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僕が自転車にまたがると、ふわりと風が吹いて夏希の甘い髪の匂いが鼻を掠める。たったそれだけのことなのに僕の心臓はとくんと大きく跳ねた。

「乗っていい?」

「うん」

僕が返事をすると、自転車の後輪が少し沈んで僕の肩にひんやりとした感触が触れた。

その生身の人間らしからぬ手のひらの温度にやっぱり夏希が幽霊なんだと思い知らされるが、それよりも夏希と久しぶりの二人乗りに僕の心は騒がしくなる。

「理一のうしろとか久しぶり」

夏希の声が背中ごしに聞こえてきて僕は顔だけ夏希の方に向けた。

「えっとさ。いつも言ってるけどさ、肩じゃなくて腰にしてよ、落っこちたらいけないから」

そこまで言った僕に夏希がいたずらっ子のように笑う。

「安心して私は幽霊よっ。落っこちたってどうってことないって」

「あ……、確認だけどさ、幽霊の痛覚ってどうなってんの?」

夏希はおおきな目を更に大きくしてから、クスっと笑った。

「確かにね〜、まだ転んでないからわかんないけど~、多分痛くないんじゃない?」

「多分って。じゃあやっばり……」

「やだ。だって理一にしがみついたら景色見えないし理一とだって喋りづらいもん」

「な……、いやでも……」

「ほらほら、出発進行ー」

夏希は人差し指で前を指さしながら明るい声でそう言い放つ。

(やれやれ)

僕は相変わらずのマイペースで言い出したらきかない夏希に心の中で肩をすくめながらも、全然嫌じゃなかった。

またこんな日がくると思ってなかったから。

「落ちんなよ」

僕はいつものようにぶっきらぼうにそう言うと自転車のペダルをぐっと踏みしめた。

僕は太陽に照らされて煌めく川辺に沿って見慣れた土手を夏希を乗せて走っていく。この道は中高一貫の学校に通っている僕と夏希の通学路だ。

「この道、久しぶり~」

朝が弱い僕を夏希は毎日起こしにきてくれていた。僕は出掛けに母さんが持たせてくれたおにぎりを頬張りながら、夏希と自転車で学校までの十分ほどの道のりを、たわいない話をしながら通っていたことがつい昨日のことのようだ。

「あっ、みてみて理一。いま魚跳ねた~、鯉かも!」

「えっ、どこ?!」

僕が夏希の指さした方に視線をむけようとして僅かに自転車が不安定に左右にぐらんと揺れた。

「おっと」

「こら。ちゃんと前見て運転しなきゃ~」

「あのな、見ろっていったの夏希だろ」

「そうでした~」

「それに鯉とか見たことないし」

「あはは、バレた〜?」

僕は思わずふっと笑った。
嬉しくて楽しくて。

また夏希とこうしてくだらないことを話しながら、この道を自転車で走るなんて思っても見なかった。

もしかしたらこれは夢かもしれない。

僕が夏希に会いたくてたまらないから神様が仕方なく見せてくれた都合のいい夢なのかもしれない。

「……それでもいいや」

「ん? なんか言った?」

「いや、なんも」

今はただこの夢のような時間をただ純粋に楽しみたい。夏希と一緒に過ごしたい。

僕は前方に河川橋が見えてきたところで土手を右手に下り、細い路地を二つ抜ける。すると青々とした樹々が繁る僕らの地元で唯一の神社が見えてくる。

(神様がこの夢見せてくれてるとしたら……ここの神様か?)

