あの方に出会った日のことは、今でも鮮明に覚えている。
 出会ったその瞬間に、私の時は止まったのだ。

 今にも壊れてしまいそうなひびだらけの器に宿る魂は、それでもなお強く、強く、光り輝いていた。

 夜を照らす月のように、それは、静謐な灯火《ともしび》だった。
 孤高であり、なのにどこか不安気で。
 彼《か》の人の本質は、掴めるようでつかめない。

 ――貴方は何を考え、今を生きているのか。

 訊ねようにも、あの方のそばにはいつも番人がいて、近づこうにも近づけない。
 空に浮かぶ月は雲に隠れる。
 それでも、遠くにあの方を見るたびに、私の心は突き動かされた。

 ひとりきり訪れた薔薇の園で、誰もが恐れる残虐なはずの王は、花を見つめるときはまるで、どこにでもいる普通の少女のように、花が綻ぶように笑うのだ。

 あの日から、ずっと貴方に恋をしている。
 今でもずっと、その魂を求めている。
 やがてこの身が灰となり、私という存在が気の世界から消えても、この心は変わらない。
 たとえあの方が亡くなって、長い時が経ったとしても、この心はまだ、あの方だけを思っている。

 高潔なその魂に、一目で心は奪われたのだ。

「――……ヴィンセント様」



◇◆◇



「アルフェリア! アルフェリア! あれって、一体何かな?」

 アルフェリアの手を引いて、ヴィクトリアは少し駆け足になりながら、行列のできた屋台を指さした。
 落ち着かない様子で、「早く並ばなきゃ」と急かす。

「落ち着いて、ヴィクトリア。そんなに慌てなくても、何も逃げないわ」
「随分はしゃいでるね、ヴィクトリア。そんなに嬉しい?」

 アルフェリアはヴィクトリアに腕を引っ張られ、慌てた声で言った。
 エイルは、珍しく振り回されているアルフェリアを見て、穏やかにくすっと笑う。

「だ、だって……」

 エイルに笑われて、ようやく我に返ったヴィクトリアは、自分へ向けられる周囲の視線に気づいて頬を染めた。

「王都のお祭り、初めてきたんだから……」

 人間界デュアルソレイユ、白の王国王都、花の都フェニッシア。
 この世界で最も広大な領地を持つ王都は、年に一度開かれる祭りもあって人で溢れていた。
 見渡す限り人、人、人。
 楽しげな音楽が鳴り響き、人々の笑い声が響いている。

「喜んでいただけたならとても嬉しいです」

 恥ずかしそうに、少しだけトーンを落としたヴィクトリアに、ルーファスは微笑んだ。
 
「ありがとう、ルーファス。二人も来れるように助けてくれて」
「当然のことをしたまでです。陛下の願いを叶えることが、私の最上の喜びなのですから」

 ルーファスはいつものように、ヴィクトリアの前で手を胸に当てると、騎士のように少しだけ会釈した。
 しかし、あることが引っかかり、ヴィクトリアはピタリと動きを止めた。

(……『陛下』?)

「る、ルーファスっ! しー! ここでは、『陛下』禁止! 誰に聞かれているかわからないんだからっ!!」

 慌てて唇の前で人差し指を立ててルーファスを見上げ、小声で指摘する。
 ルーファスは、必死の形相のヴィクトリアを見て、くすっと笑った。
 
「かしこまりました。申し訳ありません。……ヴィクトリア様」

 そんなルーファスに、エイルは静かに頭を垂れた。

「……すいません。僕たちまで連れてきていただいてしまって」
「いえ。それを、ヴィクトリア様がお望みでしたから」

 ヴィクトリアに対するときとは異なり、優しげなのに、どこか一線を引いたように微笑むルーファスに、エイルは苦笑いした。

「でも、『金色狼』の方々って、あんなにはやいのですね。初めて乗せていただきましたが、とても驚きました」

 エイルが感想を述べると、ルーファスの後ろに控えていた小さな子どもたちが、ひょこっと現れて頭を下げた。

「すいません。速すぎた、でしょうか? いつもより遅く走っていたつもりだったのですが……」

 ふわふわの髪の毛は、まるで小型犬を思わせる。二人の金色狼の少年たちは、大きな目でエイルを見上げていた。

「ご、ごめんね! そういうつもりじゃなくて。僕たちが慣れていないだけで――」
「『金色狼』はセレネでも足が速い種族だし、エイルが驚くのも仕方ないね。二人とも、速くて凄いね」
 
