翌日も、僕は河原を訪れた。
曇天の今日は、昨日よりも気温は低い。
ただ、湿度が高くてじめじめする上に風もなくて、橋の下は蒸し暑かった。


(初めて来たのが今日だったら、読書をしようとは思えなかったかもしれないな)


昨日とほとんど変わらない位置に腰を下ろし、生ぬるい風を受けながら息を吐く。


(っていうか、伊藤さんは本当に来るのかな)


そもそも、これは伊藤さんから持ちかけられた約束だ。
彼女は、たぶん約束を破るような人じゃない。
クラスメイトとしての伊藤さんしか知らないけれど、遅刻はしないし授業態度も真面目、提出物だっていつもきちんと出している印象だ。
そういう面を知っていれば、きっと来るだろうとは思う。
反して、なぜ彼女がこんな提案をしたのか、未だに理解できなかった。


何度も言うけれど、僕たちは特別親しいわけじゃない。
これまで必要以上に話したことはないし、伊藤さんと雑談をしたのは恐らく昨日が初めてだった。
そして、昨日の出来事だけを切る取るのなら、お互いにあまりいい印象はないだろう。


僕は、彼女に読書の邪魔をされ、少しからかわれた。
伊藤さんは僕に好きな人を言い当てられ、僕に弱みを握るような言い方をされた。
別に喧嘩をしたわけじゃないし、お互いにお互いの秘密は言わないという暗黙の約束もできた。
とはいえ、楽しい雰囲気だったわけでも、仲良くなれそうだったわけでもない。


そういった総合的な観点から、僕はどうしても彼女の意図がわからなくて……。それを考えているうちに夜は更けていき、朝方になるまで眠れなかった。
読書以外で夜更かしをしたのなんて、初めてかもしれない。


しかも、昨日読んでいた本は、集中して読み切ることができなかった。
もともと好みの題材じゃなかったこと。
途中で邪魔をされて興が削がれたこと。
というふたつの理由に加え、伊藤さんの読めない思惑について考えていたせいだ。
疑問が湧くと答えがわかるまでとことん突き詰めたくなるのは、良くも悪くも僕の癖である。


(って、もう結構経ったよね)


スマホを確認すると、ここに来てから三十分近くが過ぎていた。
確か、彼女は僕よりも先に教室を出ていたはず。
その姿を見て、僕もできる限り急いできたのだから。


どうしたものか、と悩む。
僕は、伊藤さんの連絡先を知らない。
これまで知る必要はなかったし、昨日は訊こうとも思わなかった。
クラスでトークアプリのグループを作るのは、いじめ対策のために学校全体で禁止されているから、そこを通して個別に連絡を入れることもできない。


(まあ、時間は潰せなくはないんだけど……)


昨日読んだ本と、彼女に貸すつもりで持ってきたもの以外に、まだ未読の文庫も持ってきている。
一冊の本があれば、二時間は待てる。
ただ、昨日のようにいいところで中断してしまうことになれば、また興が削がれるだろう。


しかも、この文庫は今日発売されたばかりの好きな作家の新刊なのだ。
ここには急いできたと言いつつ、実は途中で駅前の本屋に飛び込んでまで買ったものだった。
本音を言えば、今すぐに読みたい。
作家のSNSで新刊の告知を見てからというもの、とにかく楽しみで仕方がなかったから。
けれど、好きなだけではなく憧れで損消している作家の作品だからこそ、静かな部屋で一字一句噛みしめるように読みたい。
ジレンマのせいか、早く帰りたくなってきた。


うずうずする心を落ち着かせるように、息をゆっくりと吐いたとき。

「宇多川くん!」

背後から高い声に呼ばれ、反射的に振り返った。


「ごめんね……!」


駆け寄ってきたのは、伊藤さんだ。
どうやら、彼女はここに来るまでにも走ってきたらしい。
額には汗をかき、制服のシャツの袖口が細い腕に張りついていた。


「待たせたよね? 私、本を貸す約束したくせに、家に忘れてきちゃって……」


息を切らしたままそう言った伊藤さんの話から、彼女が一度家に帰っていたのだと察する。
伊藤さんが提案したんだろ、とか。
それなら、別に今日じゃなくてもよかったのに、とか。
学校で言ってくれれば、僕は今頃家で新刊を読めていたのに……とか。
浮かんだ言葉は、色々とあった。


