あの翌日から、僕は平日は河原で伊藤さんの話を聞く日々が続いている。
テストはとうに終わり、夏休みに入って一週間が過ぎた。
制服姿だった僕たちは私服で会うようになり、毎日午前中の一時間ほどをここで過ごしている。
念のため、連絡先も交換済みだ。


僕は、まだ小説の構想が浮かばなくてプロットも立てられていないけれど、彼女の話を聞くたびにあともう一歩で書きたいものが浮かびそうな気持ちになっている。
そのせいか、三日目には僕の方から伊藤さんに質問をすることも増えた。


初日は、彼女と窪内先生の関係を聞いた。
徒歩一分の距離に伊藤さんの家と先生の実家があり、ふたりのお兄さんが同級生だった縁で家族ぐるみで仲良くなったこと。
幼い頃は、両家で遊びに行ったりお互いの家で食事をしたりしたこと。
お兄さんと伊藤さんは十歳差だったため、気づけば面倒見のいい窪内先生に懐くようになって、そのまま初恋になったこと。
聞けば聞くほど、彼女の恋バナは王道の少女漫画のようだった。


「結婚まであと二週間くらいかぁ……。聞いたときはまだ先だと思ってたんだけどな」


昨日は、両家の家族が集まって食事をしたらしい。
伊藤さんの家で行われた食事会は、すでに結婚したお互いのお兄さん一家も参加し、随分と賑やかなものになったのだとか。
そして、先生の婚約者も来たのだという。


「すごく綺麗な人だったよ。洋ちゃん、学生時代は全然モテなかったって言ってたのに、やるじゃんって感じ……。同じ大学出身で、洋ちゃんと同い年なんだって」


沈んだ声が、セミの鳴き声にかき消されていく。
いつもコロコロと変わる表情は、今日はずっと暗いまま。
僕とも目が合わなくて、彼女の視線はずっと川に向けられていた。


「いいなぁ……。私もせめてもう少し年が近かったらな……。って、だからって恋愛対象になれるかはわからないけどね!」


無理に笑っているとわかるから、どう声をかければいいのかわからなかった。
下手な慰めも、上辺だけの言葉も、伊藤さんを深く傷つける気がしたから。


「……そんなに好きなんだね」

「うん、十年物の恋心だもん」


すごいな、と思う。
そんな風に自分の気持ちを素直に言えることも、叶わない恋と向き合えていることも。
僕が彼女と同じような立場なら、きっとこんな風にはなれないだろう。


「結婚式には私も呼んでくれるんだって。鈍感って罪だよね。でも、家族にも洋ちゃんにも私の気持ちはバレたくないから、絶対に笑顔でお祝いするの」


僕には、伊藤さんの気持ちがわからなかった。
諦めているはずなのに、どうしていつまでも気持ちを引きずっているのか。
こんな状況でも、みんなの前では笑っていようとするのか。


けれど、心のどこかではわかっている。
本当に好きだからこそ、恋心を消そうとしても消えないことも。
窪内先生や家族の手前、彼女がそうするしかないことも。


恋をしたことがなくても、感情は思い通りに動かないことくらいは知っている。
だから、泣きそうな顔で笑っている伊藤さんの気持ちが、少しだけ……ほんの少しだけわかる気がした。


「……伊藤さんはそれでいいの?」

「え……?」

「先生に気持ちを伝えなくて、本当にいいの?」


目を見開いた伊藤さんが、僕の顔を見る。
今日初めて、彼女と真っ直ぐ目が合った。
伊藤さんを見つめ返せば、程なくして彼女が自嘲交じりに微笑んだ。


「やだな……。伝えたところで困らせるだけでしょ。洋ちゃんはもう結婚するし、これからもずっと家族ぐるみの付き合いは続くと思う。どう考えても、私が気持ちを伝えたらお互いに気まずくなるだけじゃない?」

