「あっつ……」 

僕──来瀬理一(くるせりいち)は河川敷の石畳に座ったまま、嫌味なほどに眩い光を放つ太陽に思わず視界を狭めた。

高校三年生の夏休みも終盤。僕はお盆のこの時期になるとよくこの川辺に来ていた。

理由は無性に《《彼女》》に会いたくなるからだ。

彼女、と言ったが恋人同士といったわけでもなく幼馴染という居心地の良い関係に胡坐をかいて、僕は今日の今日までその秘めた想いを伝えたことはない。

そして僕が彼女に想いを伝えることなく彼女は僕の手の届かない遠い場所へと行ってしまった。

「丸二年、か……」

彼女と会えなくなった年月を言葉に出せば後悔と寂しさが募る。

目の前の川辺は太陽の光を一身に浴びてキラキラと揺らめいていて、見つめていれば僕が心の片隅に仕舞っている彼女との思い出が勝手に蘇ってくる。

春はこの川辺の先に一本だけある桜の木の下で彼女のお手製のおにぎり片手に花見を楽しみ、秋は川のせせらぎの音を聞きながら二人で読書を楽しんだ。
冬は雪がちらつく中、川の表面に薄く張った氷をのぞき込みながら彼女が『川底に魚が見える』と無邪気に笑ってその笑顔に見惚れたことを思い出す。


そして──夏。夏は彼女が僕の前からいなくなってしまったことを嫌でも思い出す悲しい季節だ。

(ちょうど八月か……それに今日は……)

本当ならここには来たくないのかもしれない。

でも彼女に会えるとしたらまたここのような気がして僕は暇さえあればここに来ていた。

でも心はいつも迷っている。来たいような来たくないような。思い出したいような思い出したくないような。もともと優柔不断な気質のある僕だからだろう。両極端な気持ちは二年経ってもなにも変わらない。


「はぁ。ほんと優柔不断も嫌になるよな。進路もまだ決まんないしな」

高校三年の夏が終われば嫌でも将来への選択を迫られる。

だけど僕には夢がない。
いや小説家になりたいという夢があったが、書くことをやめた僕には夢がなくなってしまったと言った方が正しい。

地元で小さな不動産を営んでいる両親からは地元の大学の経済学部を勧められているが、僕は家業を継ぐ意思があるわけでも別のなにか進みたい道があるわけでもない。

(ほんと宙ぶらりんだな)

小説家を目指していたことを唯一知っている彼女なら迷わず文学部を勧めてくれるんだろう。

そして同じく本好きで図書館司書を目指していた彼女がいたなら、彼女の行く大学の文学部に一緒に入学して平凡ながらもささやかな楽しいキャンパスライフが待っていたのかもしれない。

「ほんと僕ってどうしようもないな……」

彼女がいなければ上手に笑うこともできなくて。あんなに頑張ろうと前向きだった夢も見失って。

こんな僕を見たらきっと彼女は盛大に僕のことをいつものようにしかりつけるのだろう。


──もうっ、理一しっかり! 諦めないで!


「……とっくに諦めちゃってごめん。こんなどうしようもない僕になってごめん」

ぽつりと溢した言葉に誰も答えるはずがなく、聞こえてくるのは目の前の川の中から魚がピションと跳ねる音だけ。

(あーあ。声が聞きたい)

僕は額の汗を手のひらで拭うと光に反射してキラキラと煌めく水面に視線を移した。

今となっては悲しい記憶が一番に蘇る夏の季節も小さい頃は彼女との楽しい思い出が一番あったことも確かだ。

「よくこの川で遊んだよな」

彼女と二人で洋服が水浸しになるもの構わず夢中で小魚を追いかけたり、そこらに咲いている草花を船に見立てて競争させたり。

未だに鮮明に思い出すのは川の水、独特の凛とした冷たさとふくらはぎをくすぐる藻の感覚、そして彼女の向日葵のような笑顔。

(会いたい……)

(どうしても……今すぐにでも)

あの川に飛び込こんで何も考えずに漂って揺れて、ただ彼女との思い出の中だけで生きれたらどれほど呼吸がしやすいだろうか。

いや、もうただ生きるという漠然とした日々の繰り返しに嫌気がさしている。いっそ飛び込んだなら川の流れに逆らうことなくそのまま沈んで瞳を閉じてこの世から消えてしまいたい。