「いいよ、そこまで待ってないし」


けれど、申し訳なさそうな顔をしている彼女を前に、自然と気遣いが先に来ていた。


「本当にごめんね。暑かったでしょ? これ、飲んで!」


矢継ぎ早に話した伊藤さんが隣に座り、僕の胸元あたりにペットボトルを押しつけてくる。
グッと力を入れられて、思わず受け取ってしまった。
手にしたそれは、とても冷たい。
今の今まで冷蔵庫か自動販売機の中に入っていたのだろう、と想像できる。


「いくら? お金払うよ」


ただ、クラスメイトからもらうのは気が引けて、財布を出そうとする。


「あっ、いいのいいの! 遅れたお詫びだし、それうちの冷蔵庫から持ってきたやつだから!」


ところが、明るい声に制された。
少し悩みながらも、「じゃあ……」と小さく頷く。


「お言葉に甘えて……ありがとう」

「ううん。私の方こそ、待っててくれてありがとう」


笑顔で素直にお礼を言われて、一瞬面食らった。
こういうとき、僕ならきっともう一度謝罪をするだろう。
それなのに、彼女は迷うことなくお礼の言葉を口にした。しかも、屈託のない笑顔とともに。


たとえば、しつこく謝罪をされると、どうすればいいのかわからなくなることがある。
相手が罪悪感からそうするのだとわかっていたとしても、気まずい空気が続くこともあって、ときにはうんざりしそうにもなる。


けれど、今の伊藤さんみたいに自然とお礼を紡がれれば、空気が重くなることも気まずくなることもなく、素直に許せてしまう。
もちろん、されたことの度合いによっては許せないときもあるだろうけれど……。少なくとも、さっき脳裏に浮かんだ文句は僕の頭の中から綺麗さっぱり消え、彼女に対する不満もなくなっていた。


正直に言うと、この一瞬の出来事で伊藤さんへの見方が一気に変わった。
容姿端麗で、成績もよく、男女問わず人気者。
マドンナと称されるには、充分なものを持っている人。
そんな印象だったのに、素直で性格もいい人なんだろうと思わされた。
なんというか、彼女は人たらしな感じがしたのだ。


「早速だけど、昨日の本の感想を聞かせてよ」

「いいけど、伊藤さんが期待するようなことは言えないよ」

「それはなんとなくわかってた」

「そう?」

「うん。だって、宇多川くんは昨日の時点でおもしろくなさそうだったし、結構シビアなこと言われたしね」


昨日とは打って変わって、軽快に会話が進んでいく。
ポンポンと飛び交う言葉が、心地いいような気がした。


「それなのに、僕の感想が聞きたいの?」

「うん。こんなに感動するのにあそこまで淡々とした態度だと、逆に興味が湧くっていうか……。だから、正直に言ってね」


言わんとすることは、理解できなくはない。
相槌を打った僕は、とりあえずオブラートに包むのはやめようと思った。


「まず、やっぱり特に感動することはなかったかな。泣けないし、ウルウルもしない。僕の好みじゃないという意見は変わらないし、読み返したいとも思えなかった」

「そっかぁ」

「でも、文章力も表現力も素晴らしいし、感情移入はできた。泣くほどじゃないけど、心が揺さぶられる表現もあったよ」

「そうなんだ。それは意外かも。全部否定するのかと思ってた」

「そんなことしないよ。あくまで好みじゃないだけで、作品としておもしろくないってわけじゃないからね。それに、どんな作品にも必ずいいところがある」

「へぇ。そういうものなんだね」

「当然だよ」

「私は、おもしろくないって思ったら、なかなかいいところを見つけられないかも。ほら、駄作って言葉もあるくらいだし……」


言いにくそうにしながらも、伊藤さんははっきりと自分の意見を述べる。
下手に気を使わなくてよさそうな分、僕も遠慮なく持論を語ってみようと思えた。


「僕に言わせれば、好みかどうかは別として、駄作というのはこの世に存在しない。昨日の作品だって、好みじゃない・感動もしないって言ってる僕みたいな人間でも最後まで読まされた構成力なんてすごいし……」