「確かにそうだと思う。でも、そうしたら伊藤さんだけがずっと苦しいままなんじゃない? それって、伊藤さんにとって後悔することになるんじゃ……」

「いいの!」


きっと僕を睨んだ伊藤さんが、強い口調で言い放った。
見かけによらず、彼女は気が強い人だと思う。
けれど、こんな風にきつい声音を聞いたのは初めてだった。


「私の恋はどう頑張っても叶わないから……。だからせめて、好きな人の幸せを願うって決めたの」


震える声には、涙が混じっていた。
それなのに、その言葉には伊藤さんの真っ直ぐな想いと決意がこもっている。


どうしてそこまで……と思う。
もし僕が誰かを好きになったとして、僕には敵わない恋の相手の幸せを願うなんてできる気がしない。
反して、彼女のひたむきな双眸からは本心であることが伝わってくる。
グルグルと思考を巡らせていると、伊藤さんは僕から顔を逸らし、背中を向けたまま手の甲で涙を拭った。


「っ……今日は解散!」

「伊藤さん……あの……」

「謝らないでよ! 別に宇多川くんに泣かされたわけじゃないんだから!」


彼女は立ち上がり、大きく深呼吸をした。


「明日も同じ時間に集合ね」


そして、またしても一方的に決めてしまうと、僕を見ることなく立ち去った。
河原に残された僕は、遠のいていく後ろ姿に声をかけることもできなかった。


それなのに、書きたい……と思ってしまった。
激しい濁流に押されるような、衝動的な感覚。
ただのクラスメイトでしかなかった伊藤さんの物語を、僕の言葉で書きたい。
そう、思わされたのだ。


怒られるかもしれない。
軽蔑されるかもしれない。
人を題材にして書くことはともかく、あのとき冗談で言ったのと違って本気で書くのなら、彼女本人の許可も得ずに書こうなんてよくないことだろう。


けれど、僕は今すぐに書き始めたくなった。
書かなければ後悔する、という確信すらあった。
ポケットからスマホを取り出し、メモアプリを起動する。
アイデアも書きたいシーンも忘れないように、ただ必死に打ち込んでいった。


気づけば二時間以上が過ぎ、日は随分と高くなっていた。
橋の下にいても猛暑の気温のダメージは大きかったのか、脳がくらりと揺れるような感覚がして、慌てて持っていたスポーツドリンクを飲む。


「あつ……」
渇いた喉と身体に液体が染み渡っていき、眩暈が落ち着いていく。
すぐに立てる気はしなかったけれど、僕は握ったままのスマホの中に込めた物語のことばかり考えていた。






翌日からも、伊藤さんは欠かさずに河原に来た。
彼女が姿を現さなかったのは、塾の模試や家の用事があるときだけ。
それは僕も同じで、次の日の約束をしなくても伊藤さんと河原で会うことを予定に組み込んでいた。


あの日以降も、彼女は自分の恋の話をした。
他愛のない話しかしない日もあったけれど、伊藤さん自身が話を聞いてほしいんじゃないかと思うほど、彼女の方からぽつぽつと話し出すことが多い。


そうして八月に入り、お盆を迎える頃。

「小説はどう? 書けてる?」

初めて、伊藤さんの方から小説の進捗について尋ねられた。


あれから数日経った頃、僕は彼女に『ようやく書き始めた』とだけ伝えていた。
すると、意外にも伊藤さんは『頑張ってね』と言っただけで、それ以降は一度も小説について触れてくることはなかった。
正直、ありがたいと思い、僕からもなにも言わなかった。
だって、彼女をそのままヒロインにしていることをまだ話せていないから。


(これ、完全に言うタイミングを逃しちゃったな)


