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これは夢だ。それは理解しているのに息を吸えば喉の空洞が狭くなるような感覚に陥り、あまりの息苦しさにその場に倒れ込んだ。

呼吸が浅くなる中顔を上げた先は、地面から熱を感じるほどの陽炎により視界が揺れていた。
その中には、制服姿の少女が佇んでいる。

姿は陽炎と一緒にゆらゆらと揺れており、その輪郭を正確に捉えることは難しい。
彼女が誰かに呼ばれたようにこちらを振り向いた。
声にならない声が自らの喉からこぼれ出る。

少女の顔は判別できないほどに陽炎の中に紛れていた。
だが、口元だけは鮮明に見えている。

少女の口がゆっくりと開く。

何度か開いたり閉じたりしたあと、少女は後ろに引かれる圧から逃れるように手を伸ばしながらこちらに近づこうとする。

恐怖のあまり、私は何度も『来ないで』と言葉をぶつけようとしたがそれは声に出ない。ただ喉からこぼれ出る悲鳴みたいなものがそこに響き渡った。


「っ!!」


目を覚ましたその時、見慣れた天井が視界に入って私は安堵の息をついた。
汗のせいで頬にへばりつく髪を手で払って体を起き上がらせた。

自分の部屋を出て、リビングにむかえば『日常』が広がる。頭をよぎる悪夢の片影を振り払って私は「おはよう」と声を出した。良かった、声、出た。


「萌香、おはよう。今から起こしに行こうと思ってたのよ」


母親が朝食の準備をしながら私にそう言う。
テーブルに並べられた少し豪勢な朝食は、私がここに帰ってきてからというもの毎日だ。


「おはよう、萌香」

一足早く朝食を食べている父親はそう言って、あと一口ほど残っている焼き鮭を咀嚼して飲み込んだあと、大雑把に畳まれている母が読んだ後の新聞に手を伸ばした。

「お父さん、おはよ」


私の日常は、まだ普通には戻っていない気がしている。
明るいバラエティ番組を流しているテレビを変えようと、チャンネルのボタンを数回押しながら椅子に座った。


『現在騒ぎになっている連続失踪事件、失踪している方々は若い女性が多いとのことですが、これにはあらゆる憶測が飛び交っておりますーーー』


正面に座っている父親によってチャンネルは奪い取られ、電源を切られる。画面は真っ暗になりリビングに沈黙がうまれた。


「関係ない」

父親は自らに言い聞かせるような低い声でそう言った。
私は無言で父親を見つめる。


「お前は、何も考えなくていいんだ。今日学校に行くんだろう、楽しんできなさい」


「…うん」


私は、失踪した。
失踪して約3週間後、家の近くの河原で見つかる。
気を失った状態で見つかり、目を覚ましたあと私は失踪中の記憶を無くしていた。

私は3週間ほど何をしていたのか、なんで失踪したのか自分のことなのに何も分からない。
ただ分かっていることは、失踪する前まで普通の日々を送っていたということ。

失踪直前のこともなぜかまるごと忘れているため、自分の様子は分からないが両親からみてもとくに変わった様子はなかったそうだ。

失踪中のストレスで記憶障害を起こしている、そう結論づけられた。

誰かに連れ去られて身代金を要求されたということもなければ、衣服等も失踪前のままだったという。

失踪中私はこの世界から忽然と姿を消したようだった。
もうそれならそれでいい。ニュースなどで囁かれているような変な噂なども頭に入れないようにした。


「いってきます」

「本当に送って行かなくていいの?お母さん心配だわ」

「大丈夫大丈夫」

へらりと笑ってそう言う。
ポケットに入れているスマホの画面を明るくして充電のパーセンテージをみて「よし」と呟く。


「何かあったらすぐに連絡するのよ。一応先生にも気にかけるように連絡してるから」

「分かってる、大丈夫だから」

母は失踪のことがあり、私にたいしての過保護が度が増している。無理もない。「いってきます」と行って出ていったその日私は帰ってこなかったのだから。

だけど、いつまでも恐怖に縛られて誰かに縋り付くのはよくないと思っていた。

かわいそうだと思われたくないという、強がりでもあったけれど私はもう大丈夫だと笑っていないとどうにかなってしまいそうだった。

学校までの道のりは、徒歩10分ほどである。
私は夏が近づくじめじめした暑さに顔を顰めた。

顔を上げた先は、地面から立ち上る熱によって視界が揺れている。

自分の行先の形は歪んでいる。思わず足を止めた。


「…かげ、ろう」


小さな声でそう呟く。
自分でもよく分からないまま、隣をみた。
当然広がるのは空虚。わたし、やっぱり何か大事なことを忘れている気がする。

ふと、今日の夢を思い出した。

口を動かしながら、こちらに近づいてこようとする顔も分からない少女。


「っ」


一瞬にして身体中が恐怖に包まれた。忘れるように頭をふる。
そして手のひらで自分の頬を軽く叩いた。

私は大丈夫。

目の前に広がる陽炎に私は歩みを進めた。