時刻は多分六時過ぎくらい。一刻もはやく家から出ないと、お父さんが仕事から帰ってきてしまうと思ったからだ。行くあてなんてないけど、今はお父さんの顔なんて見たくない。あたしはとりあえず、自宅や役所を避けて国道沿いの道を歩き続けた。
赤く染まり始める空を見ながら、まとわりつく湿った暑さと、いつまでたっても鳴きやまないセミの声にあたしは苛立っている。本当は、そんなことが理由じゃないけど、そんな理由でもつけない限り、あたしは不安で押しつぶされそうだった。
国道沿いの大型デパートの自動ドアが開いて、流れ出してくる涼気に吸い寄せられる。デパートの中は、かき氷を食べたときみたいにキンと冷え切っていた。
まとわりつく暑さは取り払われても、あたしの気持ちはなにも解消されない。耳障りなセミの鳴き声が、デパート内の騒音に変わっただけだ。
楽しそうに行き交う買い物客を避け、エスカレーター脇のベンチに腰をおろす。横にドリンクの自販機が並んでいた。
朱里に出会ってからのことが、次々に浮かび続ける。
はじめま…して……あたし……の名前は朱里……ですあな……たとお友……達になりたくて……思い切ってメールを……出しまし……たもしよ……ければお友だち……になってください好…きな食べ物はなにハロ……ーワールド……あたしは薬局のお……ばさんと知……り合いなのおかえ…り茜学校はどうだ……ったいつだって茜……の味方だよいつだ……って茜を支え……るからね……
支えるからねっていう朱里の言葉どおりに、あたしがどれだけ朱里に支えてもらえていたのかってことや、どれだけそれがうれしくてたまらなかったのかってことや、どれだけそれが毎日の励みになっていたかなんてことの、すべてが裏切られた気分だった。
くやしくてたまらない。朱里の存在や言葉のすべてが、べったりとこびりついて離れない。あたしは完全に朱里に心を許していた。出会えたことに感謝していたし思いっきり頼っていた。毎日学校から帰ってパソコンを開くのをなにより心待ちにしていた。
なんで朱里があたしのメールアドレスを知ってたのかってことも、なんでお父さんが突然届いた変なメールを迷わず開いたのかってこともわからないままだったのに、そんな疑問にだってあたしは目をつむって、考えないようにしてきた。
でも、もしはじめから、お父さんと朱里が裏でつながってたってことならすべて説明がつく。
こんなふうにして、あたしと朱里って人を近づけようとするなんてずるい。
もちろんお父さんの気持ちだってわかる。お母さんを失った代わりに、厄介な病気を抱えた娘だけが残っちゃったんだから。これまで必死であたしというお荷物を背負って充分頑張ってきてくれた。けど……だからって、こんなやり方は卑怯よ!
自分の恋人をあたしの友だちとして?
スパイみたいにあたしの懐に潜り込ませて?
あたしが彼女を信用し、信頼関係ができあがったころに真実を明かそうだなんて!
これじゃあ……お父さんは、お母さんの気持ちも、あたしの気持ちも両方踏みにじってる……まるで、自分の目的を達成するためなら手段を選ばない悪党だ!
絶対的に信頼し、信用している者に裏切られる心の痛みは、想像を絶するものだった。ようやく、あたしを取り巻くすべてがうまく回り始めそうだと感じたこの日、あたしはお父さんと、親友だと思っていた朱里を失ったんだから。
いい表しようのない喪失感の中、あたしはひとりベンチに座ったまま。いつしか、ざわついていた店内の音は薄れていた。
ベンチの隣で自販機がガタンと音を立てる。振り向けば、ジュースを買ってもらった小さな女の子がお母さんと手をつないで歩いていった。
…………。
――ねえ、おかあさん? あたしもジュースのみたい……。
カタカタ、カタカタカタ……部屋の中を無機質な音が響く。
「なぁに? ジュースなら冷蔵庫に入ってるでしょ?」
おかあさんはパソコンに向かったまま、振り向こうともせずにいった。あたしは口をとがらせたまま、仁王立ちでおかあさんをにらみつける。
カタカタ、カタカタカタ……キーボードを叩く音が響いている。
おかあさんはパソコンの画面とにらめっこ。
――きっとおかあさんはパソコンの方が好きなんだ! あたしがこんなにも口をとがらせて、腕まで組んで怒ってるのに、まるで気づかないんだもん!