僕にはないものだ、と思う。
僕自身が一度読み始めた本は最後まで読むと決めているとはいえ、苦手であればあるほど、好みから外れれば外れるほど、読む速度は落ちていく。
文庫本一冊程度なら、たださらっと読むだけならせいぜい一時間半から二時間あればいい僕でも、数日かかることもある。


けれど、昨日の作品は数時間で読めた。
途中で邪魔が入り、興が削がれた……なんて思っていたのに。
つまり、読書をするコンデションや作品のジャンルが苦手な系統ということも踏まえれば、作家側からすれば不利な状況だったのだ。
にもかかわらず、最後まで飽きることなく〝読まされてしまった〟。


読ませる力があるというのは、作家を目指す僕にとってそれだけで魅力的だ。
僕の作品を読んでくれている人たちに対して、僕は同じようにはできない。
僕の場合、読者におもしろくないと感じさせてしまったら、その段階で離脱されてしまうだろう。
もちろん、プロと比べること自体おこがましいとわかっているけれど、その歴然とした差は埋まる気がしなくて悔しくもあった。


「宇多川くんって、本当に作家になりたいんだね」

「えっ?」

「昨日の本は、作品としては合わなかったはずなのに、いいところもたくさん言ったし、すごく悔しそうだもん」


どんな作品には必ずいいところはあるし、苦手だと思っているものであればあるほど、それでも読まされてしまうと悔しい。
そして、嫉妬も生まれてしまうのだ。


「そりゃあ……一応、出版できること自体、本当にすごいことだし……。僕は数年経ってもまだ燻ぶってるんだから、悔しくないわけがないよ」


ふふっと笑った伊藤さんが、僕を真っ直ぐ見つめる。


「すごいなぁ」

「そんなこと……。僕は別にデビューできてないわけだし」

「それでも、夢なんでしょ? だったら、もっと堂々としていいと思う。っていうか、私にはそこまで必死になれるようなことはないや」


肩を竦めた彼女は、自嘲交じりの笑みを浮かべて川に視線を遣った。
その横顔が寂しげに見えて、ドキリとしてしまう。


「夢っていうか、目標っていうか……。どっちにしても、作家業一本で食べていくのは無理だし、きっと伊藤さんが思ってるほどすごくもないよ」


だからなのか、内心では少しだけ動揺が芽生え、ついフォローするような言葉を吐いていた。


「そうかな」

「そうだよ。小さい頃から読書が好きで、気づいたらネットで書くようになって……必然的にコンテストも目にするようになって自然と、って感じだし」

「でも、私なら書こうとも思わないと思う」

「別に、書くのなんて簡単だよ。ネットで投稿サイトを探して登録して、メッセージみたいに文字を打つだけだし」

「書き方の話じゃなくて、小説を書けるようなネタが思いつかないってこと」

「ネタはまあ……僕だっていつでも思い浮かぶわけじゃないよ。今だってそうだし」

「今? もしかして構想中ってこと?」

「え……? あっ、いや……!」


軽快な会話の流れで、つい口を滑らせてしまった。
しまった……と思ったときには、伊藤さんが興味津々の顔で僕を見ていた。


「ねぇ、どんな話を書こうと思ってるの? っていうか、私、宇多川くんの小説が読んでみたい! 昨日は言えなかったけど、本当はすごく気になってるんだよね。ペンネーム教えてよ!」