そう思いながらも、このままではいけないこともわかっている。
だから、僕は伊藤さんを真っ直ぐ見つめ、意を決して口を開いた。


「あ、のさ……」

「うん」

「あの……」


妙な緊張感が込み上げ、言葉が出てこない。


「もしかしてあんまり進んでない感じ? でも、締め切りがあるんだよね? 間に合いそう?」

「いや、締め切りには間に合うと思う。順調に書けてるし、このままいけば見直す時間も取れそうだよ」

「じゃあ、どうしてそんなに浮かない顔してるの?」

「あー、えっと……怒られるかもしれないんだけど」

「うん?」

「書き終わったらわかると思うから、もし伊藤さんが怒るならそのときに全部受け止めます。だから、今はなにも訊かないでほしい」

「え~っ? なにそれ? 気になるんだけど」


苦笑する彼女に、「ごめん」とだけ言う。
程なくして、伊藤さんがふっと口元を緩めた。


「いいよ、わかった。でも、あの約束は守ってね? 一番に読ませてくれるって話」

「あ、うん。それはもちろん」


自分でも驚くほど素直に頷けたことに、少しだけ戸惑った。
ただ、彼女に読ませることも、それも他の誰でもなく一番に……ということも、僕の中ではすでに当然のような感覚になっていた。


毎日話を聞いているうちに、親近感が湧き始めたのかもしれない。
お互いの秘密を共有していることで、どこか仲間意識が芽生えていたのかもしれない。
けれど、たぶん一番大きな要因は、物語のヒロインが伊藤さんだから。
彼女の話を書きたいと思ったから。


「じゃあ、今日はそろそろ帰るね」

「あ、うん」

「今日はさ、これからドレスを買いに行くんだ」

「ドレス?」

「結婚式に出席するのはいいけど、私ドレスを持ってなくて。昔、お兄ちゃんと洋ちゃんのお兄ちゃんのときに着たやつはもう着れないし」

「そう、なんだ……」


どう言えばいいのかわからないせいで、声が勝手に沈んでしまう。


「やだ、そんな顔しないでよ! ママが『好きなやつ買っていいわよ』って言ってくれたから、とびきり可愛いドレスにするんだ~」


明るい笑顔なのに、どこか痛々しい。


「うん」


ただ頷くしかできない僕を見た伊藤さんは、静かに川に視線を遣った。


「それでね、洋ちゃんに『新菜ってこんなに可愛かったっけ』って思わせてやるの」


流れていく水を見つめる真っ直ぐな瞳が、微かに揺れる。
綺麗な横顔なのに今にも泣きそうで、どうしてだか僕まで苦しくなる。
胸の奥が掻きむしられるような感覚を抱き、清々しい青空が憎く思えるほど苛立って無性に泣きたくなった。


「って、だからそんな顔しないでってば」


再び僕を見た彼女が、困ったように眉を下げた。
泣きたいのに泣けないと物語っているその顔に、今度は胸の奥がずきんと痛んだ。


(あ、れ……? もしかして……)


何度も何度も物語の中で見てきた、主人公たちが恋の堕ちる瞬間。
自分もまさしく今そのときに直面したのだと気づき、言葉を失くして目を見開いてしまった。


「……宇多川くん?」


怪訝そうな顔を向けられて、ハッとする。
たった今、気づいた自分自身の心に、僕自身がまだどうすればいいのかわからなくて……。


「ごめん、今日はもう解散! っていうか、今日でもう終わりにしよう!」


一方的に言い放ち、勢いよく立ち上がった。


「えっ? 待って、なに――」

「ごめん」


混乱する伊藤さんを置いて、土手を駆け上がる。


「宇多川くん! ちょっと待って!」


背中から僕を呼ぶ声が聞こえたけれど、振り返りもせずに向かって猛ダッシュで走り出し、最寄り駅に向かった。
ギラギラと照りつける太陽の下は、息をするだけでも苦しい。
徒歩数分の距離であっても、炎天下の中を全速力で走るのはとてつもない運動のように思えた。
けれど、万が一にも彼女が追いかけてきたら……と考え、足は止まらない。


