「……」
「……」

 優しく匂う、新緑の風。
 未来(みき)さんと2人、屋上のベンチに座り体を寄せ合う。


 何度か未来(みき)さんの元を学校の先生が訪ねて来た。
 校長先生も、教頭先生も。色んな人が来たけれど、未来(みき)さんは誰1人として覚えていなかった。

 もう、復職は難しい。
 それが学校の見解だった。



「……未来(みく)
「どうしました?」
向日葵(ひまわり)って、開花してからの寿命は1週間らしいよ」
「…………え?」
「って、ふと思い出した。なんか昔、未来(みく)と話したことがあった気がして」
「……」


 向日葵が咲く時期にはまだ早い。
 それなのに、何の前触れも無く出てきた単語に驚いた。

 あの暑い夏の日。
 “佐藤先生”と一緒に食べた、ラムネ味のアイスクリーム。 

 夏休みの補習のこと、今の未来(みき)さんは間違いなく覚えていない。その事実にまた悲しさを覚え、涙が少しだけ滲んだ。

 だけど、私の記憶が欠乏していないことが救いだった。
 今もまだ鮮明に残る“佐藤先生”との記憶。絶対に失くしたくない、大切な……大切な記憶だ。



「ねぇ、未来(みく)
「どうしましたか、未来(みき)さん」
「……未来(みく)
「……」

 頬を()り寄せ、甘えるような仕草をする。

 元々筋肉質だったと言われても誰も信じてはくれないほどに筋肉は落ち、痩せ細ってしまっている未来(みき)さん。高校のグラウンドで大きな声を張り上げて、寒くても半袖Tシャツにハーフパンツ姿で走り回っていた“佐藤先生”は、もうどこにも居ない。





「————時間の問題だね」
「……え?」

 静かに開いた屋上の扉から現れたのは、まさかの戸野くんだった。
 久しぶりに姿を現した制服姿の戸野くんは、静かに歩みを進めて、私たちの方に近付いて来る。

「佐藤先生、もうじきだね。もう、長くない」
「……な、何よ。突然来て! それに大体、どうしてここが分かったの!」
「陸也くんから聞いた。2人はいつもここにいるって」
「……」
「ねぇ、森野。……佐藤先生が死んだらさ、僕と付き合わない?」
「…………は?」
「“同じ病気にかかる当事者”。お互い分かり合えることもあるだろう。何より、僕はずっと前から君が好きだからさ」


 戸野くんの言っていることが、全く理解できなかった。意味不明な戸野くんは、こちらに向かって歩きながら目元を赤く染めていた。泣いていたのか……。頬には涙の跡が一筋ほど付いていた。

「……佐藤先生は死なない。戸野くんとは、付き合わない」
「どうして?」
「私は、佐藤未来(みき)さんのことが好きだから」
「そんなにも弱っているのに?」
「……分かった。言い方を変える。私は戸野くんのことが好きではない。だから、付き合わない」
「…………」
「先生がどうとか関係無いよ。そもそも私、戸野くんに好かれるようなことをした記憶はない」

 悲しそうに顔を歪ませた戸野くんは、その場に鞄を置いて更に近付いて来る。赤くなった目から涙を零し、拭うこともせずポタポタと床に零し続けていた。

「絶対、付き合わない?」
「……うん、絶対。私はずっと、先生と一緒。そう決めているから」
「……」

 戸野くんは嗚咽を漏らしながら急に走り出した。
 私と未来(みき)さんが座っているベンチを通り過ぎ、屋上を囲っているフェンスに向かう。そしてそのフェンスを登り(また)いだ戸野くんは、あと一歩で落ちてしまう————という危険な場所で立ち止まった。

「と、戸野くん!?」
「ちょ……」

 杖を手に取り、力の入らない体に喝を入れて戸野くんの元へ向かう。未来(みき)さんも驚いたような表情で杖を手に取り、同じく戸野くんの方に向かった。

「……森野。僕ね、陸也くんの診察を受けてきたところなんだ」
「え?」
「……後天性の“記憶能力欠乏症”だって、僕も。……遺伝子には逆らえない。兄弟に1人でも患者が居たら、発症する確率が急激に上がるらしいよ」
「…………」
「まだ僕、16歳なのにね。兄貴よりも遥かに早い発症に……気が狂いそうだよ」


