生まれてからこの方五〇〇年、吸血を避けていたヴァージルが初めて吸った血は、想像していた通りに甘かった。
『花嫁』の血――それは吸血鬼にとって、己を最も強化してくれる存在の血でもある。

 ヴィクトリアの血を吸うことで、ヴァージルの傷は癒えていった。 
 冷たかった自分の体に熱が宿り、初めて血が通ったかのように――彼には、世界が違って見えた。
 風の流れ、遠くに在る水の音。大気に宿る魔素の全てを、今の彼は感じ取ることができた。

 感覚が同化する。
 自分の魔力が、ヴィクトリアの中で彼女の魔力へと変わり、再び自分の中へと流れ込む。

 冷たいのに熱を感じる。闇に浮かぶ、ひびだらけの月。

 強い光を放ち、周囲を引き付けながらも孤高だった『ヴィンセント』とは違い、今の『ヴィクトリア』がヴァージルには、穏やかな陽の光のようにも感じられた。
 それはデュアルソレイユで見た、本物の太陽を似て――同じ光でも、遠い日に焦がれた存在は、自分が知らない間に違う人生を送ってきたのかもしれないと彼は思った。

 デュアルソレイユで過ごしていた『ヴィクトリア』が、何故今カーライルの推挙する『新魔王』になったのか、ヴァージルにはわからない。
 魔力を感じさせない体を、『花嫁』として作り変える。
 だからこそそれが正しいことなのか、ヴァージルは一瞬悩んで――彼はヴィクトリアが瞳を閉じたことに気がついて、その体を強く抱きしめた。

 純白が似合う、無垢な花嫁とは程遠い。
 愛を誓うために血を吸うような種族に生まれ、周囲に勝手に人生を決められるのが嫌だった子どもの頃、『敵』だと教えられたその相手に、ヴァージルは一目で目を奪われた。

 月だけが、彼の味方だった。
 『先祖返り』であることは、身体が拒否反応を起こさず、魔素を取り込めるという証でもある。魔素が月の欠片なら、月はヴァージルを孤立させるものであり、己を強化させるものの象徴だった。

 だからこそ、地上で見つけた月のような魂に、一目で心は奪われた。『運命』なのだとわかってしまった。
 この世界にもし生まれ変わりなんてものがあるのなら、自分と彼女はきっと五〇〇年よりもはるか昔から、見えない糸で結ばれているのだとさえ思った。
 理《ことわり》を乱すことだと理解しながら、セレネの魔族がデュアルソレイユの人間に手を出すことが誤りだとはわかっていても、刹那の夢、泡沫の時であっても、少女の手を離したくないと強く彼は思った。

 五〇〇年前、花嫁になってほしいと想いを告げたとき、その願いは受け入れられなかった。
その後『魔王』は忌み嫌われる存在として、勇者に殺された。その事実を知ったとき、ヴァージルは有り得ないと思った。
 『彼女』にそんなこと、出来るはずがないと。

 だからこそヴァージルは、かつてルーファスを責めた。魂の形がわかる金色狼ならば、ヴィクトリアの脆さに気付かないはずはなかったから。
 そしてその喧嘩のせいで、ヴァージルは唯一の友人たちとの繋がりさえも失った。吸血鬼族の当主として、周囲は一族の再興を望んでいることはわかっていたが、ヴァージルはルイーズを選ぶことができなかった。

 彼の心の中にはずっと、壊れかけの月が浮かんでいた。
 
 いつかもう一度その人と出会えたなら、自分の全てを投げ打ってでも、相手に嫌われてでも、伝えたい感情があった。 

 ――今度こそはこの命が尽きるまで、貴方のそばにいる。

 たった一度断られて、距離をとった子どもの頃と今の自分は違うと、そう証明したかった。
 
 ――愛して、います。もう離さない。貴方が私の、ただ一人の『花嫁』だ。
 
 心の中で愛の言葉を口にして、ヴァージルはヴィクトリアに自身の魔力を流し込むと、その傷跡に口付けた。その瞬間、ヴィクトリアの首筋に、一瞬赤い薔薇の花の模様が光った。それは『吸血鬼の花嫁』として、刻印が彼女に刻まれた瞬間だった。