見えた駅の改札口を通り抜け、ホームを目指した。
階段を駆け上がったあとで、肩で呼吸をしながら空を仰いだ。


「最悪だ……」


息も絶え絶えに零した小さな声が、ホームの片隅に消えていく。


(好きだってわかった途端に、失恋が決定するような相手を好きになるなんて……)


まさか、と思った。
ありえないだろ、と自分に問いかけた。
それでいて、心の中にある感情は恋心だというのもわかっていた。


微かに甘くて、心臓が掴まれたように苦しくて。
笑顔を思い出せばむずがゆくてくすぐったいのに、切なそうな横顔を思い出せば息ができなくなりそうな感覚に包まれる。
初めて知った、恋にちなんだ切ないという感情。
小説や漫画で知ったものとは比べ物にならないほどの強さと激しさで、僕の胸の奥を締めつける。


恋なんて、知らなくてよかった。
切ない恋なんて、知りたくなかった。
小説家になりたいならきっと役に立つこの感覚は、文字だけで恋を知った気でいた僕には苦しすぎる。


こんな報われない恋心なんて、この夏の暑さに溶けてしまえばいい。
けれど、苦しくてたまらないのに、消えないでほしい……とも思ってしまった。
矛盾する気持ちも恋だというのなら、なんて厄介で面倒くさいのだろう。


それでも、この感情は僕だけのもの。
誰にも踏み入れることは、きっとできない。
そう思うと、どこかに閉じ込めておきたい宝物のように愛おしくも思えた。


「めちゃくちゃだな……」


ベンチに座り込んだ僕の唇から、乾いた笑い声が零れ落ちていく。
自嘲がこもったそれには、この恋の結末が現れているようだった。


(もう書けないかもしれないな……)


今書いている物語は、完結させられないかもしれない。
毎日一万字近くを紡ぎ続け、完成間近というところだったけれど、今日からはもう一文字も出てこない気さえする。


乾いた笑いすら出てこなくなったとき、スマホが数回震えた。
ディスプレイに表示されたバナーには、伊藤さんからのメッセージが並んでいた。


【どうしたの?】【なにかった?】【明日も待ってるね】


既読をつける気にもならず、最後のメッセージは見ないふりをする。
ひどいと言われても、これ以上は伊藤さんと一緒にいるのが怖かった。
ビルの隙間から見える空はどこまでも青いのに、僕の心の中はまるで灰色のように色褪せていくようだった――。



* * *



夏休みは瞬く間に終わり、二学期に入った。


「ちょっといい?」


始業式の日、伊藤さんは昇降口の前で僕を待ち構えていた。
僕は人目を気にしながらも頷き、彼女に指定された裏庭へと向かう。


「なんでずっとメッセージを無視してるの? さすがの私でも普通に傷つくんだけど」

「うん。ごめん……」


僕があまりにも素直に謝罪を零したからか、伊藤さんは二の句を継ぎ損ねたようにたじろいだ。


「今日は絶対に行くから待っててほしい」

「……夏休み中、ずっと待ってたんだけどね」

「ごめん……」

「もういいよ。私が勝手にしてただけだし……。っていうか、本当は助けられてたのは私の方かもしれないしね」

「え?」


彼女は意味深に微笑むと、「放課後にね」と言って立ち去った。
僕はその意味がわからないままにしばらくして教室に向かい、特にやる気も出ないまま始業式が終わるのを待った。


HRでは、窪内先生が結婚の報告をした。
報告のタイミングは、伊藤さんに聞いていた通り。
僕は驚くことも騒ぐこともなく、少し離れた席にいる彼女の顔をそっと確認した。
その横顔には笑みを浮かべているようだったけれど、逆光のせいか表情がよく見えない。
ただ、勝手に伊藤さんの心情を想像してしまい、胸の奥が締めつけられた。


