下駄箱で傘をたたんでいると、ずぶ濡れの大和が駆け込んでくる。目があうと、「傘忘れちまったよ」と情けない顔で笑った。
「…っあ、あ、さ……?」
 ――朝からこんなに降ってるのに?
 大和はあたしを追い越すと、上履きに履き替えてあわてて階段を上っていった。体中びしょびしょだ……。
 傘立てに傘を入れようとして一本だけ濡れていない傘を見つける。持ち手が曲げられて壊されている。持ち手に貼られていた名札を見ると『3ねん2くみ よしだ』と書かれていた。
 ――大和の傘だ。
 大和はこの傘を三年生の時から使っている。新級しても、名札を変えていないところがずぼらな大和らしいけど、今はとにかく、その不自然に一本だけ完全に乾いた状態で突き刺さていているその黄色い傘に、あたしは釘付けになった。
 誰かに壊されたんだ! そうに決まってる。そんな傘を持ち帰ったらおばさんを心配させてしまう。だからわざと学校に置き忘れたんだ。
 大和の家はそんなに裕福じゃない。予備の傘を持ってないってことをもしわかっててやったなら、あまりにひどいし陰湿だ。
 これ以上ないくらいにムカムカしながら階段を上る。教室に入ると、さっそく根倉ペアにからかわれている大和の姿が飛び込んできた。
「なんだこいつ! こんなに雨が降ってるのになんで傘差して来ねえんだよ! あ、もしかしてまた机の中に置き去りにしちゃった?」
 根本がからかい、ずぶ濡れの大和はそのまま席で座っている。みんながいっせいに注目した。
「傘壊れたんなら、新しいの親に買ってもらえよな!」
 合いの手のように倉畑がいい出す。このふたりが犯人だと確信して、あたしは気分が悪くなった。根本は、教室に入ったあたしに気がつくとこちらに向かっていった。
「おぃ、椎名、大和はおまえの弟になるやつだろ? 相合傘くらいしてやれよ」
 反応した他の男子が横やりを入れる。
「えっ? どういうこと? 椎名と大和は姉弟なのか?」
 やめてよ……!
「そうなんだよ、こいつら片親どうしなんだ。だからこいつらの親どうしが結婚したら、このふたりは姉弟なんだぜ」根本と倉畑は得意げに説明する。
 やめてっていってるでしょ⁉
 説明をきいた男子たちは、うすら笑いながらなにかいおうとしたけど、あたしの強張った表情をみると、それ以上はなにもいわなかった。
「ちゃんと弟の面倒見ないとダメじゃねーか」
 空気を読まない倉畑があたしにいい放つ。
「ち、ちちち…ちがちが違うってうっていっていってるでしょ⁉」
 やってしまった。これでまたあたしはクラスのいい笑い者にされるわ。
「ああ…あんたたたちが、や…大和の傘、傘を壊したん…でしょ⁉」
 それを聞いた根本も倉畑も大爆笑だった。
「ちょっと、あんたたち! 頭悪いんじゃないの? いい加減にしなさいよ!」
 かなえが飛び出してきて根本たちに詰め寄る。すぐそばに不安そうな友子もいた。
「あーあー、うるさいのが来たよ。おまえには関係ないだろ?」
 かなえは、いわれっぱなしの大和にいう。
「あんたもなんとかいいなさいよ! なんのためにいい返す口がついてるのよ!」
「いや……おれは、別に……」
 ヘラヘラと笑う大和に、かなえもいらだちを隠さない。
「あ…あんたたたちでででしょ⁉ 大和の傘をここっ…壊したのは!」
 始業のチャイムが鳴っている。でも、もうどうだっていい。
 あたしはとまらず根本たちに詰め寄った。
「ししし知らねぇよ! ややや大和の傘のええ柄を折ったのなんてぇ」
 根本があたしのマネをして、にやにやと笑い出す。倉畑が手を叩いて大笑いしている。その様子を見ていた数人の男子もうすら笑っていた。
「おい! おまえたち! なにやってるんだ! 自分の席に着け! ほら! おまえも! おまえも、さっさと座れ‼」
 教室に入って来た安西先生が怒りをあらわにして、生徒たちを席に着かせようとする。
「先生ぇ! 根本たちが茜をからかうんです!」
 かなえが安西先生に今までの流れを報告する。
 相変わらずざわつく教室の混乱は収まる気配もない。
「とにかく、みんな席に着きなさい!」
 先生が怒鳴ってようやく騒ぎ声は収まっていくけど、あたしの気持ちは収まらない。
「あ…あたし…はかっ…傘のえ、柄のこ、とことなんて、い…いってない! やや…やっぱりあんたたち…が、こわっ壊したのよ!」
 根本は大袈裟に耳に手を当てるジェスチャーをする。
「はぁ? なにいってるかわかんねーよ、ブス! おまえと大和が結婚して、できる子どももそんなふうに吃るのかな? あ、きょーだいじゃあ、結婚できねえか!」
「ううう! っ……」
 言葉にならないくやしさが口から、心から、目からあふれてくる。
 あたしは振り返って自分の席にガタンと座った。
 涙も! あんたらも! どっか行け!
