明後日から夏休み! セミのフルコーラスをBGMにしながら夕ご飯を食べていると、お父さんがいった。
「お母さんの妹の、早苗おばさんに新しい赤ちゃんができてね、もうすぐ出産なので入院するんだ」
「さなっ…さなえ、えー…おばさん? って…えーととながっながの、長野……のっ?」
「そうだよ。茜をびっくりさせたいと思って、内緒にしてたんだけど、夏休みの間、五歳になる日夏茉ちゃんを預かることになったんだよ! お父さんずっと、会わせたかったんだ。驚いた?」
「あー…あ、あわ、あーとあわ…せー、たかった人っ、ててひかっり……ひかりちゃんのこ、こ…ことっ?」
「え? 他に誰がいるんだい」
「あたっ…あた、し……」
「じつは茜は日夏茉ちゃんが赤ちゃんのときに一度会っているんだ。お母さんのね、一周忌のときに少しだけなんだけどね。茜、よろしく頼むよ。もちろん島根のおばあちゃんにも頼んだから、しばらく一緒に泊ってくれるけれどね。だからさ、お母さんの部屋に泊ってもらうなら、さすがにちょっと片付けないと狭いかなあと思ったんだ」
「あれっ、あーあれ、びび…びーっくり、したっ…した、よっ!」
あたしは少しだけ怒った顔つきで、お父さんをにらんだ。
「ごめんな、いや冗談だよ。部屋を片付けるっていったのだって、あとでよく考えたら、不必要に心配かけちゃったよなって反省したんだ。本当にごめんね、茜の不安をわかってやれなくて。防波堤で茜がお父さんのことを怒ってくれて、よかったって思ってるんだ」
お父さんがカレンダーをまぶしそうに見つめる。八月六日の〝6〟の数字に大きな花丸が描かれている。あたしが安西先生にもらったのと、同じくらい大きな花丸だ。
「お母さんのハローワールド、日夏茉ちゃんに読んでやってくれな」
そういうと、お父さんはてれくさそうに笑った。
「ひか、ひーひかっちちゃ、んがきたら、このみー好実ちゃんも、呼んであげ、よっ、ようかー?」
「おお、そうだね、茜、それはいいこと!」
好実ちゃんは無事に回復して、大和のおばさんもヤマタケの勤務に戻った。
じつはお父さんは、大和が学校から給食を持って帰っていることを、おばさんから聞いて知っていたらしい。あまり大手振っては応援できないけど、大和が妹を思う気持ちを考えたらなにもできなかったといっていた。
それを聞いてすごくお父さんらしいと思った。もしお母さんが生きてたら、誇らしく思うんじゃないかなって、そんなふうに感じたんだ……。
――違うかな?
『ハローワールド』は、あたしを身篭ったお母さんが仕事を辞めたときに描いたものだったらしい。生まれて来るあたしのために描かれた絵本の出来の良さに浮かれたお父さんは、自費で製本しておまけにトートバッグまで作ったそうだ。
「茜には、ハローワールドはどんなところだって感じられた?」
お父さんは部屋から持ってきた『ハローワールド』を、トートバッグの横に並べた。
朱里にたずねるハローワールドはいつだって同じ。
『そこはここよりもずっと離れた場所で、ものすごく近くにある場所。
行きたくても行けない場所で、いつの間にかたどり着いてる場所。』
結局、ハローワールドがいったいなんなのか、どこにあるのか――そんなことは一切聞き出せないままだ。でもお母さんが作ったあのお話を読んだとき、あたしには、なんとなくだけど、ハローワールドがどこにあるのかわかった気がした。
人差し指を、自分の胸に当てて答える。
「あたし……あの、の…ななかにある気が、あー……すす、する」
お父さんはにっこりうなずいた。
「うん、お父さんもそう思うよ。きっとハローワールドは、どんな人の心にもある楽園で、きっと誰しもみんな、そこを目指す旅人のようなものなんじゃないかなって」
お父さんは『ハローワールド』の本を撫でながら見つめている。
「茜、人はね、やさしい気持ちになったり、悲しい気持ちになったり、許せない気持ちになったり……いろんな気持ちになるよ。すごく疲れてしまうことだってあると思う。でも、そんなふうに明るい色や暗い色になったりして忙しいけど、こう考えてみたらどうかな。そうやって心がいつも、あちこちを旅して回ってるんだって」
お父さんの大きな手が、あたしの手を包む。
「だからね、茜、お父さんは思うんだ。ハローワールドってきっと、いろんな人の心に触れ合って、幸せな気持ちでいっぱいにあふれかえった、そんな場所なんじゃないかな……」
手から伝わる温もりを感じながら、これまで起こった出来事を思い出していた。
いつも、パソコンとにらめっこしていたお母さん。
お母さんに教えてもらった、ウッドチャックの魔法の早口言葉に、観覧車から見た景色。
お父さんの作るご飯はいつもちょっとだけ不器用だけど、いつも変わらずに寄り添ってくれるやさしさや心強さ。
引っ込み思案だけどすごく友だち思いの友子に、ずぼらでだらしないけど妹思いな大和。芯が強くてまっすぐなかなえに、無口だけど観察力のある竹下さん。
めまいがするほど熱くて男らしい古賀くんに、いつもあたしにいらないちょっかいを出してくる根本や倉畑。
そしてお母さんが残してくれた「朱里」……。
心があちこち飛び回って、そして今やっと、この心はハローワールドを感じてる。
大人になるにつれ、この心がハローワールドから離れていったとしても、あたしはまたこの場所に戻ってこれる気がする。
それはきっと、全然難しいことじゃないはずなんだ。だって、大好きなお母さんとの思い出をたどるように、この瞬間の気持ちを思い起こせばいいんだから。
