「う、ん……?」
なんだか頭がぼんやりする。目を覚ましたヴィクトリアは、額をおさえながらゆっくりと起き上がった。
――じゃらり。
しかしその瞬間、ヴィクトリアは自分の置かれている状況に気づいて、驚きのあまり声を上げた。
「て、手錠!? なんで私、手錠なんてつけられてるの!?」
天蓋のある寝台に括りつけられた鎖。ヴィクトリアの手と足は、その鎖と手錠によって拘束されていた。
(そうだ。確か私、路地で人が倒れているのを見つけてそれで――)
「まさか監禁……?」
殺人事件現場を目撃してしまい襲われて、誘拐された、という可能性はある。
だが自分の見立てではあの女性にまだ息はあったはずだし、もしそれが理由なら、こんな豪華な部屋に拘束はしないように思えた。
「なんなんだろう。部屋……?」
ヴィクトリアは、室内を見渡して顔を顰めた。
(なんだろう? この、少しルーファスを彷彿とさせる、謎の少女趣味の部屋は――……)
ルーファスは昔、ヴィクトリアのためにフリルたっぷりのお姫様のようなドレスを(本人がまだ見つかっていない時から)用意していた過去がある。
ヴィクトリアは何故かその部屋に、同じものを感じた。
まあ正確にいうとルーファスは「幼女趣味」、上質な生地のみで作られた純白の室内は、「清純な淑女」のための部屋のように見えたのだけれど。
(カーライルの用意した漆黒の部屋を肯定するわけではないけど、これはこれで趣味が悪い気ような…………って、まずい。単独行動して捕まるとか、確実にカーライルに怒られる!)
周囲の制止を聞かず一人暴走してしまったことをお思い出し、ヴィクトリアは頭を抱えた。
今の時間は分からないが、カーライルたちと行動していたときにこんな事態になったのだ。彼らは今頃、自分を探していることだろう。
陰険なあの蜘蛛のような男のこと――またねちねちと説教されそうだと思って、ヴィクトリアはカーライルの言葉を思い出した。
『指輪が欲しいというのなら、貴方にはお渡ししましょう。私が気に食わないときに、殺す権限があれば安心ですか? ……貴方になら、私は食べられても構わないとすら思っているのに、貴方は私に、自分の正体すら話してはくれないのですね』
「……こんな時に、何を思いだしてるんだか」
あれは紛れもなく、ルーファスの一族なりの求愛の言葉だった。いつものような軽口ではない、本当に、心からの――。
ヴィクトリアは胸を抑えた。
少しだけ、起動が速くなるのを感じる。
カーライルのことが自分は苦手なはずなのに、いつも冷たい目をした彼が自分を見つめるとき、その瞳に熱が宿っていることに気付いてしまったら、逃げることはできなくなる。
はたから見れば、自分は優柔不断に見えるかも知れない。
でも、五〇〇年も転生した自分を捜し求めてくれた相手を、心の底から自分を望んでくれた相手を簡単に拒絶することなんて、今のヴィクトリアには出来なかった。
「……こんなこと考えてる場合じゃない。早くここから抜け出さなきゃ」
しかし今のヴィクトリアには、今自分がどこにいるのかさえ分からなかった。
最後に思い出せるのは、路地裏での出来事だけ。
(倒れていたあの少女の傷口と、あの男の外見は、まるで――……)
ヴィクトリアが犯人のことを予想したところで、ぎい、と扉は音を立てて開いた。
「目を覚ましたか」
長い黒髪に黒い瞳。
それは、かつてこのセレネにおいて、『夜の王』と呼ばれた一族の外見的特徴と合致する。
――それは。
「貴方は誰……? どうして私をここに連れてきたの?」
「お前には、私の『花嫁』になってもらう」
「花……嫁?」
ヴィクトリアは、思わず男の言葉を繰り返した。
そんなヴィクトリアを見下ろして、男は静かに言った。
「そう。私の――『吸血鬼の花嫁』だ」
ヴィクトリアはその答えを聞いて、思わず首をおさえた。
(まさか、寝ている間に血を吸われて――?)
