目の前に置かれたホットココア。
いつもならすぐに口をつけていたが、今日は飲むことはなく揺れる湯気が薄くなった頃、私はその人に言葉をぶつけた。


「今日はカウンセリングに来たんじゃないんです」


広げられた子どもの遊び道具を私は触れることなく、その人を真っ直ぐ見つめた。
その人は今日も穏やかに笑っている。
何層にも重なった仮面に見えた。


「久松先生」

呼ばれたその人は、書いていたカルテを静かに閉じて「どうしたの」と私に聞く。


「こわい顔しているわね、何かあった?」


ええ、たくさん。
添えられそうになった手を避けて、私は自分の膝の上に手を置いて握りしめた。


「私は失踪前から、ここに通っていましたよね」


仮面が1枚、剥がれる。
私の瞳がカルテに向き、久松先生は察したのか「なるほどね」と小さく呟いた。


「失踪前に一度だけ、来たことがある。親友がいなくなってどうにかなりそうって」


「っ、それは、本当のことですか」


久松先生試すように、目を細めて頬杖をついた。
そして「ええ」と返事をする。
親友がいなくなった。それは、満尾広菜さんことで間違いないだろう。


「でもね、違和感があった」


「違和感…?」


「何かに押しつぶされそうで、心が壊れそうって感じではなかった」


久松先生はコーヒーを一口飲んで、息を吐く。
そして片方の口角を少し上げた。


「今のように、何かを調べてる感じだったわね

私を疑って」


立ち上がった久松先生がゆっくりと歩き始める。コツコツと一定のリズムを刻む足音。
私は睨みつけるように久松先生を目で追う。


「勇敢なものよね、親友の失踪を調べあげるなんて」


「何を知ってるんですか」


私の後ろにまわった久松先生が私の耳に顔を寄せる。
恐怖に似た警戒心を身に纏って肩をあげた。
油断したら、取り込まれる気がする。


「私は、求められていることを提供しているに過ぎない。患者に寄り添って共感して、少しでも心が穏やかになるように。

広菜ちゃんは残念だったわ」


立ち上がった瞬間、久松先生が何かを手に持って私の首元にそれを持っていく。
抵抗をするために久松先生の腕を両手で掴んだ。

久松先生の片手に持たれていたのは注射器である。
私が抵抗する力に久松先生もあと数センチを縮めるために力をこめてくる。

テーブルに背がぶつかり、ココアが入っているカップがこぼれ床で割れた。


「っ、ひっ、さまつ先生の思い通りにはさせません」


「えらそうに。記憶なんて思い出さずに普通に平凡に生きていきたいって望んでたじゃない。

それで良かったのよ、それであなたの人生は平穏が保たれたの、闇に引き摺り込んだのは誰?」


ぐっ、と久松先生の力が加わりハリの先が首元に刺さるのを感じる。
きっとここで屈したらまた、私はすべてを忘れることになる。

ーーー負けて、たまるか。

全ての力をこめて久松先生を押し返すが、力は幾分かあちらの方が上だった。


「悪かったな、闇に引き摺り込んだのは俺だよ」


久松先生の向こうでそんな声がした。
そしてその瞬間、私にかかっていた力がなくなり代わりに久松先生の腕から注射器がこぼれ落ちて床に転がる。

何が起きたのか一瞬分からなかった。久松先生が自由が効かないようにテーブルに体を押し付けられ腕を背中に固められた。

走ってきたのか、その人は肩で息をして私の方を見る。


「1人で突っ走ってんなよ、クソガキ」


ーーー泉さん。

唖然とする私に、泉さんは「なんか縛れるもん持ってこい」と私に指示を出す。
慌てて見渡すが特に何も見当たらない。


「残念ね、ここには紐のようなものは一切ないわ。精神科クリニックよ、勉強し直しなさい」


テーブルに押し付けられている久松先生が苦し紛れにそう言った。
泉さんは「そうかよ」と低い声で返事をしてポケットから何かを取り出した。


「…じゃあ、俺がお前のストッパーになるよ。下手に動いたら殺すぞ」


久松先生を椅子に座らせ、首元にナイフを持っていく泉さん。泉さんが言うと本気で聞こえる。久松先生もそれを感じ取ったのか、余裕そうな仮面が剥がれている。

泉さんは私の方を見ないまま、私に言葉をかける。


「こいつを脅して、情報を聞き出すかどうかお前が決めろ」


その問いかけに私は言葉が詰まった。
久松先生が哀れむような瞳を私に向ける。

人の言葉は虚で、真実かどうかを見破るのは難しい。

ーーーーなら。
私は、久松先生の方には向かわず部屋の奥にある棚からファイルを一個ずつテーブルの上に広げていく。


「なっ、なにしてんだよ、立見萌香」


「泉さんはそのまま久松先生を見張っててください。私が調べますので」


「調べるっつったって、目の前にこいついんだから情報聞き出せよ」


「人の言葉より、こういう確固たる真実の方が信用できるでしょう」


ファイルはカルテとその人のプロフィールや写真がそれぞれ1冊ずつにまとめられているものだった。
何重にも重なっているものを私は上から順に開いていく。
泉さんは、「そうかよ、ひとまず急げよ」とそれ以上は何も言わなかった。

久松先生を見れば、首元に添えられているナイフがいつ動くかという恐怖で目を瞑っている。

得体の知れない人からナイフを向けられるほどこわいことはないのだろう。

ファイルを何個かみているうちに、私はある人の写真とプロフィールのところで手を止めた。

そして、顔を上げる。


「泉さん」

「あ?」

「いっ、泉さんの妹さんは、実里という名前で、過去に性被害にあってるということで間違いないですか」


「…あってる、おい、どういう」


「久松先生」


久松先生が薄く目を開けた。


「実里さんをカヨラに連れていったのは、あなたですか」

その言葉をきいた泉さんが動いた。
久松先生を立ち上がらせ、壁に押し付けると腕で首元を抑え、ナイフを這わせた。


「泉さん!」


「…実里はここに来てたのか」


怒りが爆発する寸前のところで止まっている。今にもナイフを突き立てる勢いの泉さん。
久松先生が苦しそうに唸った。


「答えろ!!」


私は、カルテは読めずともなんとか最初のページに書いてある文を指先と目で追っていく。

泉 実里。生年月日2004年4月5日。20歳。レイプ被害にあいパニック障害に。
兄が1人。心配をかけたくないのではやく改善したいとのこと。
話をきき、外に出られるようにといくつかアドバイス。
それから、

ーーーカヨラのパンフレットを渡した。
記憶の治療をすすめる。