不協和音のようにギシギシと軋むような不快な音と、鋭い爪を立てられたような痛み。
勝手に傷ついているだけなのに、幸せそうに笑う窪内先生に苛立ってしまう。
彼女の横顔が見ていられなくて、先生の顔を見るのがあまりにも嫌で、僕はHRが終わると同時に教室から逃げるように飛び出し、昇降口に向かった。


八月はもう終わるというのに、夏はまだ終わらない。
そんな風に感じさせるほど今日も暑くて、河原の橋の下に着くまでにしっかりと汗をかいた。
何度も座ったあたりに腰を下ろし、息を吐く。
リュックからA4サイズの封筒を取り出したところで、砂利を蹴るような音が聞こえて振り返った。


「早くない?」

「今日くらいは先に待ってるべきだと思っただけだよ」

「よしよし、いい心がけだ」


冗談めかした伊藤さんは、当たり前のように僕の隣に腰を下ろした。


「それで? 書けたの?」

「うん。書けたよ」


さっき出したばかりの封筒を、彼女に差し出す。


「コンテストの締め切りは明後日だから、サイトには明日公開する。だから、正真正銘、伊藤さんが一番の読者だ」

「うん」


伊藤さんは封筒を受け取ると、原稿用紙を取り出した。


氷室川唱(ひむろがわうた)


僕のペンネームを読み上げた彼女が、「どういう由来でつけたの?」と微笑む。


「少しでも読者の先入観をなくすために、性別がわからない名前にしたいと思ってて……。でも、名前自体には深い意味はないよ。ただのアナグラムだ」


宇多川広夢をひらがなにして並べ直し、作家っぽいような名字をつけ、名前には性別を断定しづらい漢字を選んだだけ。
作家名の決め方は色々あるだろうけれど、僕は姓名診断なんかは気にしなかった。


「そっか。素敵な名前だね。宇多川くんっぽい」


小さく頷いて笑った伊藤さんに、胸の奥が高鳴る。
あの日よりもずっと鮮明に、そして大きくなった想いが、僕の中で彼女への恋を叫んでいる気がした。


「今日中に読んで、明日感想を言うね」

「あ、いや……感想は……」

「ダメだよ。ちゃんと聞いてくれなきゃ。だって、これは私の話を聞いて浮かんだ小説なんでしょ?」

「それは……」


僕の内心を見透かすような目に、とうとう覚悟を決めるしかないのだと悟る。
息を深く吐いた僕は、こぶしを握り締めて伊藤さんを真っ直ぐ見つめた。


「この物語のヒロインは君だ」

「うん」

「でも、主人公は君じゃない」


僕の言葉に、彼女が小首を傾げる。


「どういうこと?」

「読めばわかると思う。その上で苦情があるなら、ちゃんと全部聞くよ」


わずかに困惑していた様子だった伊藤さんは、程なくして真剣な僕に向き合うように小さく頷いた。


「わかった。じゃあ、また明日ここで待ち合わせね」

「うん」


きっと、僕たちがここで待ち合わせをするのは、明日が最後になるだろう。
ただ、たとえどんな感想であっても、苦情や不満や怒りであっても、僕は彼女の言葉ですべてを聞きたいと思っていた――。






翌日は、朝からずっと落ち着かなかった。
学校に着くと、つい伊藤さんの姿を探してしまい、日中はずっと彼女のことばかり目で追いそうになっていた。
周囲に悟られないように気をつけていたけれど、もしかしたら伊藤さん本人には気づかれていたかもしれない。 
ただ、そうだとしても、彼女の反応が気になって仕方がなかったのだ。


ようやく放課後になったときには、今すぐに伊藤さんのもとに行きたいような、やっぱり聞くのが怖いような……複雑な感覚を抱えていた。
すべてを受け止めたい気持ちは、確かにある。
けれど、いざそのときが目前に迫ってくると、ときおり衝動的に逃げ出してしまいたくもなった。


(っていっても、もう覚悟を決めるしかないんだけど)