もし眠っている間に血を吸われていたとしたら、人魚の薬を飲んだことがバレてしまった可能性がある。それは、ヴィクトリアにとって望ましくないことだった。
(カーライルが私を魔王に据えるという手紙を勝手に出して、認めないと返事があった魔族の中に、確か『吸血鬼族』もいたはず。だとしたらこの状況で、私の正体がばれるのはまずい)
警戒するヴィクトリア見て、自らを吸血鬼だと名乗った黒髪黒目の男は、口の端を少し上げてふっと笑った。
「安心しろ。まだ血は吸っていない。……花嫁の血を最初に吸うのは、式の時だと決めている」
(式……? それに、最初って……?)
ヴィクトリアは、ますます意味がわからなかった。
昔の吸血鬼の一族は、生涯ただ一人の相手の血しか吸わなかったという。
これは正確に言うと、『吸わなかった』のではなく、『吸えなかった』らしい。
吸血鬼とその花嫁は、最初の吸血の瞬間に死ぬまで決して切れることのない絆で結ばれ、そして吸血鬼は、花嫁の血を口にすることで、その力を何倍にも増幅させることができた。
しかしその力の代償に、吸血鬼は花嫁以外の血を飲むことが出来なくなったという。
花嫁が死ぬとき、吸血鬼も命を落とす。
それは一種の同化であり、永遠の愛の誓いでもあったとされる。
だが、それは遠い過去のこと。
元々これは吸血鬼の遺伝的な欠陥でもあり、月日を経て血が混ざるうちに、『花嫁のみの血を必要とする吸血鬼』は淘汰され、逆に血を繋ぐことのできた吸血鬼のみが残り、吸血鬼の一族は、一人の血だけに依存せずとも生きていける体質を獲得した。
これは五◯◯年前、ヴィクトリアがヴィンセントとして生きていた時点での出来事であり、花嫁制度はとうの昔になくなっているはずなのだが。
(なのになんで、そんな言葉が出てくるの?)
ヴィクトリアには理解できなかった。
それにもし彼が本当に吸血鬼の一族なら、前回の古龍同様、魔族が人間界に無許可で渡っていたことになる。
しかもあろうことか、人間に害をなす、吸血行為をしているなんて――カーライルの管理外でデュアルソレイユとセレネを結ぶ道がどこかにあるとしたら、その対応は急務だ。
いくら表向きは和平の関係にあるとはいえ、人間を下等な生き物と考えている魔族が、今もセレネには存在するのだから。
「あとから人をよこす。必要なことは、全てそのものに言え」
「待……っ」
ヴィクトリアが呼び止める前に、男は部屋を去っていった。
じゃらりという鎖の音が、ひとり残された部屋の中に虚しく響く。
(これから、一体どうしよう……?)
ヴィクトリアが、そう考えたその時だった。
身につけていた髪留めから、よく知る声が聞こえてきた。
『聞こえますか。ヴィクトリア』
「か、カーライル?」
(なんで私の髪飾りから音が――?)
今日の髪飾りは、エイルとアルフェリアから、以前誕生日にもらったものだ。
(うん? ……そういえば一週間くらい前、突然髪飾りがなくなったことがあったっけ?)
後から戻ってきたから特に気にはしなかったが、もしやその時に何らかの細工がされたのではとヴィクトリアは予測した。
「カーライル。私の大切な幼馴染からの贈り物に、妙な機能をつけるのやめてくれる?」
『そのおかげでこうやって会話が出来ているんですからいいでしょう?』
カーライルは、何か問題でも?とでも言いたげな口ぶりだった。
ヴィクトリアはぷるぷる拳を震わせた。
(相変わらずこの男は……!)
