「萌香っ」
学校に着いて早々、心配と安堵の顔つきで私の名を呼んだ女子達が私に駆け寄る。
1人に続いて、2人が近づいてきて私の腕を揺らした。
私は思わず笑みを浮かべる。良かった、私は普通だ、と。
「本当に本当に無事でよかった!会いたかったよお」
そう言って抱きついてきたのは、徳田サラだ。
声を震わせて私の名を何度も呼ぶサラに私もつられて泣きそうになった。
私にとっては記憶がないため彼女たちと楽しく学校で過ごしたのは昨日のことのようだが、彼女たちは私がいない間も身近に起きた友達の失踪に身を震わせていたに違いなかった。
私は、サラの背中を撫でて「ありがとう」と声を出した。
クラスメイトたちの温かい声に私は笑顔で返しながら、自分の席へと座る。友達のサラ、そして真由と晴美が私を囲んだ。
「萌香、痩せたんじゃない?ちゃんと食べてるの?」
声をかけてきたのは、黒いストレートの髪を揺らして私の顔を覗き込んだ真由だった。
「食べてるよ、ありがとう」
毎晩の夢見の悪さを話そうか迷ったが、それは飲み込んだ。今話すべきじゃない。
「ねえ、萌香」
「なに?晴美」
晴美は言いづらそうに薄縁のメガネを人差し指で押し上げながら、口を小さく開いた。
「…本当に、色々覚えてないの?」
「ちょっと、晴美っ」
晴美の肩をサラが強めに叩いた。反射的に晴美の口から謝罪の言葉が溢れる。
腫れ物のように扱ってほしいなんて微塵も思っていない。
しかし、晴美のそれは好奇心などではなく『覚えていない』ということの確認作業をおこなっているような声色であった。
「萌香はいなくなった時のこと何も覚えてないの、友達としてかける言葉もう少し考えたら、晴美」
「ご、ごめん」
「いいよいいよ、私だって何が何だか分かってないの。
でもさ、こうして元気に戻ってきてるわけだから、ねっ!もう気遣うのなしだよ、これからまた楽しく高校生活送ろうよ」
ーーー楽しく、高校生活。
記憶の中を巡る高校での楽しい思い出。
またあの頃みたいにって。
戻れるんだよね、わたし。
自分の吐き出した言葉に違和感を覚えた。でも気にしない、私はなくなった記憶がろくでもないことくらい分かっていたから。
「約1ヶ月分の授業の遅れなんてさ、萌香ならすぐ取り戻せそうだよね」
「そうかな、ちょっと大変かもしれないからノート見せてねサラ」
「ねえ、絶対サラより私の方が綺麗にまとめてるよ」
「いやいや真由は字きたないでしょ」
「はあ、そんなこと言ってサラなんてちゃんとノートとってるかすら怪しいでしょっ」
サラと真由のふざけ合いに笑いながら、私は見慣れた廊下を歩く。
移動教室の時だっていつも彼女たちとこうやって楽しく話しながらこの廊下を歩いていた。
日常に戻れたことが嬉しくて、私は教科書やノートの束を両手でぎゅっと握る。
「あっ、重田先生戻ってきてる。重田先生こんにちは」
一緒に歩いていた晴美がそう声をかければ女性が廊下の壁に絵を飾りながらこちらを振り返った。
そしてニコリと笑う。
美術の重田先生は産休でしばらく学校に来ていなかった。晴美たちの反応を見ていると重田先生が復帰したのはここ最近のことらしい。
「こんにちは。あら珍しい、声かけてくるなんて」
「だって重田先生子供生まれたんでしょ!おめでとうって言わなきゃね」
そんなサラの言葉に次々とお祝いの言葉を投げかける。私も流されるまま「おめでとう」と放った。私の言葉に重田先生は私を視界に入れて頷きながら穏やかに微笑んだ。
初めてだ。今日、好奇を含んだ瞳や心配、不安な眼差しを向けられなかったのは。きっとこの先生は私におこった出来事を知らないのかもしれない。
穏やかな瞳で私を見ていた。なんてことない普通の生徒の1人。そう思われることにひどく安心した。
そして重田先生は私たちから視線を外すと壁にかける絵の調整をしている。
重田先生が体を横にずらせば、その絵が嫌でも視界に入った。
見えた大半は真っ黒に塗りつぶされていた。なんで、こんなのを飾っているんだろう。
明るい廊下が台無しじゃない。
だけど私は少し気になって、その絵に一歩近づいた。
よく見れば、黒の絵の具が何層にも積み重なってところどころ白の線が入っていた。
赤色で描かれているわけでもないのに、炎のような揺れが描かれている。
ふと、夢の中の光景がよぎった。
「萌香あ、授業遅れるよ」
幾分か先でサラが私を呼んだ。我に返って私は友達の元へ駆け出した。