「お母さんの妹の、早苗おばさんに新しい赤ちゃんができてね、もうすぐ出産なので入院するんだ」
「さなっ…さなえ、えー…おばさん? って…えーととながっながの、長野……のっ?」
「そうだよ。茜をびっくりさせたいと思って、内緒にしてたんだけど、夏休みの間、五歳になる日夏茉ちゃんを預かることになったんだよ! お父さんずっと、会わせたかったんだ。驚いた?」
「あー…あ、あわ、あーとあわ…せー、たかった人っ、ててひかっり……ひかりちゃんのこ、こ…ことっ?」
「え? 他に誰がいるんだい」
「あたっ…あた、し……」
「じつは茜は日夏茉ちゃんが赤ちゃんのときに一度会っているんだ。お母さんのね、一周忌のときに少しだけなんだけどね。茜、よろしく頼むよ。もちろん島根のおばあちゃんにも頼んだから、しばらく一緒に泊ってくれるけれどね。だからさ、お母さんの部屋に泊ってもらうなら、さすがにちょっと片付けないと狭いかなあと思ったんだ」
「あれっ、あーあれ、びび…びーっくり、したっ…した、よっ!」
あたしは少しだけ怒った顔つきで、お父さんをにらんだ。
「ごめんな、いや冗談だよ。部屋を片付けるっていったのだって、あとでよく考えたら、不必要に心配かけちゃったよなって反省したんだ。本当にごめんね、茜の不安をわかってやれなくて。防波堤で茜がお父さんのことを怒ってくれて、よかったって思ってるんだ」
お父さんがカレンダーをまぶしそうに見つめる。八月六日の〝6〟の数字に大きな花丸が描かれている。あたしが安西先生にもらったのと、同じくらい大きな花丸だ。
「お母さんのハローワールド、日夏茉ちゃんに読んでやってくれな」
そういうと、お父さんはてれくさそうに笑った。
「ひか、ひーひかっちちゃ、んがきたら、このみー好実ちゃんも、呼んであげ、よっ、ようかー?」
「おお、そうだね、茜、それはいいこと!」
好実ちゃんは無事に回復して、大和のおばさんもヤマタケの勤務に戻った。
じつはお父さんは、大和が学校から給食を持って帰っていることを、おばさんから聞いて知っていたらしい。あまり大手振っては応援できないけど、大和が妹を思う気持ちを考えたらなにもできなかったといっていた。
それを聞いてすごくお父さんらしいと思った。もしお母さんが生きてたら、誇らしく思うんじゃないかなって、そんなふうに感じたんだ……。
――違うかな?
『ハローワールド』は、あたしを身篭ったお母さんが仕事を辞めたときに描いたものだったらしい。生まれて来るあたしのために描かれた絵本の出来の良さに浮かれたお父さんは、自費で製本しておまけにトートバッグまで作ったそうだ。
「茜には、ハローワールドはどんなところだって感じられた?」
お父さんは部屋から持ってきた『ハローワールド』を、トートバッグの横に並べた。
朱里にたずねるハローワールドはいつだって同じ。
『そこはここよりもずっと離れた場所で、ものすごく近くにある場所。
行きたくても行けない場所で、いつの間にかたどり着いてる場所。』
結局、ハローワールドがいったいなんなのか、どこにあるのか――そんなことは一切聞き出せないままだ。でもお母さんが作ったあのお話を読んだとき、あたしには、なんとなくだけど、ハローワールドがどこにあるのかわかった気がした。
人差し指を、自分の胸に当てて答える。
「あたし……あの、の…ななかにある気が、あー……すす、する」
お父さんはにっこりうなずいた。
「うん、お父さんもそう思うよ。きっとハローワールドは、どんな人の心にもある楽園で、きっと誰しもみんな、そこを目指す旅人のようなものなんじゃないかなって」
お父さんは『ハローワールド』の本を撫でながら見つめている。
「茜、人はね、やさしい気持ちになったり、悲しい気持ちになったり、許せない気持ちになったり……いろんな気持ちになるよ。すごく疲れてしまうことだってあると思う。でも、そんなふうに明るい色や暗い色になったりして忙しいけど、こう考えてみたらどうかな。そうやって心がいつも、あちこちを旅して回ってるんだって」
お父さんの大きな手が、あたしの手を包む。
「だからね、茜、お父さんは思うんだ。ハローワールドってきっと、いろんな人の心に触れ合って、幸せな気持ちでいっぱいにあふれかえった、そんな場所なんじゃないかな……」
手から伝わる温もりを感じながら、これまで起こった出来事を思い出していた。
いつも、パソコンとにらめっこしていたお母さん。
お母さんに教えてもらった、ウッドチャックの魔法の早口言葉に、観覧車から見た景色。
お父さんの作るご飯はいつもちょっとだけ不器用だけど、いつも変わらずに寄り添ってくれるやさしさや心強さ。
引っ込み思案だけどすごく友だち思いの友子に、ずぼらでだらしないけど妹思いな大和。芯が強くてまっすぐなかなえに、無口だけど観察力のある竹下さん。
めまいがするほど熱くて男らしい古賀くんに、いつもあたしにいらないちょっかいを出してくる根本や倉畑。
そしてお母さんが残してくれた「朱里」……。
心があちこち飛び回って、そして今やっと、この心はハローワールドを感じてる。
大人になるにつれ、この心がハローワールドから離れていったとしても、あたしはまたこの場所に戻ってこれる気がする。
それはきっと、全然難しいことじゃないはずなんだ。だって、大好きなお母さんとの思い出をたどるように、この瞬間の気持ちを思い起こせばいいんだから。