「おまたせ! 茜、ちょっと遅くなっちゃったかな? 暑くないかい? って暑いに決まってるよね、ごめんごめん」
正門前で待っていると、汗をたくさんかいたお父さんが小走りでやってくる。
「だっ…だー、だいじょううぶ、大丈夫だよ」
「よし、それじゃあ行こうか」
お父さんは、手に持っていたペットボトルの水をひと口飲むと、こっちに差し出して目くばせした。あたしが無言で首を振ると、残りを飲み干して正門前の自販機にあるゴミ箱に捨て、バス停に向かって歩き出す。
お母さんがいなくなり、いつの間にかうまく言葉が出なくなったあたしは病院へ連れていかれた。最初は港にある古い総合病院だった。「大丈夫だからね?」小さな電光掲示板に表示される番号を何度も見上げながら、お父さんはそう繰り返した。
診察室ではいろいろきかれた。具体的になにをきかれたかはあまり記憶にないけど、動物が描かれたカードを見せられて、「これはなに?」とか質問された気がする。
眼鏡をかけたそばかすの看護師さんが親切にしてくれて、コアラのハンカチをくれた。そういえば、あれどこいったんだっけ、きっとあるはずだけど。
そこでややこしい封印がされた茶色い封筒をもらうと、あたしは大学病院に連れていかれた。そしてさらに今通っている《菊池医院》を紹介されて、月に一回こうしてバスを乗り継いで通っている。
菊池医院はこじんまりとしてるけど、いつも混んでいる。ここは、吃音の子とか発達障害の子たちも通って来ている専門クリニックで、外の看板と診察券には《心療内科、耳鼻咽頭科》とだけ書かれている。
水曜午後は《手術により休診》と書いてあるから、あたしの知らない病気なんかも扱ってるんだろう。だって吃音は手術なんてないはずだしね。普通にマスクをした風邪をひいているらしい小さい子が待合室に座っていることもある。
「茜ちゃん、こんにちは。学校はどうですか?」
「と、ととととくに、なな…なーなにも変わりません」
「そっか。前回、いやだって思うことを紙に書いてもらったよね。どうしてみんなマネしたり笑ったりするのかな? 茜ちゃんはどう思う?」
そんなことわからない。言語聴覚士の菊池先生はいつも『吃ることを気にしないでどんどん話せばいいんだよ』というけど、そんなこと関係ないって思う。だってあたしが吃音だってことは、みんなよくわかってるんだもの。
「やっぱりまだみんなの様子は変わらない? どうかな、守ってくれる友だちや先生はいないって思う?」
「あっ、安西先生は、や、やさしい。国語では、あたっあたしをあーあてない、です。あ、あああと、まー、ままっ守るって、いうのっはー…わわっわからないーでで…す」
「守るっていうのはね、そうだなあ〝見守る〟とか〝温かい目でみてる〟っていう感じに考えてみてもいいと思うんだけど、たとえば、みんなの前で話をするのはこわい?」
「こ、こわくは、な、ない、とお思う。でも……そっ、そーそれもよくわ、わかっ…わーわ…わからない」
先生がいおうとしてることはなんとなくわかる。あたしはみんなの視線を気にしている。『こわいか』ときかれれば、そりゃこわいとまではいえないけど、それでもまっすぐ見たいかっていわれたら、見たくなんてない。
「そっか」
菊池先生はにっこり微笑むとパソコンに向かって、カルテになにかを打ち込んでいった。カタカタ、カタカタカタ……横から見る先生の顔つきは真剣で、あたしはちょっと下を向く。
先生は、きっとこんな答えしかできないあたしにがっかりしている。わからないなんて本当は嘘だから。でも本当のこといえるほどあたしは子どもじゃないんだ。
「ねえ茜ちゃん、背が高い人や低い人がいるように、言葉がうまく出ないのも個性だと思えばいいんだよ。全然はずかしいことじゃないんだ」
「……」
「これは個性なんだよ、ってことをみんなに話してみたことはあるかい?」
先生は手を休めるとこちらへ向きなおり、自分の膝に腕を置いて、ちょっと身をかがめていった。
「なっ…な、ないっ、です」
「そうか、うん、ないんだね。なかなか難しいかな? やっぱり話すのははずかしい?」
「……」