『それで、大丈夫ですか? ヴィクトリア』
「……無事よ。カーライル」
『今の状況は?』
「その、誘拐と……鎖を少々……」
『鎖ですか。それは良い趣味ですね』
「は?」
カーライルの声は冷静だった。
ヴィクトリアは開いた口が塞がらなかった。
(何が良い趣味なものか!!!!!!)
「ちょっと。カーライル?」
『映像を見れる機能もつければよかった。そうすれば鎖に繋がれている姿も見れたでしょうに。……ああまあ、鎖で拘束するくらいならいつでもしようと思えば……』
「か……カーライルッ!」
この男は、この非常時に何を言うのか!!!!
ヴィクトリアが憤慨していると、続いてルーファスの声が聞こえてきた。
『陛下! 陛下! ご無事ですか!? 御身を傷つけられてはおりませんか!? なんと言うことでしょう! 陛下を無理矢理誘拐するなんて!!』
「・・・・・・」
ヴィクトリアは、憤るルーファスの言葉を聞いて少し冷静になった。
誘拐という点では、ルーファスはある意味前科者である。
そもそもヴィクトリアがリラ・ノアールに最初に来た時のこと、あれは完全にルーファスによる誘拐だった。
『ルーファス。声を抑えろ。向こうの声が聞こえない。……それで、誰に誘拐されたか把握はできているのか?』
レイモンドは相変わらず冷静だった。
「うーん。吸血鬼の一族っぽい人ではあったけど、名前まではわからないかな」
『確かに貴方に宿した魔法でも、場所は吸血鬼族の城ではあるようですね。……あの一族のうち誰が貴方を攫ったかまでは流石に特定できていませんが、少なくとも私の管理外で、デュアルソレイユに彼らのうち誰かが行っていたと言うことには変わりありません。……しかも、人間を襲うような真似をして』
「……」
カーライルの声が、少しだけ低くなる。
劇の中での『ハッピーエンド』を覆すような出来事は、ちょっとしたことでも、魔族と人間の関係の亀裂を生む可能性がある。
それは、ヴィクトリアとしても望むことではなかった。
「カーライル。類似性のある事件が、王都でおきたという調査は?」
『それは今、カイルたちに調べさせています』
「そう。――なにかわかったらすぐに報告して」
『わかりました』
鎖に繋がれながらも、ヴィクトリアは冷静に魔王として話をすすめた。
ヴィクトリアは少しだけ苛立っていた。
カーライルの目を盗み、二つの世界を行き来できる魔族がいたとして、まだその数がつかめない。
一番都合がいいのは、その行き来ができる魔族が自分を拘束した魔族のみという場合だが、古来の作法に則って『花嫁』なんて迎えようとする吸血鬼が、路地裏で通行人を襲うなんて思えない。
だとするとあの事件には、他に犯人がいる可能性が――。
ヴィクトリアが考え事をして眉間に皺を寄せていると、ルーファスがこんなことをたずねた。
『……申し訳ございません。陛下。一つおうかがいしても宜しいでしょうか? まさかその男は、黒髪に黒い瞳をしていませんでしたか?』
「うん。そうだけど……?」
(どうしてそれを、ルーファスが知っているんだろう?)
ヴィクトリアが疑問に思っていると、髪飾り越しに、これまでヴィクトリアが聞いたことがないような低い声が聞こえた。
『あの男め……!』
一瞬ルーファスではなく、レイモンドの声かと思ったくらいだ。
(ルーファスが怒ってる? もしかして私をここにつれてきたのって、ルーファスのよく知る相手なのかな?)
