ヤマタケで簡単な買い物をすますと、家に向かって歩道橋をのぼる。あたしが昔落ちたあの歩道橋だ。花火大会のときはここから花火も見える。
上からみえる港の景色が、だいだい色に染まり始めている。晩ご飯を食べたら、「朱里」という人にメールの返事を書こう。でもなんて書こうかってぼんやり考える。なんとなく集中できないでいると、お父さんが口を開いた。
「お母さんの部屋にさ、茜が小さい頃に使っていたベビーベッドがあるだろ? あれをちょっとどかして片付けようかなと思っているんだけど、今度手伝ってくれるかい?」
それを聞いてあたしはドキッとする。
「か、かたっ…かたづけっ?」
「島根のおばあちゃんが来たら、今回はお母さんの部屋に泊まってもらおうかなって。いつもはリビングに寝泊まりしてもらうけど……ね……」
「あ、あー…う、うん……わーわ、わかった、よ」
『片付け』という言葉が何かひっかかった。
「ところで、茜、昨日はわりと夜遅くまで起きていたみたいだけど、朱里ちゃんにメールの返事を書いていたのかい?」
「う、ううん。ままっだ…まだだよ」
「そっか……。仲良くなれるといいね。なにかあったらなんでもいってくれな」
「うん……」
「あのパソコンをはじめて茜が触ったころがなんだか懐かしいなぁ……。最初の頃は、おこりんぼの茜がよく泣き喚いて、パソコンにご自慢の『筆談』という名の悪口を書いていたよね?」
「わー、わる…わっ、悪口?」
「そう。ぼくがいかに悪いお父さんかっていうことを、これでもかっていうくらい、つらつらと書いてるんだよ」
お父さんが小さく吹き出す。そんなこと全然覚えていない。
「おや? 茜覚えてないのかい? ひどいなあ、あんなにお父さんをいじめてくれたのに。『おとうさんつうちひょう』ってがんばって打ってあったよ。『あたしがいっしょうけんめいなのに、おとうさんがわらったこと』とか『おきにいりのくつしたをすてたこと!』とかね」
のぞき込みながら、意地悪げに笑う。
「あれ印刷でもして残しておけばよかったなあ。1って書かれてたときはお父さんショックだったけど、ほらこんなに茜だって、お父さんに対していじわるだったんだぞって、今なら茜をおどせるのに」
「い…いーいじわるじゃ、なーない、な…ないよっ!」
「ははっ! 大丈夫大丈夫、わかってるよ。冗談だって」お父さんがあたしのほっぺたをつまんで笑う。「……もともとそれが目的だったんだ。茜がうまく話せなくてもどかしい思いをしないようにってね、今だってお父さんに不満があるなら、どんどん書いて見せてくれてかまわないんだぞ」
病院では、できるだけ口に出して話しましょうといつでも繰り返される。吃音指導ではそれがスタンダードなんだろう。さすがのあたしだって、いくつも病院をはしごしてその度に同じことをいわれれば、そういうものなんだってわかる。
紹介状をもらってあちこちつれていかれるうちに、あたしの吃音はみるみるひどくなっていった。話しづらそうなあたしをかわいそうに思ったのか、お父さんはこっそりあたしにノートパソコンを渡すと、どうしてもうまく話せないときは、これで『筆談』しなさいと教えてくれた。本当は紙に直接書いた方がもっと楽だと思う。お父さんはそのときこんな風にいった。
『パソコンの使い方を覚えておくことは、茜にとっても後々プラスになるよ。それに手軽にメモ用紙に書くクセをつけてしまったら、それこそ言葉を話す努力をおこたってしまうからね。でもこれは一応先生には内緒な』って。
はじめてパソコンの電源を入れたとき、お父さんはさびしそうにあたしの肩に手を置いていった。
『茜……、茜は覚えてないかもしれないけど、このノートパソコンはね、お母さんがずっと最後まで使っていたものなんだよ……。だからこれは、お母さんの形見でもある。つらいときは、きっとこのパソコンが茜の味方になってくれるよ……』
あたしは、『形見』と『味方』という言葉を数えきれないほど聞いてきている。それでもお父さんはこの言葉を口にするたび、はじめて話すように懐かしい目をする。
「じつはおばあちゃんが出雲大社に一緒に祈願に行きたいっていってるんだけど、島根まで行くのはちょっとしんどいよね……?」
「…き、きがん?」
「うん……」
お父さんはそれ以上はなにもいわず、黙ってあたしの手を引いた。