彼女会いたさからそんな厄介な負の感情が生まれて僕は首を振った。そんなこと彼女はちっとも望んでいないから。彼女が悲しむとわかっていることだけはどうしてもしたくなかった。


「はぁあ。それにしても人間って何度になったら溶けんだよ……」

今年の夏は特に暑い。例年、この時期になるとテレビで地球温暖化についての話題が上るが、本当にこのままじゃいつか人類は地下シェルター暮らしになるのではと僕は真剣に思っている。

(もうどうでもいい)

いつからだろうか。こんな風に未来に希望をもたなくなったのは。自分自身が未来に向かって何かを手に入れるために挑戦しようとすることを諦めたのは。

きっとそれは──夏希(なつき)がいないから。

「夏希だったら……今の僕に何て言ってくれんのかな」

彼女の名前を口にだすのも二年ぶりだ。今日くらいいいかもしれない。

僕はジーンズのポケットからいつも持ち歩いている本を取りだした。もうこの二年ずっと肌身離さず持ち歩いている本だ。

背景は淡いブルーを基調としていて高校生の女の子が泣き笑いしている表紙で、恋愛青春ジャンルに分類される小説だ。ペラペラと捲っていけばどのシーンも夏希とのたわいない会話がよみがえって来る。

「これ……いつ返すんだよ」

もう返す日なんてやってこない。
そうわかっているのについそう言葉に吐いてしまった。

この本は小説家を目指していた僕に本好きの夏希が貸してくれた、夏希のお気に入りの本だった。

女子高生のヒロインが医師から余命僅かだと知らされるのだが、そのことを幼馴染であるヒーローに知らせることなく彼女は親の仕事で遠い町に引っ越すのだと嘘をついてこの世を去るという悲恋の物語だ。 

物語のラストは彼女が生前描いた絵画がコンテストで賞を受賞する。そのことを偶然知ったヒーローは授賞式をこっそり見に行き、代理で授賞式に出席したヒロインの母から彼女が亡くなっていることを聞かされ、絶望しつつも彼女の分まで強く生きることを決意する感動的なラストとなっている。また最後の一ページはヒーローが生まれ変わっても彼女と恋をしようと前を向く場面で締めくくられている。

「そんなん、小説だからだろ……」

僕は彼女と会えなくなってから小説を書くことをやめた。やめたというより書けなくなってしまった。

僕が小説を書いていたのは純粋に楽しかったからというのもあるが、同じく本好きの夏希が僕の拙い小説をいつも目を輝かせて読んでくれていたからだ。

元々自分のために何かをするよりも誰かのために何かをする方が性に合っている僕は、二年前から時間が止まってしまった。前にも後ろにも進めなくてただ同じ場所で佇んでひたすた目に見えない何かに抗っている。そんなモヤモヤとした気持ちがいつも心の棲みついて離れなくていつだって苦しかった。

開いたままの本を見つめていれば目の奥が熱くなってくる。

どうしようもなく彼女に会いたくなってくる。


「なんで……っ、なんで黙っていなくなんだよっ」


──りーちっ

(!!)

僕は小さく身体を震わせると本から勢いよく視線を上げた。

「え? ……いま……」

聞こえてきたのはすぐ近くではなく僕から少しだけ距離がある後方からだ。僕はすぐに後ろを振り返るが、誰も居ない。

(夏希……の声に似てたけど)

今日は夏希の命日だ。
夏希は二年前の今日、川でおぼれた小さな子を助けたことと引き換えに命を落としこの世を去った。

(いない。やっぱ気のせい……だよな)