『ヴィクトリア。今囚われている場所からは、自力で脱出できそうですか? 外に出られそうなら、私が迎えを送ります』
「わかった。鎖には繋がれてるけど、今のところただの人間だって思われているのか、なんの妨害のちからも感じないし、鎖自体はすぐに壊せそう。――『強化』」
ヴィクトリアは簡単な魔法を唱えると、腕に力を込めた。
「まずは鎖を砕いてっと」
すると、彼女を拘束していた鎖は簡単に砕け散った。
ヴィクトリアは寝台から降りると、そのままバルコニーの方へと移動した。
びゅう、と、冷たい夜風がヴィクトリアの頬をなでる。
ヴィクトリアは冷静に地上を見下ろした。
(地上まで少し距離はあるみたいだけど、壁をどうにか掴みながら降りれば問題ないかな)
森の番人。大切な人たちが暮らす村を守るため、熊を一人で倒していたヴィクトリアは、非常時ということもあり、いつものように頭のネジが一本抜けたことを考えていた。
(――よし。行ける)
しかし、その時だった。
男が出ていった後、ずっと閉じられていた扉が、豪快に開かれた。
「お待たせしました! 花嫁様。僕は、白色コウモリのルゥと申します。誠心誠意お世話させていただきますので、これからどうぞよろしくお願い――……って、花嫁様の手錠が外れてる!?」
「あ……」
背中に黒い羽の代わりに白い小さな翼を生やした、まるで天使のような少年は、手に抱えていたティーセットを床に落とした。
美しい陶器は、音を立てて砕け散る。
(どうしよう。まさか逃亡しようとしているところを、こんな子どもに見られるなんて。)
「……ごめんね、ルゥくん。私には、帰らなきゃいけない場所があるんだ」
だが、始めたことはもうやめられない。
ヴィクトリアはルゥに謝罪して、逃亡を続行することにした。しかしそんな彼女を、ルゥは小さな手で一生懸命引き止めた。
「お待ちください。花嫁様! どうか、どうか、お帰りならないでください! お願いいたします。ご主人様には、貴方しか居ないのです。花嫁様だけが、ご主人様にとっての希望なのです!」
そして天使のような見た目をした少年は、カーライルたちと通信がまだ繋がっていることも知らず、とんでもない爆弾を落とした。
「ご主人様は、初恋童貞なのです!」
なんだか頭がぼんやりする。目を覚ましたヴィクトリアは、額をおさえながらゆっくりと起き上がった。
――じゃらり。
しかしその瞬間、ヴィクトリアは自分の置かれている状況に気づいて、驚きのあまり声を上げた。
「て、手錠!? なんで私、手錠なんてつけられてるの!?」
天蓋のある寝台に括りつけられた鎖。ヴィクトリアの手と足は、その鎖と手錠によって拘束されていた。
(そうだ。確か私、路地で人が倒れているのを見つけてそれで――)
「まさか監禁……?」
殺人事件現場を目撃してしまい襲われて、誘拐された、という可能性はある。
だが自分の見立てではあの女性にまだ息はあったはずだし、もしそれが理由なら、こんな豪華な部屋に拘束はしないように思えた。
「なんなんだろう。部屋……?」
ヴィクトリアは、室内を見渡して顔を顰めた。
(なんだろう? この、少しルーファスを彷彿とさせる、謎の少女趣味の部屋は――……)
ルーファスは昔、ヴィクトリアのためにフリルたっぷりのお姫様のようなドレスを(本人がまだ見つかっていない時から)用意していた過去がある。
ヴィクトリアは何故かその部屋に、同じものを感じた。
まあ正確にいうとルーファスは「幼女趣味」、上質な生地のみで作られた純白の室内は、「清純な淑女」のための部屋のように見えたのだけれど。
(カーライルの用意した漆黒の部屋を肯定するわけではないけど、これはこれで趣味が悪い気ような…………って、まずい。単独行動して捕まるとか、確実にカーライルに怒られる!)