「あっ! 茜ぇ? お母さんにも……」
キッチンに目をやったお母さんは、すぐそばで怒っているあたしが仁王立ちしているのにようやく気がついた。驚いて目を丸くし、吹き出すように笑い出す。
それをみたあたしの機嫌はますます悪くなる。
――あたしは、こんなにも怒ってるのに!
お母さんは笑いながらいった。
「どうしたの? 茜、ジュース飲むんじゃなかったの?」
ますますふて腐れたあたしは、さらに口をとがらせて、これみよがしに、自分は怒っているんだってことをお母さんに見せつけた。
「茜、あなたもう五歳になったんでしょ? そろそろ、冷蔵庫にある飲み物くらい、自分で入れられるようになってもいいんじゃない?」
あたしはなにもいわず、ただ自分の怒りだけを態度であらわした。
――おかあさんが、あたしをイナイイナイにしてるのに、あたしははらをたててるの!
お母さんは、やれやれといったふうに立ちあがり、キッチンへ歩く。
「そうでちゅねぇ、茜ちゃんは、まだ赤ちゃんでちゅもんねぇ」
「んんんー‼」
赤ちゃん呼ばわりしたお母さんに怒りを爆発させると、あたしは顔を真っ赤にして地団太を踏み、お母さんの大きなお尻を突き飛ばした。
「痛ぁーい! なにするの! 茜がお母さんのこといじめるなら、お母さん、茜を置いてお家を出ていくわよ?」
「んんー! いやだぁー! ごめんなさい!」
真に受けたあたしは不安になって、泣きながらお母さんの大きなお尻にしがみついた。
あたしを置いて出てくなんておどすなんてずるい。
「ごめん、ごめん、嘘よ、茜を置いて、どこかへなんて絶対に行かないわ」
やさしく笑いながら、お母さんはあたしの頭を撫でる。
「ほんとう?」
「本当よ」
「ぜったい?」
「絶対よ」
まだぐずるあたしに、お母さんはあたしの目線まで姿勢を落として、ほっぺたをやさしくつねりながらいった。
「茜! 観覧車に行こう」
赤く染まり始める空を見ながら、まとわりつく湿った暑さと、いつまでたっても鳴きやまないセミの声にあたしは苛立っている。本当は、そんなことが理由じゃないけど、そんな理由でもつけない限り、あたしは不安で押しつぶされそうだった。
国道沿いの大型デパートの自動ドアが開いて、流れ出してくる涼気に吸い寄せられる。デパートの中は、かき氷を食べたときみたいにキンと冷え切っていた。
まとわりつく暑さは取り払われても、あたしの気持ちはなにも解消されない。耳障りなセミの鳴き声が、デパート内の騒音に変わっただけだ。
楽しそうに行き交う買い物客を避け、エスカレーター脇のベンチに腰をおろす。横にドリンクの自販機が並んでいた。
朱里に出会ってからのことが、次々に浮かび続ける。
はじめま…して……あたし……の名前は朱里……ですあな……たとお友……達になりたくて……思い切ってメールを……出しまし……たもしよ……ければお友だち……になってください好…きな食べ物はなにハロ……ーワールド……あたしは薬局のお……ばさんと知……り合いなのおかえ…り茜学校はどうだ……ったいつだって茜……の味方だよいつだ……って茜を支え……るからね……
支えるからねっていう朱里の言葉どおりに、あたしがどれだけ朱里に支えてもらえていたのかってことや、どれだけそれがうれしくてたまらなかったのかってことや、どれだけそれが毎日の励みになっていたかなんてことの、すべてが裏切られた気分だった。
くやしくてたまらない。朱里の存在や言葉のすべてが、べったりとこびりついて離れない。あたしは完全に朱里に心を許していた。出会えたことに感謝していたし思いっきり頼っていた。毎日学校から帰ってパソコンを開くのをなにより心待ちにしていた。
なんで朱里があたしのメールアドレスを知ってたのかってことも、なんでお父さんが突然届いた変なメールを迷わず開いたのかってこともわからないままだったのに、そんな疑問にだってあたしは目をつむって、考えないようにしてきた。
でも、もしはじめから、お父さんと朱里が裏でつながってたってことならすべて説明がつく。
こんなふうにして、あたしと朱里って人を近づけようとするなんてずるい。
もちろんお父さんの気持ちだってわかる。お母さんを失った代わりに、厄介な病気を抱えた娘だけが残っちゃったんだから。これまで必死であたしというお荷物を背負って充分頑張ってきてくれた。けど……だからって、こんなやり方は卑怯よ!
