ーーー 8年と8ヶ月後。

4月の風は、道行く人の歩みに軽快なステップを刻ませている。

誰もが長かった冬を越え、ようやっと訪れた桜の開花予報に心を踊らせて、始まりの音に期待を膨らませる季節。

民家よりも緑の多い上里町(かみざと まち)にとっても、都心よりも遅れた開花予想に、まだ咲かけの桜の木を見上げて思いを馳せる者は少なくなかった。

「行ってきま〜す」

ガラガラと引き戸を滑らせて、一歩外へ踏み出した、遠山 類(とおやま るい)もまた、4月の生暖かい風と、鼻腔を擽るクリーム色のヒカサキの花の匂いに、新しい季節を感じて、大きく深呼吸をする。

「おにぃ! ちょっと待ってってば!」

玄関を出て直ぐの位置で、春を感じていた類の背中を押しのけるように、続けて家を飛び出したのは、類の二つ下の妹である、(はる)だった。

身長175センチメートルの類の口元ほどの背丈で小柄な体型でも、無警戒の範囲からの攻撃には、思わず体をよろけさせてしまう類。

「あっぶな! おい! 新学期早々、足でも挫いたらどうするんだよ! なんか、縁起悪すぎるだろ!」

間一髪で、体勢を立て直した類は、春に振り向き、冗談交じりに叱咤する。

「うっさい! 早く行くよ! 今日から授業が始まるん出し、良い目覚めになったでしょ!」

春は、そう反論すると、ボブカットの黒髪をサラリと靡かせながら、そそくさと通学路を辿りはじめる。

「おい! 行ってきます!」

「気をつけてね」

玄関から、更に引き戸を挟んで直ぐにある居間から届く、母の声を背に受けて、春を追いかける類。

「てかさ、高校1年と3年になって、一緒に登校する事ないと思うんだけど?」

類は、小走りで並んだ春に、少しの気恥ずかしさを含んだ言葉を投げる。

「別に、おにぃと一緒に登校したい訳じゃないし。おにぃは、おまけみたいなもん。何うぬぼれてるんだか」

春は生意気にため息をついてみせる。

「その言葉、そのままお前に返してやるよ」

そんな息の合った悪態のキャッチボールをしながら、通学路を辿る事3分。

前方に、類よりもガッシリとした体格、180センチを超える高身長と、キリッとした眉毛が特徴的な、類達と同じ上里高校に通う3年生、伏見 太陽(ふしみ たいよう)が、2人を待ち構えている。