周囲の制止を聞かず一人暴走してしまったことをお思い出し、ヴィクトリアは頭を抱えた。
今の時間は分からないが、カーライルたちと行動していたときにこんな事態になったのだ。彼らは今頃、自分を探していることだろう。
陰険なあの蜘蛛のような男のこと――またねちねちと説教されそうだと思って、ヴィクトリアはカーライルの言葉を思い出した。
『指輪が欲しいというのなら、貴方にはお渡ししましょう。私が気に食わないときに、殺す権限があれば安心ですか? ……貴方になら、私は食べられても構わないとすら思っているのに、貴方は私に、自分の正体すら話してはくれないのですね』
「……こんな時に、何を思いだしてるんだか」
あれは紛れもなく、ルーファスの一族なりの求愛の言葉だった。いつものような軽口ではない、本当に、心からの――。
ヴィクトリアは胸を抑えた。
少しだけ、起動が速くなるのを感じる。
カーライルのことが自分は苦手なはずなのに、いつも冷たい目をした彼が自分を見つめるとき、その瞳に熱が宿っていることに気付いてしまったら、逃げることはできなくなる。
はたから見れば、自分は優柔不断に見えるかも知れない。
でも、五〇〇年も転生した自分を捜し求めてくれた相手を、心の底から自分を望んでくれた相手を簡単に拒絶することなんて、今のヴィクトリアには出来なかった。
「……こんなこと考えてる場合じゃない。早くここから抜け出さなきゃ」
しかし今のヴィクトリアには、今自分がどこにいるのかさえ分からなかった。
最後に思い出せるのは、路地裏での出来事だけ。
(倒れていたあの少女の傷口と、あの男の外見は、まるで――……)
ヴィクトリアが犯人のことを予想したところで、ぎい、と扉は音を立てて開いた。
「目を覚ましたか」
長い黒髪に黒い瞳。
それは、かつてこのセレネにおいて、『夜の王』と呼ばれた一族の外見的特徴と合致する。
――それは。
「貴方は誰……? どうして私をここに連れてきたの?」
「お前には、私の『花嫁』になってもらう」
「花……嫁?」
ヴィクトリアは、思わず男の言葉を繰り返した。
そんなヴィクトリアを見下ろして、男は静かに言った。
「そう。私の――『吸血鬼の花嫁』だ」
ヴィクトリアはその答えを聞いて、思わず首をおさえた。
(まさか、寝ている間に血を吸われて――?)
もし眠っている間に血を吸われていたとしたら、人魚の薬を飲んだことがバレてしまった可能性がある。それは、ヴィクトリアにとって望ましくないことだった。
(カーライルが私を魔王に据えるという手紙を勝手に出して、認めないと返事があった魔族の中に、確か『吸血鬼族』もいたはず。だとしたらこの状況で、私の正体がばれるのはまずい)
警戒するヴィクトリア見て、自らを吸血鬼だと名乗った黒髪黒目の男は、口の端を少し上げてふっと笑った。
「安心しろ。まだ血は吸っていない。……花嫁の血を最初に吸うのは、式の時だと決めている」
(式……? それに、最初って……?)
ヴィクトリアは、ますます意味がわからなかった。
昔の吸血鬼の一族は、生涯ただ一人の相手の血しか吸わなかったという。
これは正確に言うと、『吸わなかった』のではなく、『吸えなかった』らしい。
吸血鬼とその花嫁は、最初の吸血の瞬間に死ぬまで決して切れることのない絆で結ばれ、そして吸血鬼は、花嫁の血を口にすることで、その力を何倍にも増幅させることができた。
しかしその力の代償に、吸血鬼は花嫁以外の血を飲むことが出来なくなったという。
花嫁が死ぬとき、吸血鬼も命を落とす。
それは一種の同化であり、永遠の愛の誓いでもあったとされる。
だが、それは遠い過去のこと。
元々これは吸血鬼の遺伝的な欠陥でもあり、月日を経て血が混ざるうちに、『花嫁のみの血を必要とする吸血鬼』は淘汰され、逆に血を繋ぐことのできた吸血鬼のみが残り、吸血鬼の一族は、一人の血だけに依存せずとも生きていける体質を獲得した。
これは五◯◯年前、ヴィクトリアがヴィンセントとして生きていた時点での出来事であり、花嫁制度はとうの昔になくなっているはずなのだが。
(なのになんで、そんな言葉が出てくるの?)