 突風が吹き、体力の無い私と未来(みき)さんは2人してよろけながら歩みを進める。一方の戸野くんは、フェンスに手を掛けたまま私たちの方をジッと見つめて言葉を継いだ。

 先程、ナベによって余命宣告をされた戸野くん。心のどこかで、“自分は大丈夫”と高を括っていたそうで、突然の宣告に理解が追い付いていないみたい。

 ——どうせ、死ぬのなら。
 私の知らないところで、私に想いを寄せていたという戸野くん。人生後悔しないよう、私に告白をするという選択をしたとのことだった。

 そして
 たった今、振られたから。

 楽しみも希望も何もかも見出せないから、今ここで死んでやる。

 それが、戸野くんの言い分だった。


 病院の屋上のくせに、どうしてこんなにもフェンスが低いのか。簡単に乗り越えられる高さのフェンスに対して、初めて怒りすら覚える。



「ねぇ待って、待って!! い、意味分かんない!! その流れは本当に意味分かんないって!!」

 叫んだ勢いでまたよろけてしまい、その場に倒れてしまう。それでも、床に這いつくばりながら戸野くんの元へ向かい、こちら側に戻って来るよう叫ぶ。

「戸野くん、早まったら駄目だって! こっちに戻っておいでよ!! どうして、どうしてそうなるの!?」

 普段は他の人も居るというのに、こういうときに限って私と未来(みき)さんしかいない。
 体力が無い2人。未来(みき)さんは戸野くんが誰なのか分かっていなかったけれど、その行動に危険を感じてフェンスに向かっていた。


「森野、好きだよ」
「やめて!」
「森野、君と出会えて良かった」
「戸野くん!!!!」


 ありったけの力を振り絞り、フェンスに飛び込んだ。

 もう、夢中だった。
 戸野くんの腕を掴むため、振り絞る力。

 どこから出てきたのか分からない私自身の力でフェンスを乗り越えて、既に足を踏み外していた戸野くんの腕を掴む。



「森野、離せ!!!!」
「み……未来(みき)さーーーんっ!!!!」
未来(みく)っ!!!!」



 叫び、嘆き、騒ぐ。
 左手で戸野くんを掴み、右手でフェンスを握るも、当然だが私にはもう限界だった。

 唇を噛みしめ、口内に血の味が広がった時。
 隣に現れた未来(みき)さんもまた、同じように戸野くんの腕を掴み、必死に唇を噛みしめていた。


「……バカ……。バーカ!!!!」
「み、未来(みき)さん!!!」
「佐藤……離せよ!!!!」
「離さない!!!!」



 未来(みき)さんと一緒に私もありったけの力を振り絞り、2人で戸野くんを上に引き上げた。


 そして、それと引き換えに落ちて行く私と未来(みき)さん。

 終わった……。遠くなる戸野くんの姿を見ながら、そう思った。



「————あのなぁ、お前が誰だか知らねぇけどな……!! 命を粗雑に扱おうとする奴が、この世で1番大っ嫌いなんだよ!!!!!」



 最期の力を振り絞り、まるで捨て台詞のような言葉を吐き出した未来(みき)さん。
 どんどん遠くなる戸野くんはフェンスを握ったまま、こちらに向かって叫んでいた。


「さと……森野ぉぉぉぉ!!!」





 落下していく中、未来(みき)さんと顔を見合った。

 青白い顔で口から血を流している未来(みき)さん。
 それなのに、清々しいほど良い笑顔を浮かべていた。


 

未来(みく)、愛してる————」



 未来(みき)さんの呟きが耳に入ると同時に、これまでの人生で味わったことない強烈な痛みが私を襲う。

 痛い————その言葉では表せないくらい、痛い。




 腕を伸ばせば届く位置に居た未来(みき)さん。
 限界を遥かに超えた身体に喝を入れ、少しずつ移動して未来(みき)さんの胸に自身の耳を近付けた。

 びくともしない未来(みき)さん。
 もう名前を呼ぶ気力も無い。けれど、消えそうな命の灯火を、どうしてもこの目で見届けたかった。





「こっちっ!! こっち!!」
「誰か、おい医者!! 早く来いよ!!」





 続々と人が集まって来る。

 段々と騒がしくなる私たちの周り。

 聞こえて来る喧騒。


 だけどそれらは、ここではないどこか。
 遥か遠い場所から、聞こえて来るような気がした————……。