僕はあたりをキョロキョロと見渡すが見えるのは揺らめく川面と照り付ける太陽だけ。

その時だった──。

「りーいちっ!」
  
「わぁっ」

今度は右耳のすぐ近くから聞こえてきたその声に僕は広げていた本を落っことしそうになる。

「あ、聞こえたんだ~、やったぁ」

「え……っ」

僕が恐る恐る振り返ると、そこには僕の幼馴染であり死んだはずの遠藤夏希(えんどうなつき)が満面の笑みでしゃがみ込んでいた。

「うわぁああああ」

僕は今度こそ手元から本を落としながら後ろにのけ反った。

「あははっ、理一驚きすぎ」

いやいや驚くだろ、そう言いたいのに僕は目の前の夏希のことも、いま起こっている現実も到底信じることができずに、ただ間抜けな顔をして口をぱくぱくとさせた。

夏希は鎖骨まである長い黒髪をさらりと揺らすと尻もちをついている僕を覗き込んだ。

「久しぶり、元気だった~?」

「……な、なんで……」

「もうー、冷たいなぁ。可愛い幼馴染との二年ぶりの再会くらいもっと喜んでよ」

「いやいや……これ夢だよな」

僕は馬鹿みたいに自分の頬をぎゅっとつねってみるが痛覚は普通にやってくる。

「いてっ」

「あはは、何してんの?」

夏希がいたずらっ子のような顔をすると白い手をこちらに伸ばし僕の額をツンと指先で弾いた。

「わ……っ」

この世にいるはずのない夏希に触れられたのもあるが、一瞬額に氷が触れたような冷たい感覚に僕はますます目を見開いた。

「つ、つめた……」

「あったりまえでしょ、幽霊なんだから~」

「ゆ、幽霊?!」

「うん、ちゃんと死んでるし。だから冷たいの」

「そ、そんな感じ?」

「なにが?」

夏希は僕の疑問の意味が分からないというように小首を傾げている。

(死んでるとか……幽霊とか……そんな当たり前みたいに)

生まれてこのかた幽霊など信じたことがなかった僕は目の前の“自称幽霊”から直接、幽霊は存在するんだよ、的な話を聞かされてもすぐに理解なんてできない。

けれど目の前にいるのは間違いなく僕の知っている夏希であり、夏希自身が幽霊だと言っている以上、そこを追求してもあまり意味がないようにも思えた。

「おーい。理一? 大丈夫?」

「な、なんとか。夏希がその……ゆ、幽霊なのはわかったけどさ」

「うん?」

「なんか……あかる、すぎない?」

僕の疑問に夏希が呆れたようにため息を吐きだした。

「あー、理一って幽霊って皆、陰キャだって思ってる?」

「い、いや……確かに幽霊ってそのあんま口数すくなくってこう……静かに現れるっていうか……って幽霊になったことないからわかんないけど」

「あはは、確かにね~」

ケラケラと笑う夏希を見ながら僕はようやく今目の前に起こっていることが現実なのだと実感してくる。

そしてそれと同時にあることに気づく。

夏希はお気に入りだと僕に話していた、白のブラウスにマスタード色のワイドパンツを身につけているのだが、よく見れば夏希の身体はほんの少し透き通っている。

「夏希……っ、ちょっとだけ……透き通ってる?」

「まあね。こっちにいられる期限あるし、あんま時間ないの」

「期限?!」

「うん、少し前に天国からこっちにきたんだけど実家寄った後に理一の部屋に行ったら理一いないから、探してたら結構時間使っちゃった」

「えっ?! いまなんて言ったの?! 天国から実家に……僕の部屋って?!」

僕はサラッと発せられた夏希の言葉に突っ込みどころが多すぎて戸惑ったが、夏希はそんな僕を見ながら二年前となんら変わらない姿と声で大きな口を開けて笑っている。

「まぁ、ようは幽霊って忙しいのよ」

「き、聞いたことないんだけど……」

「ねぇ、理一。私喉乾いちゃった~クリームソーダ飲みたい」

「え?」

夏希がそう唐突に提案を口にして僕は思わず眉間に皺を寄せそうになるが、それよりもこの唐突な提案の仕方やクリームソーダを飲みたいというあたりが本当に夏希なんだなと思わずにはいられない。

クリームソーダは夏希の大好きな飲み物で季節問わず、よく馴染みの喫茶店で注文していたのだ。

「えっと、クリームソーダってマスターのとこの?」

「あったり前じゃん! よく放課後行ったよねー、ってことで行こっ」

夏希はそう言って立ち上がると、僕が乗ってきた自転車を指さした。

「ちょっと待って……幽霊って……自転車のうしろ乗れる、の? す、透き通ってるけど」

「もう、何言ってんの。乗れるに決まってるじゃん、幽霊って無敵なのよ」

「あ、……そう、だよね」

「もう理一ったら」

僕の言葉に夏希が腰に手を当てながら返事をする。このやり取りの感じがすごく懐かしい。

(夏希、なんだ……)

今、僕の目の前には間違いなく夏希がいる。ずっとずっと会いたかった夏希が──。

「理一っ、早く早く~」

「ちょ……、待ってよ」

僕は夏希が自転車に向かって駆けていくのを見ながら小説をポケットに押し込み、急いで夏希を追いかけた。