ヴィクトリアには理解できなかった。
それにもし彼が本当に吸血鬼の一族なら、前回の古龍同様、魔族が人間界に無許可で渡っていたことになる。
しかもあろうことか、人間に害をなす、吸血行為をしているなんて――カーライルの管理外でデュアルソレイユとセレネを結ぶ道がどこかにあるとしたら、その対応は急務だ。
いくら表向きは和平の関係にあるとはいえ、人間を下等な生き物と考えている魔族が、今もセレネには存在するのだから。
「あとから人をよこす。必要なことは、全てそのものに言え」
「待……っ」
ヴィクトリアが呼び止める前に、男は部屋を去っていった。
じゃらりという鎖の音が、ひとり残された部屋の中に虚しく響く。
(これから、一体どうしよう……?)
ヴィクトリアが、そう考えたその時だった。
身につけていた髪留めから、よく知る声が聞こえてきた。
『聞こえますか。ヴィクトリア』
「か、カーライル?」
(なんで私の髪飾りから音が――?)
今日の髪飾りは、エイルとアルフェリアから、以前誕生日にもらったものだ。
(うん? ……そういえば一週間くらい前、突然髪飾りがなくなったことがあったっけ?)
後から戻ってきたから特に気にはしなかったが、もしやその時に何らかの細工がされたのではとヴィクトリアは予測した。
「カーライル。私の大切な幼馴染からの贈り物に、妙な機能をつけるのやめてくれる?」
『そのおかげでこうやって会話が出来ているんですからいいでしょう?』
カーライルは、何か問題でも?とでも言いたげな口ぶりだった。
ヴィクトリアはぷるぷる拳を震わせた。
(相変わらずこの男は……!)
『それで、大丈夫ですか? ヴィクトリア』
「……無事よ。カーライル」
『今の状況は?』
「その、誘拐と……鎖を少々……」
『鎖ですか。それは良い趣味ですね』
「は?」
カーライルの声は冷静だった。
ヴィクトリアは開いた口が塞がらなかった。
(何が良い趣味なものか!!!!!!)
「ちょっと。カーライル?」
『映像を見れる機能もつければよかった。そうすれば鎖に繋がれている姿も見れたでしょうに。……ああまあ、鎖で拘束するくらいならいつでもしようと思えば……』
「か……カーライルッ!」
この男は、この非常時に何を言うのか!!!!
ヴィクトリアが憤慨していると、続いてルーファスの声が聞こえてきた。
『陛下! 陛下! ご無事ですか!? 御身を傷つけられてはおりませんか!? なんと言うことでしょう! 陛下を無理矢理誘拐するなんて!!』
「・・・・・・」
ヴィクトリアは、憤るルーファスの言葉を聞いて少し冷静になった。
誘拐という点では、ルーファスはある意味前科者である。
そもそもヴィクトリアがリラ・ノアールに最初に来た時のこと、あれは完全にルーファスによる誘拐だった。
『ルーファス。声を抑えろ。向こうの声が聞こえない。……それで、誰に誘拐されたか把握はできているのか?』
レイモンドは相変わらず冷静だった。
「うーん。吸血鬼の一族っぽい人ではあったけど、名前まではわからないかな」
『確かに貴方に宿した魔法でも、場所は吸血鬼族の城ではあるようですね。……あの一族のうち誰が貴方を攫ったかまでは流石に特定できていませんが、少なくとも私の管理外で、デュアルソレイユに彼らのうち誰かが行っていたと言うことには変わりありません。……しかも、人間を襲うような真似をして』
「……」
カーライルの声が、少しだけ低くなる。
劇の中での『ハッピーエンド』を覆すような出来事は、ちょっとしたことでも、魔族と人間の関係の亀裂を生む可能性がある。
それは、ヴィクトリアとしても望むことではなかった。
