?」
 少し大きな声を出して名前を呼ぶと、通路の角からニュッとケルビムが顔を出し、白い手袋をはめた手で私たちを招いた。
「こちらでございますよ、お二方」
 つきあたりを曲がると、幅の広い木造階段が上階まで伸びていた。
「わぁ、北館にはエレベーターがついてないのね」
「趣きのある木造の建築物に、無機質なエレベーターなど野暮と言うものでございます。アケル様、どうぞ背中にお乗りください」
 ケルビムがそういって腰をかがめると、アケルは、元気よく走って行き、「おんぶー!」と叫んでケルビムの背中に飛び乗った。
「あっ! あぶなっ――!」
 ゴンッと鈍い音が響く。アケルが飛び乗った衝撃でケルビムはバランスを崩し、アケルをおぶった体勢のまま倒れこみ、顔面を階段に強打した。
「だいじょうぶ?」
 しばらく動かないケルビムを、アケルが背中からのぞき込み不思議そうに訊ねる。ケルビムは何事もなかったかのようにスッと立ち上がると、
「では、お部屋へご案内致します」
 といって、アケルをおぶったまま階段を上っていった。
 ……ホテルマンの鏡ね。

 ギィギィと鳴き声をあげる階段を、一段一段上っていく。踊り場の壁には小さなランプがあり仄かに明るい。
「足下にお気をつけくださいませ」
 二階までくると短い廊下の先に扉があるのが見えたが、ケルビムはそこを素通りし、ふたつめの踊り場を目指してさらに上を目指すようだ。三階へ行くのだろうか。仮面の下の表情はわからない。澄ました様子でアケルをおんぶしているが、無理をしているのではないかと心配になった私は言った。
「二階には客室はないの?」
 下にも部屋があるのなら、無理に上へあがる必要はない。奥に見えている扉もなんとなく気になった。
「ええ、今日入れる客室は三階でございます」
 ケルビムは振り返ることなく答えた。
 今日入れる客室? ーーなんだかよくわからないルールだと思いながら後に続いた。
 三階につくとケルビムはまっすぐ廊下の奥を目指した。少し狭まった印象のある廊下の先、部屋の扉は開かれていた。
 階段はまだ続いていたが、上をのぞきこむと次の踊り場の先で終わっている。どうやらホテルエデンの北館は四階建てのようだ。
「千里様、こちらですよ」
 催促するようにケルビムが呼ぶ。階段から外れて、三階廊下に入ると、壁一面が本棚になっていた。ぎっしりと並べられた書籍がまったく壁のように見えていたので驚く。
「すごい量の本ね! オーナーの趣味なの?」
 二人に追いついて話しかけると、ケルビムが指をそっと仮面の口に当てた。背中をのぞくと、アケルが眠ってしまっている。
 室内も壁はすべて本で埋め尽くされていた。中央に置かれたベッドにアケルを寝かせ、掛け布団を掛けながらケルビムが言った。
「ここは記憶の図書館です。どれでも一冊、壁から取り出し開いてみてください。貴女の現在の記憶に関する頁ページが出てくるはずです」
「記憶って?」
 どういうことだろう。言われるがままに適当に本を手にして中を確認する。開いたページには、『泣き疲れて眠り。目覚めると突然しらない部屋にいた』と、ホテルエデンに来た瞬間のことが記されていた。次のページには、アケルと言う名の少女に出会ったこと。さらに他のページにはアケルと一緒に料理をしたこと……。事細かく、そのときに抱いた感情までが日記のように紡がれている。
「これってどうなってるの⁉」
「北館にある書物はすべて、本の開ひらき手に応じて経験したこと、培った記憶などが読めるものなのです。二階は『過去』の書物、四階は『未来』、そして三階には『現在』の記憶の書物が置いてあります」
「開き手に応じて、ということは、他の人が読んだらその人の記憶に変化するということ?」
「そうです」
「はぁ……、すごい……」
 私は感嘆の息を漏らした。ここは本当に不思議なことだらけだ。――だが、ケルビムが四階は『未来』だといったことが気にかかった。
「でも、未来の記憶なんてどうやって見るの?」
「ええ、ですので四階には入ることはできません。たとえ入れても、おそらく本は真っ白のままでしょう」
 ケルビムが笑って答えた。
「入ることができない……」
「はい、未来ですので」ケルビムは手際よくサイドテーブルの蝋燭に火を灯した。
「では千里様、こちらでアケル様とおやすみください。なにかありましたら、わたくし外におりますので、遠慮なくお呼びくださいませ」
 そう言うとケルビムは部屋を後にした。
 やはりこの部屋にも時計はない。扉が閉ざされると急に眠気が襲ってくる。いわれたとおりにベッドに体を滑りこませた。
 心地好い寝息を立てるアケルの寝顔を隣で眺めながら、ホテルエデンに迷い込んでから今までのことを考えていた。
 突拍子もない不思議な出来事に、いつでも無邪気で明るいアケル、なにを考えているのかまったくわからないけど、少し間抜けで憎めないケルビム。最初は早く帰りたい一心で嫌悪感を抱き、パニックになりかけたけれど、楓を失って失意のどん底だと思う現実にいるより、いくらか気持ちが楽だと思っている自分に気がついた。
「ここで過ごすのも悪くないなぁ」
 ひとりつぶやきながらアケルの頬を撫でる。目覚めたとき、彼女がまあ隣にいてくれるだろうと思うと、朝がとても待ち遠しいような幸せな気分で満たされた。
 蝋燭の灯りが壁をゆらりと波打たせる。ゆらゆらと影が揺らめくのを感じながら私はいつのまにか眠りに落ちていた。