すでに、サイトでは投稿が終わっている。
まだ非公開だから誰にも読まれていないけれど、彼女の感想を聞いたら公開とコンテストへのエントリーをするつもりだ。
そして、もし……万が一にも伊藤さんが『エントリーしないで』と言ったら、サイトに投稿したものはそのまま削除しようと思っている。


何年も参加し続けていたコンテストだけれど、ヒロインのモデルにした彼女がどうしても嫌だと感じるのなら、やっぱりエントリーするべきじゃないと思ったから。
そうなったら、僕はとても後悔するかもしれない。
それでも、作品を書いていたときも今も、この決意を曲げようとは思わなかった。


不意に砂利を踏む音がして、振り返る。
僕の斜め後ろあたりに、伊藤さんが立っていた。


「……言いたいことはいっぱいあるけど、とりあえず率直な感想を言うね」


真っ直ぐな目に、鼓動が大きく跳ねる。
緊張と不安、それから単純な恋心。
ただ彼女が来てくれたというだけで嬉しくて、自分が抱える感情の重さにキャパオーバーしてしまいそうだった。


「うん」


小さく返事をするだけで精一杯だった僕の隣に、伊藤さんが腰を下ろす。
人ひとり分ほどの、ぎこちない距離。
けれど、僕の右側に彼女がいるだけで、世界が輝いて見える気さえした。
バカみたいだけれど、本気でそう思う。


そんな僕を静かに見つめた伊藤さんが、一息ついてから口を開く。


「今までのことを思い返すと悔しいけど、すっごくおもしろかった!」


予想外の言葉だった。


「え……?」


そのせいで僕は一拍反応が遅れ、彼女は呆ける僕に構わずに続けた。


「感情表現に厚みがあるっていうか、説得力があるっていうか……主人公とヒロイン、どっちにも感情移入させられて、自然と共感してたの。しかも、切ないのに胸がキュンキュンして、どっちの恋も叶ってほしいって思わされたんだよね」