「おはよう!2人とも! 相変わらずおしどり兄妹だな!」

太陽は、ガハハと白い歯を覗かせて、おおらかな笑い声をあげる。

「おはようございます!」

春は、太陽に釣られるようにして、活発に朝の恒例の言葉を返す。

「おはよ。太陽も相変わらずお元気で」

一方で類は、落ち着きを見せながら、右手をあげる。

「何か、やっぱり新鮮だな。こうして、春ちゃんと登校するのは」

「そうですか? 小学校の時は、集団登校でしたし、中学の1年間も、一緒に登校してたじゃないですか?」

「う〜ん。そうなんだけどさ。やっぱり、高校の制服姿の春ちゃんと登校すると言うのは、なんか感慨深いよなお兄ちゃん!」

類を挟むようにして再び歩き出した3人。そんな類の頭上を飛び交う会話を、 鳥のさえずりを聴くかの如く流していた類の左肩に、太陽は大きな右手をポンっと乗せる。

「まぁ、ある意味(・・・・)では感慨深いけど。実兄の俺よりも、噛みしめるのは、止めてもらっていいですか?」

「お! 嫉妬か? 嫉妬なのか? 良かったな春ちゃん。お兄ちゃんが嫉妬してくれてるらしいぞ」

「嬉しくない」

そう間髪入れずに突っぱねる春。

「あらら。泣くなよ。類」

「泣かねぇよ」

「あ、勘違いしないで下さいね。おにぃの嫉妬が嬉しく無いのではなくて、おにぃの嫉妬の対象が、太陽先輩だと言うことが嬉しくないだけです」

春は淡々と横目も振らずに言葉を通学路に並べていく。

「………泣くなよ、太陽」

今度は類が太陽の左肩に左手を乗せると、ポンポンと2度軽く叩く。

「…………」

先ほどまで饒舌だった太陽の舌は、重たげな唇の奥に閉じこもってしまう。

そこから数分の沈黙の後、前方で肩したまで伸ばした黒髪を振り乱し、元気よく手を振る1人の女子生徒が視界に映り、春は「あ!」と嬉しそうに駆け出した。

双葉(ふたば)ねぇ!」

春は、走るスピードを落とすことなく、そのまま双葉の胸に飛び込んだ。

「はるるん! おっはよー! 」

双葉はそのまま春を受け入れると、後頭部を乱れるぬように柔らかく撫でる。

「おはよ。双葉」

その後をついた類は、そんな実妹と親友とのスキンシップを、微笑ましげに見守りながら、春の陽気に当てられたような、温厚な声色で朝の挨拶を済ませる。

「おはよう! ルイルイ! 」

双葉もまた、そんな類に釣られるようにして、満面に笑みを咲かせる。

「ところで………後の方は、なんでそんなに、ししゃもの干物みたいな顔をしてるの?」

「いや、まぁ。青春って所かな?」

「ふ〜ん。よくわからん」

そう類と軽快なやり取りを繰り広げた彼女は、永原 双葉(ながはら ふたば)。類と太陽と同じ学年、同じクラスで、春を含む4人は、所謂、幼馴染という間柄であった。

その中でも特に、春は実の姉のような、双葉は実の妹のような関係性を築いていた。

観光地はあるものの、これといってパッとしない田舎町において、その関係性だけが、4人にとっての居場所であった。

こうして歳を重ねて行っても、その関係性は崩れる事なく、円満に続いている。

双葉と春が横並びに、その後ろに並ぶ類と太陽。そんな隊列で通学路をなぞって行く4人。

「そういえば、はるるんは、部活とかに入る予定?」

4人の通う、上里高校は、生徒の自主性という、在り来りを謳っており、選択科目に、部活動と、ある程度、自由にカリキュラムを組む事が出来た。

「勿論! 帰宅部に決まってるじゃん!」

春はそう高らかなに言い放つ。

「え? 帰宅部なんか? 春ちゃんは、運動神経いいから、運動部にでも入るのかと思ってたぜ」

「そんなの絶対に嫌ですよ。中学の時は、何か部活に入らなきゃいけなかったので、渋々やってましたが、本来の私は、自由を愛する女なので!」

太陽はその春の返答に、納得が行っていない様子で、眉をひそめる。

「あのさ。ずっと思っててさ、なんとなくこのタイミングで言うんだけどよ。春ちゃん。なんで俺にだけ敬語なん?」

「それはそうですよ。だって、先輩じゃないですか? 下敷き仲にも礼儀あり? でしたっけ? そういう事てす!」

「でもよ。双葉ちゃんには、敬語使わないだろ?」

「当たり前じゃないですか? 双葉お姉ちゃんは、お姉ちゃんですもん」

「じゃあ、俺もお兄ちゃんでいいじゃんかよ!」

「いえ、おにぃはもう居ますし」

「…………」

そう冷たく突っぱねられた太陽は、再び口を閉ざしてしまう。

「まぁ、なんだ。ドンマイ。親しき仲にも礼儀ありを、下敷きといい間違えていた事にも気づけなくらい、ショックだったんだな」

太陽の隣を歩く類は、どこか勝ち誇ったような表情を浮かべながら、太陽の背中を擦る。

「あぁ。心の友と書いて心友(しんゆうよ)………」

「まぁ、俺は普通にお兄ちゃんだけどな」

「クソ! 何だよ! ひとりっ子の気持ちがお前らに分かるかよ!!」

「えっと………陽くん? 私も、ひとりっ子なんだけど?」

「…………」

太陽は、双葉と春を交互に見やる。

「何でだよ! 俺が何をしたってんだよ! ぬわぁぁぁぁぁ!!」

その瞬間、太陽は奇声だけを残して、走り去って行ってしまう。

「あ〜、太陽の、妹と欲しい欲しい病が発症しちまったか」

3人は、やれやれと顔を見合わせて、始めから何もなかったかのように、穏やかな登校を続けた。