自分の恋人をあたしの友だちとして?
スパイみたいにあたしの懐に潜り込ませて?
あたしが彼女を信用し、信頼関係ができあがったころに真実を明かそうだなんて!
これじゃあ……お父さんは、お母さんの気持ちも、あたしの気持ちも両方踏みにじってる……まるで、自分の目的を達成するためなら手段を選ばない悪党だ!
絶対的に信頼し、信用している者に裏切られる心の痛みは、想像を絶するものだった。ようやく、あたしを取り巻くすべてがうまく回り始めそうだと感じたこの日、あたしはお父さんと、親友だと思っていた朱里を失ったんだから。
いい表しようのない喪失感の中、あたしはひとりベンチに座ったまま。いつしか、ざわついていた店内の音は薄れていた。
ベンチの隣で自販機がガタンと音を立てる。振り向けば、ジュースを買ってもらった小さな女の子がお母さんと手をつないで歩いていった。
…………。
――ねえ、おかあさん? あたしもジュースのみたい……。
カタカタ、カタカタカタ……部屋の中を無機質な音が響く。
「なぁに? ジュースなら冷蔵庫に入ってるでしょ?」
おかあさんはパソコンに向かったまま、振り向こうともせずにいった。あたしは口をとがらせたまま、仁王立ちでおかあさんをにらみつける。
カタカタ、カタカタカタ……キーボードを叩く音が響いている。
おかあさんはパソコンの画面とにらめっこ。
――きっとおかあさんはパソコンの方が好きなんだ! あたしがこんなにも口をとがらせて、腕まで組んで怒ってるのに、まるで気づかないんだもん!
「あっ! 茜ぇ? お母さんにも……」
キッチンに目をやったお母さんは、すぐそばで怒っているあたしが仁王立ちしているのにようやく気がついた。驚いて目を丸くし、吹き出すように笑い出す。
それをみたあたしの機嫌はますます悪くなる。
――あたしは、こんなにも怒ってるのに!
お母さんは笑いながらいった。
「どうしたの? 茜、ジュース飲むんじゃなかったの?」
ますますふて腐れたあたしは、さらに口をとがらせて、これみよがしに、自分は怒っているんだってことをお母さんに見せつけた。
「茜、あなたもう五歳になったんでしょ? そろそろ、冷蔵庫にある飲み物くらい、自分で入れられるようになってもいいんじゃない?」
あたしはなにもいわず、ただ自分の怒りだけを態度であらわした。
――おかあさんが、あたしをイナイイナイにしてるのに、あたしははらをたててるの!
お母さんは、やれやれといったふうに立ちあがり、キッチンへ歩く。
「そうでちゅねぇ、茜ちゃんは、まだ赤ちゃんでちゅもんねぇ」
「んんんー‼」
赤ちゃん呼ばわりしたお母さんに怒りを爆発させると、あたしは顔を真っ赤にして地団太を踏み、お母さんの大きなお尻を突き飛ばした。
「痛ぁーい! なにするの! 茜がお母さんのこといじめるなら、お母さん、茜を置いてお家を出ていくわよ?」
「んんー! いやだぁー! ごめんなさい!」
真に受けたあたしは不安になって、泣きながらお母さんの大きなお尻にしがみついた。
あたしを置いて出てくなんておどすなんてずるい。
「ごめん、ごめん、嘘よ、茜を置いて、どこかへなんて絶対に行かないわ」
やさしく笑いながら、お母さんはあたしの頭を撫でる。
「ほんとう?」
「本当よ」
「ぜったい?」
「絶対よ」
まだぐずるあたしに、お母さんはあたしの目線まで姿勢を落として、ほっぺたをやさしくつねりながらいった。
「茜! 観覧車に行こう」