「その君!」
 もしかして、わたし? また?
 桃花は周りを見る。
「おい、そこ! 帽子を取りなさい」
桃花はぐるりと教室を見回した。
教授は桃花を指さしている。白髪が目立ち、眼鏡をかけている。見た目は人のよさそうな初老の男性だ。
教授は不機嫌そうにステージの教壇に立っていた。この教授は、好き嫌いが激しく、気に入らない学生の服装をよく注意するため人気がない。しかし、世界経済の授業は必修のため、多くの生徒が教室に座っていた。
 やっぱりわたしのことか。この教室でわたしのほかに帽子をつけている人はいない。
 桃花は意を決して立ち上がる。
 わたしは服が好きだ。自分を表現するものだと思っている。だから、気に入った服を着ている。もちろん、好みは別れると思うけど、人を不愉快にさせるようなふぁっしょんではない。
 きょうは白いワンピースの上に黒のシースルーの上着を羽織っている。ポイントは白のミニベレー帽。手の平サイズで、右側の耳上にちょこんと乗せている。わたしにしてはシンプルなコーデだ。露出も少ないし、とても学生らしいと思う。これなら文句を言われないだろうと思ったんだけど……。
 教授は桃花の方を見ると、眉をひそめた。
 教授と目が合った。
「この帽子はファッションです。それに女性の帽子は室内でもかぶっていいことになっているのでは?」
 桃花は教授に食いついた。
 ファッションはわたしにとって大事な要素の一つ。なぜ注意されたのかわからなかった。説明してもらいたい。
「ここは俺の教室だ。帽子を取れ」
 教授の顔が赤くなる。
「この帽子は髪飾りです。帽子の機能はありません」
 なぜかこの教授に嫌われているので、毎週いちゃもんをつけられている。
 生徒たちの中にまた始まったという空気が漂った。
「じゃ、授業を受けなくていい。でていけ」
「わたしはここの生徒です。授業を受ける権利があります。学生課に聞いてください。履修登録もしていますし、学生証もあります。先生は帽子をかぶっている人を見るとすべての人にここは俺のいる場所だから帽子を取れと乱暴なことを言うのですか。それにこれはピンでとめる、髪飾りです」
「ううう」
 教授は顔をしかめる。
「そもそも、女性の帽子は機能性というよりもファッションです。授業を妨害する、先生や黒板を見えづらくするなどの理由があるならば、帽子を取りますが、これは飾りです。その可能性はないですよね」
「そんなのは関係ない。気に入らない」
 教授は声を大きくした。教室はしーんとしていた。
「帽子をかぶることで授業を妨害することはないと思います。」
 桃花の声が教室中に響く。
「俺に敬意を払え。帽子を取れ」
 教授が発言を変えることはなさそうだ。
「そうですか。先生が不愉快なら仕方がありません。先生に敬意を表して、帽子を取ります」
 桃花はため息を殺して、耳上の小さな飾りを取って座った。
 顔が真っ赤な教授は、「授業を始める」と言って、教科書を手に取った。
 これってアカハラ? わたしのことが気に入らないからって、ひどいわ。可愛くして何が悪いの? きょうは災難だわ。
桃花は下を向いてこっそりため息をついた。学生たちは教授が怖いため、桃花のほうを見なかった。
 この授業、一年間も受けるのか。やだなあ。
 桃花は気落ちした。揉めてしまったからには、教授のテストやレポートではちゃんといい点数を取らねばならない。ファッションばかり気にしているから、バカなんだといわれるのは我慢できない。
桃花は気合を入れなおして、ノートを取り始める。
「キーンコーンカーンコーン」と授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。息苦しさもあって、学生たちはいっせいに教室からいなくなる。
 はあああ。最悪だった。
桃花はブルーな気持ちを引きずったまま食堂に移動していると、大河原梨美を見つけた。
「梨美! ちょっと聞いてよ」
手を振ると、梨美も応えてくれた。
「さっきの授業で、この帽子が気に入らないって、教授に文句いわれたんだよ」
「え? そんな小さな髪飾りで怒られるの? バカじゃない?」
 梨美は眉根を寄せた。
「やだなあ」
「桃花、目立つからね」
「そういうつもりはないんだけど」
 好きな服を好きなように着る。ただそれだけなのに。
桃花は肩をすくめた。
「梨美のファッション、素敵ね。黒のパンツがハイウェストで足長く見える。梨美のスタイルのよさが引き立つわ」
 とりあえず、愚痴って気が済んだ桃花は大河原梨美のファッションを褒めた。
「そう? ありがとう。これもね、スコーピオンってお店で買ったの」
「いつも梨美が買っている、一点ものを扱うお店だよね?」
 桃花がたずねる。
「そうそう。ちょっとお値段が高いけど、凝ったデザインのベーシックなアイテムが揃ってるの。人とかぶらないものをおいてあるから好きなのよね」
「そうだよね。服って人を表すものね」
 さっきの教授は、サイズの合っていない、肉感を拾っている超タイトなシャツに出っ張ったお腹のせいでウエストが落ちているズボンを履いていたことを思い出した。誰か似合う服を、せめてサイズの合った服を選んであげればいいのに。
 桃花は同意する。
「きょうのパンツは後ろの小さめのポケットと、ここのタックがポイント。この二つがスタイルをよく見せるのよ」
 梨美はポケットを指差した。
一六八センチのモデル体型の梨美によく似合っていた。やっぱり梨美はかっこいい。
桃花は肯いた。
