1日をなんとか終えて、私は靴をロッカーから取り出す。よかった、私はやっぱり何ともなくて、楽しく笑えて、そして友達もいる、なくなった記憶を無理に取り戻そうとなんてしなくていい。
「立見、萌香さん」
靴を片方だけ履いたところで名前を呼ばれて顔を上げる。そこには名前も知らない男子が立っていた。
黒いローファーをコツコツとならしこちらに近づいてくる。
私はもう片方の靴を履いてつま先を地面に何度かぶつけながら、見覚えのないその男の顔を視界に入れた。
色白の肌、切れ長の瞳、すっきりとした顔立ちをしている。
でも、この人を知らない。その変わりようのない事実に不安が募った。知らないことはこわくて、いま一番逃げたいことだから。
「記憶、ないんだって?」
薄い唇から発せられたその言葉に体が硬直する。
少し挑発的な声色。
鞄の紐をぎゅっと握りしめる。
「だれ」
「そんな警戒しないでよ、大丈夫今初めて話しかけてるから」
へらりと笑ったその男は私に手を差し出した。
「原島蓮。君の1個上の3年だよ」
学年が違う。通りで見たことがない人だと思った。
好奇心で近づいてきたのだろうか、と警戒をするように睨みつけていれば、行き場のなくなった手を男が下ろす。
「私に何の用ですか」
「特に用事はないけどさ、聞きたいことが1つあるんだ」
「なんですか」
「君は失った記憶を取り戻したいって思う?」
なんで。
「なんでそんなことを聞くんですか」
見ず知らずの人になんでそんなことを聞かれないといけないんだろう。
そして、この人に答えたところで何になるんだろうか。
まさか、何か知っている、とか。
「何を、」
言いかけて飲み込んだ。自分自身が何に恐れているのか明確ではないけれど、今は知りたくない。
いつだって『時間』は味方だ。きっと時が経てば平穏に戻って、私は私らしく楽しく生きてーーーー。
私らしく、か。なんだっけ、私らしいって。
「心に穴があいた感じ」
「っ、え」
「する?するよね、だって君は約1ヶ月消えてたんでしょう。誰も君を見つけられずに君も自分が何をしていたのか知らない」
私の周りをゆっくりと歩きまわりながらそう言って、再び正面に立つと少し屈んで私の視線に顔を合わせる。
反抗心のような怒りようなものがうちから湧き出てきた。何度も何度も言い聞かせている。
わたしは、知らないままで前に進みたいんだ、と。
嘲笑うかのように夢の少女は毎日私を追い詰めるし、
目の前のこの男は私の無くした記憶をさぞ知っているかのように挑発して、反応を見て面白がっている。
「何か知ってるのって言葉を待ってるとしたら、大外れね原島先輩」
「…へえ」
「私は、私の記憶に興味はない。今、こうして普通に生活ができてるだけで、それだけでいいの」
吐き捨てて、原島先輩の横を通り過ぎる。
強がりと思われようがそれでよかった。
「ねえ」
「…」
「どう思われてもいいけど、僕は君の味方ってこと忘れないでね」
背中に投げかけられた薄っぺらい言葉。
私は何も返事をせずただ前を見据えて歩き出した。