 子供達を前に慌てるエイルに、ヴィクトリアが言えば、金色狼の子供達はキラキラと目を輝かせてから大きく頷いた。

「それでは、祭りを回りましょう。ヴィクトリア様」

 しかし、ルーファスがまるでどこぞの姫をエスコートでもするかのようにヴィクトリアに手を差し出せば、金色狼の二人の子供達は、ピタリと足を止めてルーファスに言った。

「ルーファス様。お戻りになる際はお呼びください」
「お戻りになるまで、我々はこちらでお待ちしております」
「……カイル君とレン君は祭りに行かないの?」

 カイルとレン。
 それが彼らの名前だ。ヴィクトリアの問いに、二人はこくりと頷いた。

「はい。僕たちは、ここで待機を命じられておりますので」

 その答えを聞いて、ヴィクトリアは静かに臣下の名前を呼んだ。

「ルーファス」
「かしこまりました」

 ルーファスは子供の前に立つと、彼らの手のひらにデュアルソレイユのお金を載せた。

「二人とも。あそこのに見える時計の短い針が右横になったら、またここに来てくれる?」

 ヴィクトリアはそういうと、大時計を指さした。

「僕たちも遊んできていいのですか……?」
「うん。楽しいことはみんなで楽しまなきゃ。そうでしょ?」

 カイルとレンはヴィクトリアを見上げ、目をキラキラと輝かせた。

「ありがとうございます! 流石、奥方様は慈悲深い!」
「………………『奥方』?」

 ヴィクトリアは、聞き慣れない言葉にぴたりと動きを止めた。

(なんだか聞き流してはいけない言葉が聞こえた気がするけど、たぶん、きっと、気のせいだよね?)

「はい! 以前、命がけでルーファス様を助けてくださったのだとききました。そんな事が出来るのは、つがい様であるからに違いありません! 僕たち金色狼は、ルーファス様に従っています。誠心誠意お仕えいたします!」

(ど……どんな勘違いされてるの!?)

「申し訳ありません。違うと否定しても聞いてくれなくて……」

 ルーファスは申し訳無さそうな声で言うと、何故かヴィクトリアの前に跪いた。

「ただ、このルーファス・フォン・アンフィニ。寵愛を賜われるなら、喜んで末席に加わりたく思います」

(く、加わるって……ルーファスは、一体なんの集まりに参加するつもりなの!?)

 ヴィクトリアは考えることを放棄した。

「ルーファス。それ以上はやめておけ。むだに目立っている」
「レイモンドの言うとおりです。こんな往来で、目立つ真似はやめなさい」

 ルーファスの腕を掴んで立ち上がらせるレイモンド。カーライルは溜め息を吐いた。
 人間よりも見目麗しい魔族の三人のやりとりに、周囲の注目が一気に集まる。
 
「どうしよう。アルフェリア。このままじゃ……」
「大丈夫。あの三人の前じゃ、大抵の男は全員背景よ」
「なんのフォローにもなってない!」

 寧ろ自分背景でいたいのに!
 ヴィクトリアが拳を握って言えば、アルフェリアはニコリと笑った。

「それで? ヴィクトリア。貴方はあの中から、一体誰を選ぶつもりなの?」
「え……えらぶ?」
「だって、よりどりみどりじゃない!」

 アルフェリアは目を輝かせていた。

「前世の幼馴染であるカーライル様、ルーファス様。そして、レイモンド様との、禁断の関係――」
「そ、そんなんじゃ……」

(レイモンドには、親と思ってなかったと言われたし……)

 それが嬉しいような、寂しいような――いや、『嬉しい』って、なんだ?

「あ、アルフェリアは、もう玉の輿はいいの?」
「ヴィクトリア。私はね、絶対に勝てない勝負は挑まないことにしているの」
「うん?」
「自分に可能性があるときに全力で縁を掴み取るために、今は余力を残しておかないとね!!!」
「……」
 
 アルフェリアの返答に、ヴィクトリアは無言になった。

(なんというか、相変わらずガッツがすごい)

 自分にはないアルフェリアの魅力だと思う。ヴィクトリアはそう思った。
 コホン、と咳払いしたヴィクトリアは、ずっと疑問だったことを聞いてみることにした。

「そういえば、今日は人が多いけど、そもそもなんのお祭りなの?」
「今日は、ルクス神の神託を賜る日なんだ」
「『ルクス神』?」
 
 聞き馴染みのないその名前に、ヴィクトリアは首を傾げた。

「古くからこの国で信奉されている神様で、その神託が叶わなことがなかったとまでいわれる、偉大な神様さ。この国の政は、ルクス神様の神託を第一に行われているんだよ」
「……そんなにすごい神様なの?」

