翌日、昨日降った雨の匂いはすっかり消えてしまったけれど、朝からまとわりつく蒸し暑さの中、校門をくぐり抜けると、下駄箱で楽しそうに話す大和と古賀くんの姿があった。大和があたしに気づき、声をかける。
「よぉ! おはよう」
 ふたりはあたしに挨拶すると振り返り、階段に向かう。

(もし、あたしが朱里だったら……)

「おっ…おはようおはよう!」
 歩き始めていた大和は、驚いた顔で振り返った。
「大和? どげんしたと?」古賀くんが立ち止まる。
「椎名が、はじめておれに挨拶してくれた……」
「は? そりゃおまえ、そもそも友だちや、思われとらんかったんやなかと?」
「ち……違うよ! 椎名は声を出しにくい病気だから、こっちが声をかけても返事が返って来ないこともあるけど、それは無視じゃなくて病気だから気にしないで声をかけてやれって、母さんがいってたもん」
 そんなことを突然いわれてあたしまでびっくりする。
 たしかにこれまでちゃんと挨拶を返したことなんてなかったかもしれない……。
 それより、大和は大和なりに考えて接していてくれたっていう事実が驚きだった。これまでの自分がすこしはずかしくなる。

(もし、あたしが朱里だったら……)

 お互いに目をまん丸にして変な顔で向かい合っている大和とあたしを見て、古賀くんが豪快に笑いだした。
 あたしは改めて昨日のお礼を伝える。
「こー、古賀、くん、えーと、昨日…昨日はー昨日はありがとう」
「よかよ! そげん、お礼なんかいわんでもよかろうもん。あいつばせからしうて、ばりむかついたけんな」
 古賀くんは照れて頭をコリコリとかいて笑った。

(もし、あたしが朱里だったら……)

「でもでもね……えーと、やや、やっぱりぼ、ぼう、暴力はは……あーと、ダメッ…だと思うの」
 古賀くんの顔からすっと笑顔が消えた。背筋が凍る思いだった。
「なにいうとっちゃろ。椎ぃ名さん、あいつにイジメられとったちゃろ?」
「うん……」
 いやな雰囲気を察して、大和が間に入る。
「ばかだな椎名! 助けてもらったのにおまえなにいってんだ」
「気にすんな」と古賀くんの肩を叩くと、ふたりは振り返り階段を上っていった。
 あたしはすっかり怖じ気づき、その先をいえないままふたりを見送った。
 行き場を失った言葉が心で跳ねる。
『でも、暴力でその場を収めてもそれは本当の解決にはならないんじゃない? だって根本たちはこわくて暴力に屈しただけで、反省なんてしてないんだから……』
 昨日の思いつきをいきなり実践したところで、すべてがうまくいくなんて思ってなかった。でも……それでも、あたしが人の行いを指摘することで、こんなにも相手を怒らせてしまうなんてことも、まったく考えてなかったんだ。

     ♮

 階段を上るのを拒否するように足が重い。
 教室に入ると、クラスメイトたちがいつもの笑顔を浮かべて気の合う者どうし笑いあっている。あたしは机の中に教科書をしまうと、椅子に腰をおろした。
 気持ちのよい光が窓から差しこみ、じゃれあう男子生徒のそばに舞う埃が光を浴びてキラキラ光っている。昨日見たテレビの話題で盛りあがる女子たちの笑い声、ゲームの話題に夢中の男子たち。
 大和は相変わらず古賀くんにべったりで、彼の取り巻きたちとも仲良くやっている。
 根本、倉畑ペアもふたりでケタケタと笑い合っている。
 友子は、かなえや竹下さんのグループに迎え入れられ、毎日が楽しそうだ。
 あたしはひとり、椅子に座って黒板を見つめる。始業を知らせるチャイムが、こんなにも待ち遠しいと感じる日が来るなんて……。
 あたしはいったいどうしたかったんだろう?
 どうしてほしかったんだろう?
 教室を取り巻く笑い声の中にいるはずなのに、まるで教室の外に放り出されている気分だ。苦しくて息もできずにもがいていると、待ちわびた始業のベルに、あたしの心はなんとか救われた。
 国語の授業では、安西先生はあたしを指名しない。それは先生のやさしさであっていやがらせじゃないことはわかってる。他の子たちがつまずきながら教科書を音読するなか、あたしは頭の中で教科書をスラスラと読む。頭の中では、あたしは決してつまずいたりしない。いつだって誰よりも上手に読めるんだから。
 でも安西先生はあたしを指名しない。それは先生のやさしさ。
 だからまるで、このクラスにはあたしがいないみたいだった。