だいだい色に染まった空がその顔を照らすと、お父さんの目が、学校で飼っているウサギみたいに赤く滲んで見えた。
上からみえる港の景色が、だいだい色に染まり始めている。晩ご飯を食べたら、「朱里」という人にメールの返事を書こう。でもなんて書こうかってぼんやり考える。なんとなく集中できないでいると、お父さんが口を開いた。
「お母さんの部屋にさ、茜が小さい頃に使っていたベビーベッドがあるだろ? あれをちょっとどかして片付けようかなと思っているんだけど、今度手伝ってくれるかい?」
それを聞いてあたしはドキッとする。
「か、かたっ…かたづけっ?」
「島根のおばあちゃんが来たら、今回はお母さんの部屋に泊まってもらおうかなって。いつもはリビングに寝泊まりしてもらうけど……ね……」
「あ、あー…う、うん……わーわ、わかった、よ」
『片付け』という言葉が何かひっかかった。
「ところで、茜、昨日はわりと夜遅くまで起きていたみたいだけど、朱里ちゃんにメールの返事を書いていたのかい?」
「う、ううん。ままっだ…まだだよ」
「そっか……。仲良くなれるといいね。なにかあったらなんでもいってくれな」
「うん……」
「あのパソコンをはじめて茜が触ったころがなんだか懐かしいなぁ……。最初の頃は、おこりんぼの茜がよく泣き喚いて、パソコンにご自慢の『筆談』という名の悪口を書いていたよね?」
「わー、わる…わっ、悪口?」
「そう。ぼくがいかに悪いお父さんかっていうことを、これでもかっていうくらい、つらつらと書いてるんだよ」
お父さんが小さく吹き出す。そんなこと全然覚えていない。
「おや? 茜覚えてないのかい? ひどいなあ、あんなにお父さんをいじめてくれたのに。『おとうさんつうちひょう』ってがんばって打ってあったよ。『あたしがいっしょうけんめいなのに、おとうさんがわらったこと』とか『おきにいりのくつしたをすてたこと!』とかね」
のぞき込みながら、意地悪げに笑う。
「あれ印刷でもして残しておけばよかったなあ。1って書かれてたときはお父さんショックだったけど、ほらこんなに茜だって、お父さんに対していじわるだったんだぞって、今なら茜をおどせるのに」
「い…いーいじわるじゃ、なーない、な…ないよっ!」
「ははっ! 大丈夫大丈夫、わかってるよ。冗談だって」お父さんがあたしのほっぺたをつまんで笑う。「……もともとそれが目的だったんだ。茜がうまく話せなくてもどかしい思いをしないようにってね、今だってお父さんに不満があるなら、どんどん書いて見せてくれてかまわないんだぞ」
病院では、できるだけ口に出して話しましょうといつでも繰り返される。吃音指導ではそれがスタンダードなんだろう。さすがのあたしだって、いくつも病院をはしごしてその度に同じことをいわれれば、そういうものなんだってわかる。
紹介状をもらってあちこちつれていかれるうちに、あたしの吃音はみるみるひどくなっていった。話しづらそうなあたしをかわいそうに思ったのか、お父さんはこっそりあたしにノートパソコンを渡すと、どうしてもうまく話せないときは、これで『筆談』しなさいと教えてくれた。本当は紙に直接書いた方がもっと楽だと思う。お父さんはそのときこんな風にいった。
『パソコンの使い方を覚えておくことは、茜にとっても後々プラスになるよ。それに手軽にメモ用紙に書くクセをつけてしまったら、それこそ言葉を話す努力をおこたってしまうからね。でもこれは一応先生には内緒な』って。
はじめてパソコンの電源を入れたとき、お父さんはさびしそうにあたしの肩に手を置いていった。
『茜……、茜は覚えてないかもしれないけど、このノートパソコンはね、お母さんがずっと最後まで使っていたものなんだよ……。だからこれは、お母さんの形見でもある。つらいときは、きっとこのパソコンが茜の味方になってくれるよ……』
あたしは、『形見』と『味方』という言葉を数えきれないほど聞いてきている。それでもお父さんはこの言葉を口にするたび、はじめて話すように懐かしい目をする。
「じつはおばあちゃんが出雲大社に一緒に祈願に行きたいっていってるんだけど、島根まで行くのはちょっとしんどいよね……?」
「…き、きがん?」
「うん……」
お父さんはそれ以上はなにもいわず、黙ってあたしの手を引いた。
だいだい色に染まった空がその顔を照らすと、お父さんの目が、学校で飼っているウサギみたいに赤く滲んで見えた。