「たとえば疫病が流行った時、病を収めることの出来る聖女の誕生や、災害が起きた時、対処できる人材についての神託では、多くの人を助けたと言われている」

「……でも、そんなにすごい神様なら、前もって教えてくれても良かったんじゃないの?」

 『ルクス神』を称賛するエイルの言葉に、ヴィクトリアは顔を顰めた。

「命を助けてもらって、それ以上を望むのは贅沢ってものさ。仕方がないんだよ。だって神託は、人間が指定できるものじゃないからね」

「いいじゃない。良い方に進むように教えてくれるんだから! それは喜んで聞き入れるべきだわ!」

「それにね、僕たちが子どもの頃起きた戦争のあと、ルクス神は戦争で負傷したものたちの薬になる草木の場所も教えてくれたんだ。その薬は、今は聖職者様たちの聖力を増幅させることが出来るってわかって、今も利用されているって話だよ」

 ヴィクトリアに優しくしてくれた村人たちは、先の戦争で多くの命を落とした。
 
「戦争なんて私も二度とごめんだって思うけど、ルクス神様の神託は、今も役立ってるってことよ」

 アルフェリアはそう言うと、ヴィクトリアに微笑んだ。

(……エイルとは違って、アルフェリアってこういう時に、私の意図を汲んでくれることがあるんだよね。猪突猛進なところはあるけど、こういうところ、やっぱり安心できて好きなんだよね……)

 四人にはない、圧倒的な包容力、安心感!
 魔素に対する耐性があれば、ヴィクトリアはアルフェリアが魔界でもそばにいてほしい相手No.1だ。
 アルフェリアは太陽みたいな人だとヴィクトリアは思う。
 明るくて、眩しくて――そしてもう一人の幼馴染であるエイルは、まるで陽だまりのように穏やかで、あたたかい。

(こうして四人揃ってみるとよくわかるけど、『ディー』に人柄が一番似てるのは、レイモンドでもルーファスでもカーライルでもなくて、エイルなんだよね……)

 『ヴィンセント』を産んで亡くなったとされる母の弟。
 『ヴィンセント・グレイス』の叔父であり、育ての親である『ディー・クロウ』を思い出して、ヴィクトリアは少しだけ胸が苦しくなった。

(――……私の、一番大好きな人)

 その感情にどんな名前をつけるべきなのか、今のヴィクトリアにはわからない。
 ただ、五〇〇年前の『ヴィンセント』にとって、『ディー・クロウ』は世界の中心だった。
 そして五〇〇年の時を経て、生まれ変わってもなお、ヴィクトリアは彼の笑顔や言葉を今でもはっきり思い出せる。

(たぶん今も、私は心の何処かで、その影を探している)

 自分のせいで死んでしまった人だからこそ。
 きっと「ヴィクトリア」としても――彼のことは一生忘れられないのだと思った。

「ヴィクトリア様? どうかなさいましたか?」

「……ううん。なんでもない! 今日は、みんなで食べ歩きしようね!」

 ディーのことを思い出し、無言になった自分を心配そうにルーファスが見つめていることに気づいて、ヴィクトリアは慌てて笑顔を作った。
 王都の祭りという事もあって、沢山の飲食店が今日は広場に集まっていた。
 食人花イーズベリーなど、たまに物騒な魔界の食べ物とは違い、どれも安全そうな見た目である。
 
 魔王ヴィンセントの勇者による討伐の後、人間の世界デュアルソレイユと魔界セレネではカーライル主導で国交はあり、デュアルソレイユの貨幣はその交易で得ている。
 ヴィクトリアはアルフェリアと共に、両手いっぱいに買い物をして祭りを楽しんでいた。
 魔族の三人の男たちは、『ヴィンセント』時代とは違い、同年代の女の子と子どものようにはしゃぐヴィクトリアを、優しい目で見つめていた。