「カーライル。類似性のある事件が、王都でおきたという調査は?」
『それは今、カイルたちに調べさせています』
「そう。――なにかわかったらすぐに報告して」
『わかりました』
鎖に繋がれながらも、ヴィクトリアは冷静に魔王として話をすすめた。
ヴィクトリアは少しだけ苛立っていた。
カーライルの目を盗み、二つの世界を行き来できる魔族がいたとして、まだその数がつかめない。
一番都合がいいのは、その行き来ができる魔族が自分を拘束した魔族のみという場合だが、古来の作法に則って『花嫁』なんて迎えようとする吸血鬼が、路地裏で通行人を襲うなんて思えない。
だとするとあの事件には、他に犯人がいる可能性が――。
ヴィクトリアが考え事をして眉間に皺を寄せていると、ルーファスがこんなことをたずねた。
『……申し訳ございません。陛下。一つおうかがいしても宜しいでしょうか? まさかその男は、黒髪に黒い瞳をしていませんでしたか?』
「うん。そうだけど……?」
(どうしてそれを、ルーファスが知っているんだろう?)
ヴィクトリアが疑問に思っていると、髪飾り越しに、これまでヴィクトリアが聞いたことがないような低い声が聞こえた。
『あの男め……!』
一瞬ルーファスではなく、レイモンドの声かと思ったくらいだ。
(ルーファスが怒ってる? もしかして私をここにつれてきたのって、ルーファスのよく知る相手なのかな?)
『ヴィクトリア。今囚われている場所からは、自力で脱出できそうですか? 外に出られそうなら、私が迎えを送ります』
「わかった。鎖には繋がれてるけど、今のところただの人間だって思われているのか、なんの妨害のちからも感じないし、鎖自体はすぐに壊せそう。――『強化』」
ヴィクトリアは簡単な魔法を唱えると、腕に力を込めた。
「まずは鎖を砕いてっと」
すると、彼女を拘束していた鎖は簡単に砕け散った。
ヴィクトリアは寝台から降りると、そのままバルコニーの方へと移動した。
びゅう、と、冷たい夜風がヴィクトリアの頬をなでる。
ヴィクトリアは冷静に地上を見下ろした。
(地上まで少し距離はあるみたいだけど、壁をどうにか掴みながら降りれば問題ないかな)
森の番人。大切な人たちが暮らす村を守るため、熊を一人で倒していたヴィクトリアは、非常時ということもあり、いつものように頭のネジが一本抜けたことを考えていた。
(――よし。行ける)
しかし、その時だった。
男が出ていった後、ずっと閉じられていた扉が、豪快に開かれた。
「お待たせしました! 花嫁様。僕は、白色コウモリのルゥと申します。誠心誠意お世話させていただきますので、これからどうぞよろしくお願い――……って、花嫁様の手錠が外れてる!?」
「あ……」
背中に黒い羽の代わりに白い小さな翼を生やした、まるで天使のような少年は、手に抱えていたティーセットを床に落とした。
美しい陶器は、音を立てて砕け散る。
(どうしよう。まさか逃亡しようとしているところを、こんな子どもに見られるなんて。)
「……ごめんね、ルゥくん。私には、帰らなきゃいけない場所があるんだ」
だが、始めたことはもうやめられない。
ヴィクトリアはルゥに謝罪して、逃亡を続行することにした。しかしそんな彼女を、ルゥは小さな手で一生懸命引き止めた。
「お待ちください。花嫁様! どうか、どうか、お帰りならないでください! お願いいたします。ご主人様には、貴方しか居ないのです。花嫁様だけが、ご主人様にとっての希望なのです!」
そして天使のような見た目をした少年は、カーライルたちと通信がまだ繋がっていることも知らず、とんでもない爆弾を落とした。
「ご主人様は、初恋童貞なのです!」