「遅れてすみません、久松先生」

少し息を切らした扉を開けた私に、「急がなくてよかったのに」と笑いかけたその女性。
部屋の中でかけていたクラシックを止めた後、椅子に座って私の前にココアを差し出した。


「コーヒーは飲めなかったよね。アイスココアにしておいたわよ」

「ありがとうございます」

「よほど走ってきたのね、汗かいてるわ」

取り出したハンカチで私の額を拭ってくれた久松先生。正直私はこの空間があまり好きではなかった。
『カウンセリング』は記憶を取り戻すにあたって必要不可欠なものなのだとは思う。
だけど、私は思い出したくない。はやく普通に、平凡に戻りたい。


「学校はどうだった?」


「久しぶりに友達に会えて嬉しかったです」


「お友達、名前ちゃんと覚えてた?」


「はい。サラと、真由と、晴美」


「よかった。学校のこともちゃんと覚えてるわね」


流れるようにカルテに何かを書いているがそれは筆記体のような文字でよく分からない。
私はカウンセリングなど必要ないと言ったが、母がそれは認めなかった。
私がこわれてしまうことを恐れているんだろう。


「何か変わったことはない?」


あるよ。そりゃあもういっぱい。
夢に出てくる人のこととか、学校で会った謎の先輩とか、先ほどの男とか。
大丈夫、平凡で、普通に暮らしていけると何度も言い聞かせているのに。心に空いた穴を広げてこようとする人たちのせいで苦しい。

だけど口に出してしまえば、自分の不幸が増していきそうなので飲み込んだ。それが正解だと思う。


「何もないです」


「遠慮しないで、何か不安なことあるでしょう」


「…私は、記憶を取り戻すべきですか」


投げかけた質問に、久松先生は少し目を開いて握っていたペンを置いた後私をまっすぐな瞳で見つめた。


「どちらが正解なんてことは言えないけど、その質問をするってことは、思い出したくないのよね」


「っ、はい」


「私はいいと思うわよ、思い出さないことであなたは前に進むことができる。

心に空いた不安は新しい楽しいことで埋めていけばいい」


欲しい言葉がもらえた気がした。「そうですよね」とココアを一口飲む。


「ここに来ることが苦痛そうだったのは、嫌な記憶を思い出させられると思ってたからなのね」


見透かすようにそう言われ、私は小さく頷いた。
先生は「そっかそっか」と立ち上がって端に置いてあるものをいくつか取り出してきた。
ジェンガやルービックキューブ、画用紙に鉛筆、絵の具など子供の遊び道具のようなものを持ってきて目の前に広げる。

「楽しい思い出、新しくつくっていくための一歩よ。好きなの選んで」


手を広げてそう言った先生に私は思わず小さく笑った。


「子どもじゃないのに」


「あら、私はいつも本気で遊んでるわよ」


とルービックキューブを音を立てながら指先で動かし始めた先生。揃えられていた色が散りばめられていくのを頬杖をついて眺める。よかった、少し落ち着ける空間だ。
テーブルの上に広がった画用紙と鉛筆を自分の方に引き寄せる。


「萌香ちゃん、絵好きなの」

「いえ、そんなに。私、下手くそなんです」

そう言いながら、画用紙の端に猫の絵を描いていく。
横の姿を描こうとすれば首がなく、下に伸ばした脚も変な方向にいってしまうような絵である。
小学生でももっとましな絵を描くだろう。
私の絵を見て先生も「面白いね」と笑っている。


「私がお手本かいてあげるわ」


『私がお手本かいてあげるよ』


先生の声が誰かと重なった気がした。
顔をぱっとあげれば、先生が不思議そうに首を傾げる。


「どうかした?」


「あ、いえ、なんでも」


誤魔化すように笑って、久松先生に鉛筆を渡す。
脳の中に響いた声は一瞬にして忘れてしまったように思う。さっきのは一体何だったのだろう。