「言うわけないだろ! 家族にも友達にも小説を書いてることすら言ってないのに!」

「えぇ~……」


不満そうな目で僕を見てくる彼女は、まだ諦めてくれない予感がする。


「いいじゃない。秘密を共有した仲でしょ? この際、ペンネームも教えちゃいなよ」


彼女はそんな風に言ったかと思うと、ふふっと楽しそうに笑い出す。
クルクルと変わる表情は、まるで小説の中のヒロインのようで、つい調子が狂いそうになった。


「そんな軽々しく教えないよ。プロならまだしも、素人がリアルの知り合いにペンネームを教えるなんて……。別にそれを否定する気はないけど、少なくとも僕には無理だから」

「つまんないなぁ……」


今度は唇を尖らせ、僕をじっと見つめてくる。
大きな二重瞼の目があまりにも真っ直ぐで、まごつきそうになった。


「じゃあ、どんな作品を書いてるのかは? それくらいならよくない?」


今さら隠すのも面倒になってきて、まあいいか……と思わされてしまう。
このときの僕は、すっかり伊藤さんのペースに乗せられていることに気づいていなかった。


「ライト文芸だよ。青春系の成長物語とか、たまに恋愛とか……。あと、まあ他にも色々……」

「恋愛も書くんだ」

「青春ものだけどね」

「次の作品はどんなものにするの?」

「それは、まだ……ネタが浮かばないからわからないけど……」

「そっかぁ。ネタってそう簡単に浮かばないものなんだね」

「まあ……今回は苦手なテーマだしね」

「テーマ? テーマがあるの?」

「あ~……いつもは別に気にせず書くけど、次の作品はコンテスト用だから」


一瞬迷いつつもすぐに白状したのは、どうせ話すことになる気がしたから。
これまでのやり取りで、彼女に隠そうとしたところで最終的には答えてしまうことを予想させられたのだ。


「えっ? コンテストに出すってすごくない?」

「いや、別にすごくないよ」

「でも、小説のコンテストでしょ?」


興奮気味に声を弾ませる伊藤さんを見て、ああそうか……と思う。
ネットで小説を書いていれば、コンテストの情報はもちろん、フォロワーさんたちがコンテストに挑戦する姿は珍しくもない。
書籍化や映像化が確約されている大きなコンテストだけじゃなく、ちょっとしたイベント程度のコンテストも入れれば、毎月どこかのサイトでなにかしらのコンテストが行われているからだ。


だから、僕にとってはごく日常のことだった。
今回のコンテストには特に力を入れたいという事情を除けば、コンテスト自体は何度も参加したことがあるし、部活で言えば試合みたいなものだ。


「コンテストって言うとまあ馴染みがないのかもしれないけど、部活で考えれば試合みたいな感覚だよ。そこに向けてしっかり練習や準備をして試合に臨むよね? 僕にとっては普段の執筆が練習で、コンテストが試合って感じ」


明確に言えば、感覚としては違う。
ただ、コンテストに馴染みがない人に説明するには、このたとえがいいと思った。


「そういうものなのかなぁ。コンテストって特別な感じがするけど」

「もちろん、年間で特に力を入れたり絶対に参加したいって考えたりしてるものはあるよ。でも、小さなものだと練習試合みたいな感じっていうか、僕にとってはなんでもかんでも特別ってわけじゃない」


いつの間にか、彼女の目は真剣なものになっていた。
興味本位でもからかうでもなく、本当に純粋に知りたいと思っているのかもしれない。


「それで、次のコンテストのテーマはなんなの?」

「あ~……」

「うん?」


なんとなく口にしづらかったのは、恋愛がらみだからだろうか。
けれど、伊藤さんのあまりにも真っ直ぐな瞳につられるように、ためらいつつも口を開いていた。


「……切ない恋」

「切ない恋? じゃあ、恋愛ものを書くの?」

「まあそうなるね。あまり得意なジャンルじゃないけど、テーマとして決まってる以上は仕方ないっていうか……」


これまでにも、恋愛をテーマにしたコンテストには出したことがある。
けれど、誰かを好きになったことがないせいか、いつもかすりもしなかった。
なんでもそうだと思うけれど、経験に勝るものはない。
つまり、恋愛経験がない僕にとって、恋愛がテーマのコンテストは書きにくいジャンルであり、恐らく少しばかり不利だった。