一息で話し切った伊藤さんの表情は、興奮でいっぱいだった。
彼女に気圧されている僕は、ただ呆然と話を聞くことしかできない。


「もう、ずるくない? 贔屓目なしに、すっごくいい話だった! 私、宇多川くんの作品は受賞すると思う!」


ずいっと体を前のめりにした伊藤さんにつられるように、軽く後ずさってしまう。


「……って、ちゃんと聞いてた?」

「あ、うん……それはもちろん……。でも、あの、ちょっと……」


しどろもどろに答える僕に、彼女が不思議そうに首を傾げる。


「や……なんか、予想外の反応っていうか……面と向かって感想を聞くのも初めてなのに、ここまで褒められると思わなくて、感情が追いつかないんだ……」


頬が熱い。それどころか、耳まで熱を帯びている。
恥ずかしさから上がった体温は、残暑の気温もあいまって僕の体を熱くした。


「意外な反応……。宇多川くんでもそんな風に照れたりするんだね」

「そりゃあ……知ってる人に小説を読んでもらうのは初めてだったんだから当たり前だよ。昨日は緊張して一睡もできなかったし、今日は朝からずっと落ち着かなかった」

「確かに。学校でずっとソワソワしてたよね」


クスッと笑った伊藤さんが、「あんな宇多川くん、貴重な気がする」と意地悪く言う。


「なんとでも言ってよ……。今の僕は、伊藤さんに感謝しかないから」

「っ……。なんか、そう素直だと、調子が狂っちゃうんだけど」


彼女がどぎまぎしたように視線を逸らし、唇を尖らせている。
むずがゆいような空気の中、そのあどけない横顔に笑みが零れた。


「……宇多川くん、この作品のヒロインは私だって言ったよね?」

「うん」


控えめに訊かれて、しっかりと頷く。
すると、背けていた顔を僕に向けた伊藤さんが、僕を真っ直ぐ見据えた。


「じゃあ、この作品の主人公は宇多川くん?」


今度はさっきよりもはっきりとした声音が響き、僕は静かに首を縦に振った。


「そうだよ」


僕の答えに、彼女が困ったように微笑む。


「なにそれ……」


僕が書いた作品のヒロインは、伊藤さんがモデルになっている。
そして、その主人公は〝僕〟だ。


もともとはヒロイン目線で進んでいく物語は、彼女の恋バナをもとに創り上げたものだった。
ヒロインは年の離れた幼なじみに片想いしていて、けれどその相手には大切な恋人がいて、想いを告げないままに失恋する。
ラスト間近まで書き上げていたのは、そんな話だった。


けれど、あの日。
僕が伊藤さんへの想いを自覚した、あのとき。
僕はもう続きを書けないと思って、今回はコンテストの参加も諦めるつもりだった。


ところが、帰宅後、ふてくされるような気持ちでベッドで横になっていると、次々に紡ぎたい言葉が浮かんできたのだ。
書きたい。
僕が思う物語を、一言一句漏らさずに紡ぎ切りたい。
そんな気持ちに気づくや否や、僕はノートパソコンに向かい、それまでに書いていた十万字近い作品を削除して、新しい物語を書き始めた。


主人公は、まだ恋を知らない少年。
ただのクラスメイトでしかなかったヒロインとひょんなことから話すようになり、彼女が切ない恋をしていると知る。
そして、ヒロインの話を聞いているうちに、いつしか〝僕〟は彼女に恋をしてしまう。
失恋決定の、初恋だ。


〝僕〟は恋をしたことで切なさを知り、こんな気持ちは知りたくなかったと嘆き、夏の暑さに溶けてしまえばいいと思う。
反して、この気持ちは自分だけのものだと、強く強く思う。
恋人と結婚間近の男、そんな幼なじみを一途に想い続けてきたヒロイン、不覚にも彼女に恋をしてしまった〝僕〟。
ありがちなトライアングルは、ヒロインと〝僕〟の失恋をもってエンディングを迎える。
そう――ふたりとも恋が叶うことはなかったのだ。


そして、僕と伊藤さんだけには、この物語の主人公の想いがノンフィクションだとわかる。
僕が想定していた通り、彼女は僕が小説に込めたものに気づいたようだった。


「こんな告白、初めてなんだけど」

「僕も初めてだよ」

「……私、失恋したばかりなんだけど」

「安心してよ。僕なんて、自分の気持ちを自覚した瞬間に失恋が決定してたよ」


自嘲交じりの言葉は、無駄に明るい声で発しておいた。
伊藤さんが少しでも気まずさを抱かないように。


「私、宇多川くんのおかげでちゃんと諦められそうな気がしてるんだ」


ひとり感傷に浸りかけていると、彼女がぽつりと呟いた。


「洋ちゃん……先生への想いは絶対に消せないって思ってたけど、今は案外そうでもないのかもって思う。こんな風に思えるようになったのって、たぶんずっと宇多川くんが私の話を聞いてくれてたからなんだよね」

「そっか」


伊藤さんが自分の恋と決別できそうだからと言って、僕が彼女の恋の相手になれるわけじゃない。
それくらいのことはわかっているから、あくまで冷静に頷いた。


「だから、そうでもないかもよ」


ところが、とんでもない方向から剛速球が飛んでくる。
受け損ねて頭にぶつけられたような衝撃を食らった僕は、悪戯っぽく笑う伊藤さんに見惚れかけてしまっていた。


「……なんてね。今はまだわからないけど」

「えっ? 待って……今のって、どういう――」

「さぁ? 〝僕〟にはまだチャンスがあるんじゃない? ってことかも?」


明るい笑顔は、まるで小悪魔のもの。
夏に溶けゆく僕らの恋は、もしかしたらまだ終わらないのかもしれない――。





【END】
Special Thanks!!


*執筆*
2024/8/20~2024/8/28

*公開*
2024/8/28