「……ヴィンセント、様」

 ヴァージルが名前を呼べば、ヴィクトリアは目を開けた。

「……もう、大丈夫?」

 ヴァージルは頷いた。
 彼はヴィクトリアの手を取ると、その手の甲に口付けた。

「はい」

 ヴィクトリアを覆っていた翼を広げ、ヴァージルはダンを見上げた。
 一層黒く深くなった空を背に、自分たちを見下ろす男見つけ、ヴァージルは眉間の皺を深くした。




 ヴィクトリアから離れ、翼を広げたヴァージルは、ダンの下へと飛んだ。
 塔の上に立っていたダンは、ヴィクトリアの血を吸ったヴァージルを嘲笑った。

「堕ちたな! 所詮お前の決意など、その程度だったのだろう!」

 ヴィクトリアの正体を知らないダンにしてみれば、ヴァージルは婚約者である妹の代わりに、一族に反するためにどこからか少女を連れてきて、自分と戦うために血を吸った愚かな男に過ぎなかった。

 『吸血しない』という信念すら、貫けなかった負け犬に。
 ダンはその時ようやく、ヴァージルに『勝利』したように思えた。

「結局お前も魔族なのだ。しかし運が悪かったな! 俺が飲んだのは、ルイーズに集めさせた人間の血だ。あの女の血を吸おうと、今の俺にはかなうまい!」

 灰と銀と黒。
 外見で周囲から蔑まれていた昔とは違う。今なら自分を苦しめてきた二人に、一矢報いる事ができる――そう思っていたダンは、ヴァージルの瞳を見て声を震わせた。

「金色の、瞳……だと?」

 何故ならヴァージルの瞳が、金色に染まっていたからだ。

「まさか、そんな……! そんな、馬鹿なことがあって……!」

 ダンは慌てた。
 自分は人間の血を吸って確かに『強化』したはずなのに、今のヴァージルが纏う重々しい魔力は、自分のそれとは何もかもが違っているように感じられたからだ。

 天と地の差。
 指先一つで命を奪われる――そんな予感があって、ダンは冷や汗とともに後退しようとした。だが今のダンに、逃げられる場所などどこにもなかった。

「私は争いは好まない。だがお前が、この世界を乱すというなら」

 ヴァージルは、高らかに宣言した。

「ここで私が、お前を止める!」

 ヴァージルは手を掲げた。
 月の光を浴びた銀色の十字架は、まるで地面を打つ楔のように、ダンの翼を貫く。

「ごほっ!」

 十字架が触れた場所から、血が流れ出る感覚とともに力が抜ける。傷口から毒が広がるような痛みがあって、ダンは膝をついた。

「なん……なんだ、この力は! これが……先祖返りの力だというのか!?」

 ダンは再び瓶の中の地を飲もうとしたが、その瓶もまた、ヴァージルによってあっけなく割れてしまう。
 ダンには状況が理解できなかった。自分は人間の血を飲んだはずなのに、全くヴァージルに歯が立たない理由がわからない。

「ダン・モルガン。私も、お前のことが昔から嫌いだった。だが同族として、私はお前に手を出したことはなかった」

 ヴァージルは、膝をついたダンに近づくと、彼の翼を貫いていた十字架に、再び魔力を流し込んだ。

「お前はそれを良いことに、実の妹を利用し、あの方と、ルゥを傷付けた。お前の罪を、私は絶対に許しはしない」

「があっ!」

「この程度で悲鳴をあげるな」

 ヴァージルは痛みに声を上げたダンを睨みつけた。

「お前を止めようとした彼女の方が、お前よりずっと痛かった!!」

「……ハッ。ずっとあいつの手をとらなかったくせに、今更そんな事を言うのか」

 圧倒的な力を見せつけられてもなお、ダンは謝罪の意思すら見せなかった。

「ルゥに手を出さなかった彼女のことを、私は嫌ってはいなかった。あの日、あの方にさえ出会わなければ、私は彼女の手を取っていた。……もっとも、彼女が願う『魔王』になるためではなかったが」