 もうなにも聞かない!
 もうなにも知らない!
 くやしさのあまり、机の一点を見つめたまま身動きが取れない。
 あふれるくやしさを堪えるあたしの耳に、ガタンガタンと椅子を引く音が続く。全員が席に着き、いよいよ教室が静まり始めたとき、事件は起こった。
「はーい! せんせー」
「どうした? 古賀?」
 教室の一番後ろに座っていた古賀くんが、突然手をあげた。もちろん先生と古賀くんのそのやり取りを見ていない。あたしの席は前の方だし、彼の席は最後尾だったから。
 椅子がずらされ、立ちあがる音が聞こえる。
「どうした古賀? お、おい? ……なにしてる、席に戻って!」
 教室がザワザワと落ちつかない空気に包まれる。
 机の一点を見つめるあたしの視界の端で、みんながざわついていっせいに同じ方向を見る。次の瞬間、鈍い音が教室の中に響きわたると、誰かが机ごとひっくり返った。
 一瞬訪れた教室の静寂を、安西先生の声が切り裂いた。
「古賀! やめなさい!」
 慌てた先生が教室の奥へと走り出し、何人かが驚いて声をあげた。思わず振り返ると、そこには、床にひっくり返っている根本と、仁王立ちする古賀くんがいた。
「みなか前で、こげんばかにされっと気分などうね?」
「古賀! 席に戻りなさい! おまえたち、なんだっていうんだ、ほら! 机戻して!」
 先生はかけ寄って古賀くんをとめようとしたけど、古賀くんは、もうそれ以上何かするようには見えなかった。
 古賀くんは、倉畑に目をやりいった。
「次はおまえやけ、逃げんとってな」
「おまえたち、ちょっと来い!」
 もちろん、そのあと古賀くんは、安西先生に連れ出された。ついでに根本と倉畑も。
 安西先生の説教は随分長くなりそうで、説教の途中でいったん教室に入ってきた先生は、学級委員に自習するように伝えると、三人を連れて職員室へと向かった。

     ♮

 彼らが教室に帰ってきたのは、一限目の終わりを告げるチャイムのころだ。
 古賀くんはケロッとしていたけど、根本は目をネズミみたいに真っ赤にさせていた。倉畑は完全にびびっているのか、根本の後ろにピッタリくっついて離れない。
 すると、根本と倉畑が二人して近づいてきて、ボソッとつぶやいた。
「ごめん……」
 大和もあたしもあっけに取られる。ふたりは、すごすごと、自分の席に戻っていった。
 ふと振り返ると、教室の一番後ろでは、男子に取り囲まれた古賀くんが、すでにクラスの人気者って感じになっていた。
「おまえ、すげーな! おれびびったけど、なんかかっこよかったぜ!」
「そげんこつ! てれるやん!」
 なまった方言を話す古賀くんはきっと孤立するだろうと思っていた。だから、そんな様子にあたしは驚いていた。
「なぁ、おれたち、古賀に助けてもらったのかな?」
 ふいに大和が話しかける。あたしはなにもいえなかった……。
 つまり、本当のところはどうなのかわからなかったんだ。でもひとつだけ、ハッキリしたことがあるとしたら、古賀くんのおかげですごくスッキリしたってこと。
 あたしにはそれだけで充分だった。