(起きたらお礼参り行かなきゃな……)

そんなことが一瞬脳裏を駆け巡ったが僕はすぐに打ち消した。

いまは全力で夏希との時間を過ごせばいい。

ふいに僕の肩に添えられている夏希の両手が僕に身体を預けるようにぐっと力が加えられると耳元から夏希の声が聞こえてきた。

「今年の神社のお祭りいった?」

夏希の高い声と吐息がくすぐったい。

「ううん、行ってない」

平然と答えながらも僕の心臓はあっという間に駆け足になって頬がカッと熱くなる。

(なんだこれ……顔あっつ……)

「理一、疲れた? 休む?」

「え? なんで?」

「顔まっか」

「暑いからだろっ」

僕は心の中で誰のせいだよ、と恨めしく思うが鈍感な夏希には僕の顔が赤い謎は幽霊になっても解けないだろう。

「ねぇねぇ。さっきの質問だけど、なんで?」

「なんでって……」

「理一お祭り好きじゃん」

「まぁ、嫌いじゃないけど」

「だって私が生きていた時は毎年一緒に行ったじゃん」

神社のお祭りは僕らの夏の一大イベントだった。わたがしをたべながら射的をする。そして帰る前にヨーヨー釣りをして二人で並んで家までの道をヨーヨーを弾きながら帰るのがお決まりだった。

僕は神社の鳥居を見ながら左に曲がると、少し迷ったが夏希に心のまま返事をした。

「夏希がいないのに行ったってしょうがないだろ」

「…………」

夏祭りは夏希との思い出が一杯だ。中学生の時だった。帰り道、夏希の履いていた草履の鼻緒がきれて僕は汗だくになりながら家までおぶったこともあった。

あの時の夏希は珍しくしょんぼりして何度も『ごめんね』なんて言うもんだから、僕は泣かれたらどうしようと気が気じゃなかったことを思い出す。

(あれ……?)

あれこれ思い出に浸っていた僕ははっとする。すぐに返事が返って来るとおもった後ろの夏希はさっきから急に静かだ。

(もしかしてしょんほりしてる……?)

夏希なら「もう理一って寂しがり屋だな~」とか「私が居なきゃだめだね」みたいな返事が返って来ると思って、本音を口に出したのに思いもよらずに訪れた沈黙にきまずくなる。

「えっと……あの夏希……聞いてる?」

「……あ……ごめんね、風で聞き取りづらくて……よくわかんなかった」

(なんだ……)

こんな気まずい空気が流れるなら言わなきゃよかったと思っていたが、どうやら僕の言葉は夏希には聞こえてなかったようだ。

「さっきの返事だけど。その……もうお祭りいってはしゃぐ年でもないかなって……」

二度目はなんだか気恥ずかしくて言えそうもなかった僕は照れ隠しでそう返事をする。

「……そうかもね」

そう言った夏希の声はいつも通りに聞こえたけれど、どこか少しだけ寂しそうに思えた。


神社を通り過ぎて古民家の並ぶ裏道を抜ければ、目当ての喫茶店のある商店街はもうすぐそこだ。

「……あ、ここのおばあちゃんの家、更地になったんだ」

「あ、うん」

「引っ越し?」

「ううん……病気でその去年……」

「……そっか」

夏希が言っている、おばあちゃんとは自宅である古民家の前でよく自家製の野菜を販売していた老婦人のことだ。小さい頃は神社で遊んだ帰り道、おばあちゃんは僕らに季節の野菜をおやつ代わりによく食べさせてくれた。

「おばあちゃんのきゅうり美味しかったなぁ」

「僕はトマトも好きだったな」

「うんうん、すっごく甘かったもんね」

「でもいちばんは──」

「あ、待って。せーので言お?」

「いいよ」

僕は脳裏にそれを思い浮かべると夏希の合図を待った。

「理一いい?」

「うん」

「せーの!」

夏希の合図に僕は自転車を漕ぐスピードを緩めると、その食べ物の名前を口にだす。

「やきいも!」
「焼き芋!」

僕が顔を少しうしろに向けると、夏希が声を上げて笑っている。思わず僕も夏希の笑顔に見惚れながら久しぶりに声を出して笑った。

おいしかった思い出の食べ物が同じというだけで僕の心の中は優しくてあたたかくなる。

ひとしきり笑い合ったあと、僕はペダルを漕ぎながら、このままずっと目的地に着かなければいいのになんて思っていたことは夏希には内緒だ。