まず何から手をつけるべきか、というより
誰から話をきくべきか、と考えた。
私の一番近くにいて、一番何かを伝えたがっている人物は一目瞭然だった。
廊下に飾られている黒い絵の横には美術室があり、私はそこに足を踏み入れる。
「晴美」
椅子に座り絵を描いていた彼女が私の方を見た。
美術室は静かで、晴美しかいない。
1人の空間で黙々と作業をしている晴美に声をかけることは少し憚ったけれどサラと真由がいると晴美は言いたいことを我慢しているようにみえたので、この時間しか本心で話せそうにないと思った。
晴美は、何度か私に何かを伝えようとしていた。
「本当は今日部活ないの、だから私だけ」
晴美が私が疑問を問いかける前にそう言った。
「そうなんだ」と答えて、私は晴美が描いている絵に近づく。
「綺麗…」
「ありがとう」
海の絵だった。真ん中には鯨が描かれており夕日に照らされている。
作業を再開させた晴美の横に座った。
「ねえ、晴美にききたいことがあるの」
晴美の手が止まる。
「みつお ひろなさんのこと、何か知ってるんじゃないの」
「っ」
やっぱり、晴美は何かを隠している。
「私が帰ってきた時にきいてきたよね、『本当に、色々覚えてないの?』って。
色々ってことは、1つだけじゃない、私が思い出せない記憶はいくつかあるってこと?」
晴美は唇を強く噛み締めて首を横に張る。
「私のなくなった記憶の中に、みつおひろなさんは関わってる?」
晴美は返事をしない。堪えるように唇を噛んで首を横に振るだけだ。
「お願い、何か知ってるなら答えて晴美」
晴美の手から筆が落ちた。そして床を汚す。
俯いた晴美が小さな声で「ごめん」と発した。
「…言えない」
「なんで」
「ごめん、ごめんなさい」
怯えたように声が震えていた。
何度か伝えようとしていた時に耳を傾けていれば聞き出せたんだろうか。
縋るように晴美の肩に手を添える。
「晴美、私もねサラの言う通り今を楽しく生きているんだから、それでいいって思ってたの。
でも、今、苦しんでる人がいて、その苦しんでる人を助けるには、私の記憶を調べるしかなくて、だから」
「知りたいの」と。自分でも、自分がよく分からなかった。
幸せになりたい。平凡で、楽しく、失踪のことなんて何なかったようにって。家族も友達もそれを望んでいる。
パズルのピースが抜け落ちて、必死に探しているうちにすべてが崩れ落ちていくのは絶対に避けたいのに。
とらえたひとかけらをかき集めるように私は、必死に真実をみようとしている。
夢の中の少女。
陽炎。
失踪。
記憶。
失ったかもしれない友達。
すべてが繋がるなんて、あり得ない。
それを証明するために、今動いているのだと言い聞かせた。
「…223」
「…晴美?」
俯いたまま、晴美が小さな声で言葉を続ける。
「…ロッカー、右から4番目、223」
「えっ、と」
「それしか言えない。みつおひろななんて知らない。はやく行って」
床に転がった筆を拾い上げて、また作業をする晴美その手はかすかに震えていた。
私は困惑する脳内をなんとか落ち着かせようと晴美の言葉を思い出しながら立ち上がった。
「…私のせいじゃない」
晴美のそんな小さな声。自分に言い聞かせるような言葉だった。
私はそんな晴美になんと声をかけたらいいか分からず、彼女に背を向け美術室を出た。
ロッカー、右から4番目、223。
一度美術室を出て、廊下の壁に黒い絵。
そしてその横には資料室。
その扉を開ける。
美術の道具などが散乱している端に、美術部の部員が使うロッカーだろうか、7つほど並べられていた。
そして右から4番目のロッカーの前に立つ。
教室や靴箱にもロッカーはあるが、223という番号が疑問だった。
だが、今いる資料室のロッカーには鍵がついており3桁の番号を並べて開けられるように設定がされている。
ロッカーの表面に埋め込まれているダイヤル式の鍵に指先が触れる。ひとつずつ数字をずらしていくと簡素な音がそこに響いた。
「に、に、さん」
左から2.2.3と並べられたそれ。
私は恐る恐る表面のへこみに左手の指先を引っ掛ける。
少しの力でそれは開いた。
唾をごくりと飲み込んだ。
落ち着かせるように息を吐く。
晴美の知っていることがここにあるということなんだろうか。
それとも、私のなくなった記憶の全てがここに集まっている、とか。
何も分からないのに、手が震える。開けた先を見る勇気がなくて目を閉じた。
「…大丈夫、大丈夫」
自分にそう言い聞かせて、私はゆっくりと目を開ける。
「えっ…」
そこにあったのは、無造作にいれこまれた絵の数々と何かが書かれた紙が二つに折られて中で散らばっていた。
もう一度、右から4番目であること、鍵の番号が2.2.3であることを確認し、私は中に入っている絵を取り出す。
公園で2人の少女が遊んでいる絵。
それから、空や、山などと風景画などである。
そして、平穏な優しい世界の絵ばかりではなく黒い背景の中に鬼のような化け物が潜んでいる絵など、1人の人間が描いたようには思えない絵が中に詰まっていた。
描かれている絵の一枚一枚を裏返してみてみるが、名前などはとくに書いていないようだ。
そして中に1枚の写真を見つけた。
取り出してみると、どこかの飲食店で窓越しから写真を撮っている隠し撮りのようなもの。
1人は顔が見えず、髪が長くスカートを履いているためおそらく女性。そして、正面に座っているのが誰なのかはすぐに分かった。
「…真由、だ」
何の写真なんだろうか。こんな、隠し撮りみたいな写真。ドラマなどでよくみる、探偵や警察が対象者を調べるためにとるような、そんな写真に思える。
だとしたら、誰が何のために?
疑問をもった瞬間に、知りたくないという恐怖心とやらなければならないという義務感が頭の中で葛藤する。大丈夫、まだ大丈夫。もし、何か知ったとしてもまだ戻れるんだから。
私は、その写真を一度ロッカーに戻したあと、
文字が書かれている二つ折りになっているものを取り出す。
「…お金がいる、そのためには、何をしたらいい、分からない、何も、私には分からない」
綺麗な字で書かれているそれは悲痛な叫びのようなものであった。
そしてもう一枚には、それにたいする返事のようなものが綴られている。さっきの方とは違い少々荒っぽく書かれている字。おそらくこのロッカーを使っていたのは1人の人間じゃない。手紙のようなものも裏返してみたりするが名前などは書いていない。
ーーーしかし、1人だけ、名前が綴られていた。
「ここまできたら、サラに頼むしかないんじゃないか、お前に残ってる手はそれだけだ、大丈夫、どうせ忘れるんだから」
小さく声に出して読んだ後、もう一度その文を目で追って、息が荒くなる。ロッカーの中にもう一度それを投げ入れてみえないように閉じた。
ロッカーの表面に額をあてる。
私は絵は描けないから、絵は私ではないのは確実だ。だけど、誰かとやりとりをしている手紙らしきものについては私じゃないと断言はできない。なくした記憶の一部だとしたら。
だって、『どうせ忘れる』って。
「サラ…」
一体、私は何を忘れて、みんな、何を隠しているんだろうか。