そんなこといえない。きれいごとを並べてみたところで、クラスの子たちは誰一人そんなこと思ってないって、わかりすぎるほどわかってるつもりだからだ。
吃音を直したくないわけじゃない。練習しないとうまく話せるようにならないってこともわかる。でも言葉がうまく出ないのはあたしがお母さんをすごく大好きだったからで、それは十一歳になった今でもずっと変わらない。たった五年間しか一緒にはいられなかったけど、お母さんを思う気持ちはこれからもずっと同じ。
うまく話せるようになることをみんな期待しているみたいだけど、乗り越えるってことがどれほど素晴らしいことなのか、あたしはちょっとあやしいって思ってる。
「ねえ、茜ちゃん、久しぶりにお母さんのことを訊いてもいいかな。もしよかったら、一緒にお出かけした楽しかった思い出なんかがあれば、聞かせてくれたらうれしいと先生は思うんだけど。どうかな? なにか覚えていることはある?」
それをきいて、めずらしくあたしはカチンと来た。菊池先生は立派な健常者だ。心のストレスから吃音になってしまったあたしに、いったいなんて答えてほしいの。
お母さんのことはとってもいい思い出です。もう大丈夫です。忘れられますって? それで楽しかった思い出を話してきかせて、こわがらずにたくさんしゃべってみますって?
――そんなのありえない……。
「……」
「まだちょっとつらいかな? ごめんね、無理そうだったらまた今度にしようか。飲み薬はしばらくやめてもらっているけど、今日もなくて大丈夫かな?」
あたしがうなずくと先生はにっこり笑った。
「じゃあ今日はここまでにしよう。なにかあったらすぐにお父さんに話すようにしてね。吃音は薬で治るものではないけど、気持ちを落ちつける手助けはできるんだ。無理をして我慢する必要は少しもないってことと、僕も含めてみんな茜ちゃんのことが好きだし、ちゃんとついているってことを覚えておいてね。じゃあまた来月、元気な顔を見せてくれるのを先生楽しみにしてるよ」
菊池先生は、はじめいろいろと読み上げの練習をさせた。でも、今ではこうして学校のことなんかを話すだけだ。
正門前で待っていると、汗をたくさんかいたお父さんが小走りでやってくる。
「だっ…だー、だいじょううぶ、大丈夫だよ」
「よし、それじゃあ行こうか」
お父さんは、手に持っていたペットボトルの水をひと口飲むと、こっちに差し出して目くばせした。あたしが無言で首を振ると、残りを飲み干して正門前の自販機にあるゴミ箱に捨て、バス停に向かって歩き出す。
お母さんがいなくなり、いつの間にかうまく言葉が出なくなったあたしは病院へ連れていかれた。最初は港にある古い総合病院だった。「大丈夫だからね?」小さな電光掲示板に表示される番号を何度も見上げながら、お父さんはそう繰り返した。
診察室ではいろいろきかれた。具体的になにをきかれたかはあまり記憶にないけど、動物が描かれたカードを見せられて、「これはなに?」とか質問された気がする。
眼鏡をかけたそばかすの看護師さんが親切にしてくれて、コアラのハンカチをくれた。そういえば、あれどこいったんだっけ、きっとあるはずだけど。
そこでややこしい封印がされた茶色い封筒をもらうと、あたしは大学病院に連れていかれた。そしてさらに今通っている《菊池医院》を紹介されて、月に一回こうしてバスを乗り継いで通っている。
菊池医院はこじんまりとしてるけど、いつも混んでいる。ここは、吃音の子とか発達障害の子たちも通って来ている専門クリニックで、外の看板と診察券には《心療内科、耳鼻咽頭科》とだけ書かれている。
水曜午後は《手術により休診》と書いてあるから、あたしの知らない病気なんかも扱ってるんだろう。だって吃音は手術なんてないはずだしね。普通にマスクをした風邪をひいているらしい小さい子が待合室に座っていることもある。
「茜ちゃん、こんにちは。学校はどうですか?」
「と、ととととくに、なな…なーなにも変わりません」
「そっか。前回、いやだって思うことを紙に書いてもらったよね。どうしてみんなマネしたり笑ったりするのかな? 茜ちゃんはどう思う?」