 ヴァージルは、静かに目を伏せた。

「私の『花嫁』は、『魔王の妃』にはなれないのだから」

「何故だ。何故お前は望まない! 力があるくせに、どうして……!」

「お前のような男に、一生わかるはずがない。吸血鬼でありながら、『花嫁』を必要としないお前には」

 今の吸血鬼の多くが『花嫁』を必要としないことを考えたれば、その言葉は、傲慢な言葉であるとも言えた。

「はな、よめ……? 馬鹿な。結局お前はそんなもののために、一族の悲願も、魔王の座も?」

 ダンは、『信じられない』という表情をした。

「……やはりお前には、私の心は分からないらしい」

 そんなダンに、ヴァージルは曇りのない瞳で言い切った。

「あの方でないのなら、『花嫁』に意味はない。私は、あの方が願った世界のために生きる。ただそれだけだ」

「なにをわけのわからないことを!」

 ダンはヴァージルの言葉を否定し――彼は、『先祖返り』の吸血鬼の弱点を思い出した。

「だが、そうか。先祖返りなら、『花嫁』さえ殺せば……!」

 ダンはそう言うと、穴の空いた翼を羽ばたかせた。
 
「……ヴィンセント様!!!」

 ダンが何をしようとしているのか理解して、ヴァージルは声を上げた。

「ははは! 今更気付いてももう遅い!」

 ルイーズの近くにヴィクトリアの姿を見つけたダンは、ヴィクトリアを手に掛けようとして――それから、殺したはずの妹が傷一つない姿を見て、驚きでピタリと動きを止めた。

「……何故、ルイーズがまだ生きている?」

 兄の言葉に泣きそうになったルイーズを、ヴィクトリアは強く抱き寄せた。

「――本当に、見下げた男」

 ヴィクトリアはダンを見て顔を顰めた。
 今のヴィクトリアには、ヴァージルの魔力が宿っている。
 ダンに向かって手を伸ばし、ヴィクトリアは自身の力を解放した。
 それは、『魔王ヴィンセント』の力。

「【嘘と裏切りで塗り固められた、偽りの翼を持つ者よ。太陽に身を焦がされ墜ちろ】」

 その瞬間、ダンの体は炎に包まれた。

「が、ぁ、あああああああああ……っ!」

 青い炎は、彼の羽根を焼く。彼の悲鳴が響く中、獣化したルーファス、二匹の金色狼にのったカーライルとレイモンドが駆けつけた。
 
「ヴィクトリア!」

 カーライルとレイモンドがおりると、二匹の金色狼は可愛らしい少年へと姿を変える。
青い火によって翼は焼け落ち、ダンの体は地面に叩きつけられた。
 ヴィクトリアは、ルイーズとはルゥを抱きかかえて地上に着地すると、二人をおろして、ダンの下へと足を進めた。

「なぜ、お前がこんな力を……!」

「この者の処罰を、お命じください。――『陛下』」

 男を冷たく見下ろして、カーライルは臣下としての言葉を口にした。

「『陛下』……だと? それでは、まさかお前が、新しい――……」

 地面に落ちたダンは、傷だらけの身体でヴィクトリアを見上げ、ぎりっと強く歯を噛んだ。

「ダン・モルガン。貴方に、私の名前を教えてあげましょう。私の名前は、ヴィクトリア・アシュレイ」

 ヴィクトリアは手を胸に当て、大きく息を吸い込んだ。

「私こそがこのセレネを統べる、新しい魔王よ」

 その言葉を聞いて、彼女を『新魔王』として認める魔族の四人は、王に従うように膝をついた。

「……っ!!」
「……ヴィクトリア、さま……」

 唇を噛み、怒りに震える兄とは違い、ルイーズはまるでまぶしいものでも見るかのように目を細めて、その名前を繰り返した。

「カーライル、ルーファス、レイモンド。この者を、城の牢に繋ぎなさい」

「かしこまりました」
 カーライルが指をぱちんと弾けば、痛みで動けないダンの体に、無数の糸が巻き付いていく。

「ダン・モルガン――お前には牢の中で、聞いておきたいことがある」
 レイモンドは糸で拘束された男をいつものように見つめると、武器を手に、静かにそう告げた。