もちろん、よく言われるように推理小説家が殺人を起こすわけじゃない。
それと同じで、経験がないから書けないというわけじゃないはずだ。
ただ、恋愛をテーマにしたものを書くと、いつもどこか満足できない作品になる。
自分自身で理解できているということは、きっと読者や審査員にも伝わっているに違いない。


「いいね、恋愛もの! 私、漫画でも小説でも一番好きだよ」


そう言われたところで、『そうなんだ』という感想しか浮かばない。
だから、余計なことは言うまいと黙っていると、彼女がパッとひらめいたように明るい笑顔になった。


「ねぇ、書けたら見せてよ!」

「は?」

「宇多川くんの恋愛小説、読んでみたい! 切ない恋って、実際に経験すると本当につらいけど、読むと胸が苦しくなったりすごくキュンキュンしたりするんだよね」


ワクワクした表情を向けられて、ため息を漏らしてしまう。


「さっきも言ったよね? 読ませないし、ペンネームも教えないよ」

「そこをなんとか!」

「……あのさぁ」


昨日の今日で、よくここまで距離を詰められるな、と思う。
すごいというか、僕にはない感覚に引いてしまうというか……だいぶオブラートに包んで言うのなら、ある意味で感心した。
ただ、伊藤さんのお願いを聞く気はない。
今日は、昨日の彼女の勢いに押されてここに来ただけで、僕たちが今後こんな風に付き合うことはないのだから。


「ダメ? 私、本当に宇多川くんの小説を読んでみたいと思ってるんだけど」

「……伊藤さんって、小説も結構読むんだね」

「ああ、うん。意外って言われるけど、テスト期間とか忙しいとき以外は週に一冊くらいは読んでるかも。図書館もよく行くし」


本当に意外だな、と思う。
教室内で漫画の話で盛り上がっている姿は何度も見たことがあるけれど、伊藤さんが小説を読むイメージはまったくない。
昨日僕が持っていた本は随分と話題になった作品だから、申し訳ないけれど彼女はミーハーな気持ちで手に取っただけなのかと考えていたくらいだ。


「そうなんだ。本当に意外だね。学校では読書してる姿は見たことがないし、図書室にも行かないイメージなんだけど」

「あ~、学校はね。私、静かな場所じゃないと集中できなくて……。図書室は行きたいけど、わりと友達と一緒にいることが多いから機会がないんだ。私の周りにいる子たち、漫画しか読まないしね」

「ああ、そういうことか」

「うん。って、話をすり替えないでよ!」


鋭いツッコミを入れられて、バレたか……と心の中で舌を出す。


「宇多川くん、このままうやむやにしようとしてたでしょ?」

「当たり前だよ。昨日も言ったけど、僕は教える気はないし、知り合いに読まれたくない。デビューしたならまだしも、素人だよ? 知り合いに見せる勇気はないね」

「ネットでは公開してるのに?」

「僕は、僕の作品を読む人の素性は知らないし、向こうだって同じだ。伊藤さんだって、SNSで写真とか投稿するだろ」

「それはするけど……友達とも相互フォローしてるよ」

「見られたくないものがあったとして、それを堂々と載せたり呟いたりする? しないよね?」

「そりゃあまあ……」

「僕も同じ。リアルの知り合いが見てる場では、小説関連のことは一切載せない。だから、伊藤さんにも見せたくない」

「はっきり言うなぁ……」


眉を寄せそうになって、川に視線を向ける。


(はっきり言わないと諦めてくれそうにないからだよ)