桜宮桃花と大河原梨美は、「メタモルフォーゼ」という名のコンビを組んで、インターネットのヨーチューブに動画を配信している。桃花と梨美はともに灯京大学の三年生だ。
桃花の本名は田中幸子。本人いわく本名が地味すぎてコンプレックスなので、「桜宮桃花」という通称を使っている。ロリータや着物ミックスのファッションにはまっていて、古着屋さんや着物屋さんに通い、普段のコーデにも少しずつ取り入れている。
ヨーチューブの動画配信をしていることもあり、最近では「桜宮桃花」と呼ばれることが多くなった。
梨美は反対に本名でヨーチューブに出ている。うらやましいことに梨美の本名は「大河原梨美」という。ドラマチックな名前だ。
昨日出した動画の反応を確認すると、コメント欄に荒らしがきていた。
「あ、またチビとかブスとか言っている奴がいる。似合わないとか余計なお世話。これは個性! アンティークレースを使って可愛くしているの。失礼だなあ」
 桃花はつぶやいた。
桜宮桃花は一五七センチ、ごく普通の体型だ。梨美と並ぶとデコボコしているが、座っていれば、目立たない、はずである。
桃花は姿勢を正した。
「言いたい奴には言わせておけばいいのよ」
 梨美が学食の日替わりランチのボタンを押した。きょうは山菜うどんに白身フライだ。
 桃花も同じ日替わりランチのチケットを購入して、列に並んだ。
「メタモルフォーゼ」は現役大学生によるキャンパスライフの紹介や大学生の悩みや考えをリアルに紹介。今どきの女子大生の生態がわかると好評だ。人気が出てからは、大河原梨美は個人のショート動画を出していて、ライフスタイルやファッションのインフルエンサーの仕事も請け負うようになった。
 イマドキの子は揉めるのが嫌いだ。他者に疑問を投げたり、意見を述べることを避ける傾向がある。ただし、それは現実社会に生きる場合だ。ネット上では別人格があったりもする。炎上させたり、バズらせたりと、他人の行動に便乗するのが好きな人もいる。
 視聴者や視聴率に振り回されるのはよくないっていくけど。やっぱり気になるのよね。反応がよかったはずなのに、風向きが突然変わることがあるから、コメント欄は注視している。
桃花は「桃花の独り言」という個人チャンネルを開設、動画をアップしていたが、衝突を恐れず、率直な意見を言う桃花がすごいとウケていた。
リアルでは我慢していて、誰かがズバッと言ってくれるのを待っていたのだろう。
昨日、「桃花の独り言」でアップした動画の内容は、大好きな先輩アイドルの岸辺綾音が男性と一緒にいる姿を週刊誌にすっぱ抜かれた記事を読んだ感想だ。
五月二十八日、岸辺綾音の恋愛を芸能オンラインがすっぱ抜いた。
『ラストアイドルの秘めた愛』『もうアイドルは卒業?』と見出しに書かれ、アイドル岸辺綾音は窮地に立たされた。
岸辺綾音は、顔が小さくて、潤んだ大きな瞳、つやつやの唇。サラサラのロングヘア。清く正しいラストアイドル、今世紀最大のアイドルとも言われている。
女の子なら一度は憧れるスーパーアイドルで、桃花も昔から推していた。芸能事務所が同じになった縁で、時々話しかけてもらえるようになった。桃花にとって岸辺綾音はまさに神アイドルなのである。
その神アイドルに浮いた話が出た。
(綾音先輩を守らなきゃ。アイドルを続けてほしい)
桃花は考えた。
「アイドルだって、恋したっていいじゃない? 芸能人が恋愛して何が悪いの? 恋することは悪いことじゃない。幸せになってほしいな」
桃花は「桃花の独り言」で自分の意見を配信し、反応が良かったこともあり、「メタモルフォーゼ」の方でも、「緊急企画! アイドルだって恋愛したい」というタイトルの動画をエービーコミュニケーションズに内緒で発表した。
スマホにネットニュースの配信が届いていた芸能ニュースはどこも岸辺綾音の恋人報道でいっぱいだった。報道記事の下の方にヨーチューバー・桃花のコメントが引用されていた。
「アイドルだって、恋をしてもいいと思いませんか」
 たしかにきのうヨーチューブで発言した。大したことをいったつもりはなかったんだけどなあ。締めの言葉に使われるなんて光栄だけど。
コンビのチャンネルと個人のチャンネル両方、ヨーチューブの視聴回数も、トイッター、エンスタも爆発的にいいねボタンが押されている。
芸能オンラインの綾音先輩の写真を眺めていたら、やっぱり可愛かった。相手の男性について追及がないのは一般人だからか。この男性、お洒落なシューズを履いているなあ。お金持ち? さすが綾音先輩の恋人(仮)。どんな人なのか知らないけれど。
桃花は首をひねる。
「桃花のチャンネル、すごいバズってるね。桃花はみんなが疑問に思いながら無視している出来事に光を当てるのが得意だよね。その嗅覚、さすがだと思う」
 梨美が笑った。
おまけに「メタモルフォーゼ」の動画のコメント欄にも様々な意見が書き込まれていた。
「推しの綾音先輩のことだったしね。こんなつまらない動画を出すなってお叱りコメントを書き込むなら、見ないでくれって思う。べつに絡んでほしいわけじゃないから」
「それでも見てしまうのは、桃花の意見が聞きたいんだよ。みんなの気になることを桃花が素直に代弁してくれてるって思っているんじゃない? それにヨーチューバーだから目立ってなんぼじゃない?」
 梨美が桃花の肩を叩く。
「わたしは、ただ綾音先輩がアイドルをやめちゃうかもしれないって心配して、動画をアップしただけなのになあ。推しなんだもの」
「で、テレビに出るの?」