そんなことわからない。言語聴覚士の菊池先生はいつも『吃ることを気にしないでどんどん話せばいいんだよ』というけど、そんなこと関係ないって思う。だってあたしが吃音だってことは、みんなよくわかってるんだもの。
「やっぱりまだみんなの様子は変わらない? どうかな、守ってくれる友だちや先生はいないって思う?」
「あっ、安西先生は、や、やさしい。国語では、あたっあたしをあーあてない、です。あ、あああと、まー、ままっ守るって、いうのっはー…わわっわからないーでで…す」
「守るっていうのはね、そうだなあ〝見守る〟とか〝温かい目でみてる〟っていう感じに考えてみてもいいと思うんだけど、たとえば、みんなの前で話をするのはこわい?」
「こ、こわくは、な、ない、とお思う。でも……そっ、そーそれもよくわ、わかっ…わーわ…わからない」
先生がいおうとしてることはなんとなくわかる。あたしはみんなの視線を気にしている。『こわいか』ときかれれば、そりゃこわいとまではいえないけど、それでもまっすぐ見たいかっていわれたら、見たくなんてない。
「そっか」
菊池先生はにっこり微笑むとパソコンに向かって、カルテになにかを打ち込んでいった。カタカタ、カタカタカタ……横から見る先生の顔つきは真剣で、あたしはちょっと下を向く。
先生は、きっとこんな答えしかできないあたしにがっかりしている。わからないなんて本当は嘘だから。でも本当のこといえるほどあたしは子どもじゃないんだ。
「ねえ茜ちゃん、背が高い人や低い人がいるように、言葉がうまく出ないのも個性だと思えばいいんだよ。全然はずかしいことじゃないんだ」
「……」
「これは個性なんだよ、ってことをみんなに話してみたことはあるかい?」
先生は手を休めるとこちらへ向きなおり、自分の膝に腕を置いて、ちょっと身をかがめていった。
「なっ…な、ないっ、です」
「そうか、うん、ないんだね。なかなか難しいかな? やっぱり話すのははずかしい?」
「……」
そんなこといえない。きれいごとを並べてみたところで、クラスの子たちは誰一人そんなこと思ってないって、わかりすぎるほどわかってるつもりだからだ。
吃音を直したくないわけじゃない。練習しないとうまく話せるようにならないってこともわかる。でも言葉がうまく出ないのはあたしがお母さんをすごく大好きだったからで、それは十一歳になった今でもずっと変わらない。たった五年間しか一緒にはいられなかったけど、お母さんを思う気持ちはこれからもずっと同じ。
うまく話せるようになることをみんな期待しているみたいだけど、乗り越えるってことがどれほど素晴らしいことなのか、あたしはちょっとあやしいって思ってる。
「ねえ、茜ちゃん、久しぶりにお母さんのことを訊いてもいいかな。もしよかったら、一緒にお出かけした楽しかった思い出なんかがあれば、聞かせてくれたらうれしいと先生は思うんだけど。どうかな? なにか覚えていることはある?」
それをきいて、めずらしくあたしはカチンと来た。菊池先生は立派な健常者だ。心のストレスから吃音になってしまったあたしに、いったいなんて答えてほしいの。
お母さんのことはとってもいい思い出です。もう大丈夫です。忘れられますって? それで楽しかった思い出を話してきかせて、こわがらずにたくさんしゃべってみますって?
――そんなのありえない……。
「……」
「まだちょっとつらいかな? ごめんね、無理そうだったらまた今度にしようか。飲み薬はしばらくやめてもらっているけど、今日もなくて大丈夫かな?」
あたしがうなずくと先生はにっこり笑った。
「じゃあ今日はここまでにしよう。なにかあったらすぐにお父さんに話すようにしてね。吃音は薬で治るものではないけど、気持ちを落ちつける手助けはできるんだ。無理をして我慢する必要は少しもないってことと、僕も含めてみんな茜ちゃんのことが好きだし、ちゃんとついているってことを覚えておいてね。じゃあまた来月、元気な顔を見せてくれるのを先生楽しみにしてるよ」
菊池先生は、はじめいろいろと読み上げの練習をさせた。でも、今ではこうして学校のことなんかを話すだけだ。