不満は心の中で呟きつつも、もう帰りたくて仕方がなかった。


「じゃあ、なにかお礼するから!」

「お礼?」

「うん。ご飯やスイーツを奢るのでもいいし、好きな本をプレゼントするとか! あっ、課題を見せるとかでもいいよ!」

「遠慮しておくよ。別に奢ってほしいものはないし、欲しい本はいっぱいあるけど自分で買うか図書館で借りる。課題は……こう見えて、僕も成績は悪くないから困ってないよ」

「……手強い」


ムムムッ……と表現したくなるようなしかめっ面に、思わず噴き出しそうになる。
なんとかこらえつつ、平静を装った。


「だいたい、どうして僕の作品にこだわるの? 僕たちが仲がいいならまだしも、昨日までまともに話したこともないし、お互い特に興味もなかったよね」

「結構ひどいこと言うね……。まあ、変に取り繕われるよりもいいけど」


僕もたいがいだけれど、伊藤さんもそれなりに変わっていると思う。
彼女は、僕がどんなに冷たく突き放してもめげないどころか、あっけらかんとしている。
そんな伊藤さんの知らない一面を知っていくのは、少しだけおもしろくもあった。
だから、僕は帰りたいと思いつつもこうして会話を続けているのかもしれない。


「じゃあ、宇多川くんがしてほしいことがあればする! これならどう?」

「女の子がそういうことを軽々しく言わない方がいいよ」

「心配してくれてるの?」

「そうじゃないけど、僕が変なことを考える奴なら危ない目に遭うかもしれないよ」

「やっぱり心配してくれてるんじゃない。でも、大丈夫だよ。宇多川くんにしか言ったことないから」


だんだん突っ込む気力もなくなってきた。
というよりも、どこか掴みどころがない彼女に振り回されている。


「そんなに言うのなら、僕なりの交換条件を出してみるけど、無理だと思うよ」

「なになに? 言ってみてよ」


きっと、伊藤さんはこのままだと引き下がらないだろう。


「伊藤さんの恋バナを聞かせてほしい」


そう思って条件を出すと、彼女がきょとんとした。


「私の……?」

「そう。さっき、伊藤さんは『切ない恋って、実際に経験すると本当につらい』って言ったよね? ということは、伊藤さんは恋の切なさを知ってるわけだ。で、僕は今、まさにその題材で悩んでる。だから、伊藤さんの恋バナを参考にさせてほしい」


正直、思いつきに近かった。
今の今までこんなことは考えていなかったし、こういえば伊藤さんが諦めるだろう……と踏んでのことだ。


「うん、わかった」

「ほら、やっぱり無理――」

「いいよ」


ところが、彼女は拒否することなくすんなりと頷いてみせた。
今度は、僕の方が驚いてしまう。
恐らく、今の僕は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているだろう。


「正気? 普通は仲良くもない奴に自分の恋愛事情なんて話したくないだろ」

「普通ならね。でも、私は誰にもこの気持ちを言ったことはない上に、もうすぐ嫌でも踏ん切りをつけなきゃいけない。その前に、ひとりくらい私の恋を知ってくれてる人がいてもいいかなって思ったんだよ」


目を伏せた伊藤さんが、「宇多川くんは絶対に言い触らさないと思うしね」と笑う。


「そのまま書くかもしれないよ?」

「いいよ。名前とか変えて、私のことだってわからないようにしてくれるなら」

「いや、でも……」

「往生際が悪いぞ、宇多川くん。提案したのは宇多川くんなんだから、絶対に読ませてね」


にっこりと微笑まれて、逃げ道がなくなったことに気づく。
もしかしたら、まだどうにか拒絶できたかもしれない。
冷たく突き放して、明日からは今まで通り接点のないクラスメイトとして過ごせばよかったのかもしれない。


「わかった」


けれど、まだ決意を固められないままの僕の口は、勝手に動いていた。


「交渉成立! 完成したら一番に読ませてね」


ふふっと、嬉しそうな笑い声が零される。
立ち上がった彼女が、「明日もここに集合ね!」と一方的に決めて手を振った。


「ばいばい」


いつの間にか空は晴れていて、橋の下から出ていった伊藤さんに太陽の光が当たる。
制服の白いシャツが一瞬青みを帯びたように見え、眩しい日差しの中に駆けていく彼女の背中をぼんやりと見送ることしかできなかった――。