「陛下が楽しそうにされている姿は、眺めているだけで幸せな気持ちになれます。寿命が今日一日で、百年は延びる気がします」

 幼馴染の女子二人組みの輪にはいることができず、魔族の男たちとその姿を眺めていたエイルは、魔族が言うとギャグか本気か分からず反応に困った。

「それで、貴方はヴィクトリアとはどういう関係で?」
「勿論、家族以上の感情はありませんよね……?」
「……」

 カーライル、ルーファス、レイモンドの圧に、エイルはごくりとつばを飲み込んだ。
 まるで蛇に睨まれた蛙である。
 そんな事態になっているなどつゆ知らず、ヴィクトリアは満面の笑みを浮かべ小走りに近付くと、自分が食べていた肉の刺さった串を、エイルに差し出した。

「エイル、これ美味しかったから食べてみて」
「ありがと――」
 
 エイルは、いつものように受け取ろうとしてぴたりと動きを止めた。

 背後から、無言の圧を感じる。
 エイルは迷った。
 ヴィクトリアの自分を思っての行動を否定はしたくないが、明らかに彼女に好意を寄せる魔族三人を前に、このまま食べるのは、自分の命の安全が脅かされないだろうかと彼は不安になった。

「私の食べかけ嫌だった? いつものことだし、エイルは別に気にしないかなって思っちゃって……」

 ヴィクトリアの言葉に、更に周囲の空気が冷たくなる。
 想い人に明らかに慕われており、あまつさえ食べかけの食事を受け取るまでの親密な男――。
 エイルは命の危機を感じた。

「ヴィクトリア。いつも貴方はこのようなことを?」
「うん? だってエイルにも食べてほしいし。それにエイル、食が細いほうだから。私のを分けたほうが、エイルもいろんなものを食べられるでしょ?」
「僕ももう一人前の男だし、少食ってわけじゃないよ。確かにヴィクトリアに比べると、あまり食べないかもしれないけれど……」

 確かにエイルは昔から、男にしては少食な方だ。
 だがそれをヴィクトリアに、しかも彼女を思っているであろう三人の前で気遣われるのは、エイルは少し嫌だった。

「ならそれは、私が頂いてもいいですか?」

 エイルの言葉を聞いて、ルーファスはいつものように人の良さそうな笑顔を浮かべた。

「エイルがいらないなら、私はそれでもいいけど……」

 ヴィクトリアの食べかけの肉串は、ヴィクトリアを経由して、エイルからルーファスに手渡される。
 ルーファスは、それをまるで宝物でも下賜されるかのように受け取った。

「ヴィクトリア様からのお下がりをいただけるなんて、身に余る光栄です」

「お……お下がりって、言わないで」
「人間の世界には、神に捧げた神饌をお下がりと称して食べることがあると聞いたことがあります。陛下が召し上がられたものと同じものを食べることができるなんて、陛下のお力の一部をこの身に受け入れることと言っても、過言ではないでしょう」
「か、返して」

 ヴィクトリアは急に、自分の食べかけをルーファスが食べるのが恥ずかしくなってしまった。

「る……ルーファスは、食べちゃだめ」
「どうしてですか? ……彼は良くて、私ではだめな理由をお聞かせください」

 困ったように尋ねられ、ヴィクトリアは顔を赤くして答えた。

「だ、だって……! は……恥ずかしい、から……」

 何故か、恥ずかしい、という言葉を口にすることが恥ずかしかった。
 最後の方は声が小さくなって、下を向いたヴィクトリアの手に、ルーファスは受け取った串を返した。
 
「ルーファス?」
「お返しします。貴方に嫌われては、私は生きてはいけませんから」
「……あ、ありがとう……」

 ルーファスの愛情表現は、金色狼の血もあってか少し重い。

「…………………」

 とんだ茶番である。
 二人のやり取りを見ていたエイルは、がっくり肩を落とした。そしてアルフェリアは、そっとエイルの肩を叩いた。
 残酷な現実。
 男として意識されたルーファスと、ただの幼馴染で終わってしまったエイルとの違い――。

「アルフェリア、同情しないで。余計に辛い」

 アルフェリアとエイルがそんなやり取りをしていると、二人の横を子どもたちが走って通り過ぎた。

「これから劇があるんだって!」
「早くいかなきゃ! いい席が埋まっちゃう!」

「なんの劇かな?」

 問題の原因である食べ物をさっさとこの世界から隠滅するため、肉を頬張っていたヴィクトリアは、その背を目で追いながら呟いた。
 アルフェリアはいつものように、ヴィクトリアの目を見て笑った。

「じゃあ、私たちも行ってみようか。あの子たちを追いかければ、きっとわかるよ」