「そう言えば、これ」
「……ん?」
佐藤先生が入院して1か月。カレンダーは4月になっていた。
学校は新年度が始まり、私は無事2年生に進級できた。所属は2年A組らしい。だけど体力が落ちて歩く際に杖が必要になった私。毎日通うことが現実的に不可能となってしまったため、大人しく学校を休学していた。
一方の佐藤先生。こちらは当然失われた記憶が戻って来ていない。自分が教師だったという事実すら覚えていないため、学校は佐藤先生を休職扱いにしたらしい。学校の関係者とやり取りをした、ナベからの情報だ。
私、佐藤先生のこと何も知らなかったけれど。
ご両親は既に他界しており、先生自身は一人っ子らしい。
身内に頼れる人が居ない先生。何をするにも壁があるんだと、ナベは非常に頭を悩ませていた。
先生と一緒に死ぬと決めていたのに、あまりにも先生のことを知らなくて。ナベから聞く先生の話に、驚かされることが非常に多かった。
「……未来さん、これは?」
“先生じゃないから先生と呼ばないで”
そう言った先生————未来さんの意思を汲んで、最近は名前で呼んでいる。
「……それ、“森野未来様”って書かれた手紙。これを俺が書いた記憶は無いけど、どう見ても俺の字だし。何より、ちゃんと未来に渡さなければいけないと思った」
私の手に収まる1通の手紙。
桜の花びらがデザインされた淡いピンク色の封筒を未来さんに渡されたのだった。
お世辞にも綺麗とは言えない文字。だけど、書かれた私の名前から伝わってくる一生懸命さが、“これが何なのか”を伝えてくれているような気がした。
「……実は、私も」
「え?」
ポケットにずっと入れていた手紙を取り出し、未来さんに渡す。
“佐藤未来様”
この手紙自体は、未来さんの病状が悪化する前に書いたものだ。
いつ渡そうか、ずっと悩んでいた。今の未来さんにはこれまでの記憶が無い。それでも、今このタイミングで渡せたことに喜びを感じる。
一方、受け取ってくれた未来さんは不思議そうに首を傾げていた。
「……今、読んでも良いの?」
「駄目です。できれば私が死んだ後に読んで下さい」
「え、未来は死なないよ」
「……」
「死ぬのは、俺だけで十分」
とはいえ——……そう言って手紙をポケットにしまう未来さん。「俺がいよいよヤバそうになったら読むわ」と呟きながら微笑んでいた。
私の手元にある、未来さんから受け取った手紙。
私も今読みたい衝動に駆られるのを抑えて、同じようにポケットにしまいこんだ。
未来さんも歩行の際は杖を使っていた。
お互いに「本当に歩けなくなる日が来るまで、車椅子には絶対乗らない」と強気な宣言をしている。別に打ち合わせた訳ではないけれど、2人がそれぞれの診察で同じことを言ったみたいで。それをナベは苦笑いしながら教えてくれた。
春の爽やかな風が吹き抜けていく。
川内総合病院の東棟は、屋上が憩いスペースとして開放されている。
私と未来さんはその屋上のベンチに座り毎日雑談する。それが私たちの日課となっていた。
未来さんは本当に何も覚えていない。
高校でのこと、何一つ覚えていない。
「最近、渡邊先生に漫画を借りたんだ。これがね、面白いんだわ」
「何の漫画ですか?」
「『転生したらアリだったんですけど!?』って漫画。……転生って、凄いよね。アリはちょっと微妙だけどさ、俺も余命の無い体に転生したいなって思った」
「未来さん……」
「未来は何に転生したい?」
「……私は」
——私は、未来さんとまた出会えるなら、何でも良い。できれば、健康な体で。歳を取ってもずっと一緒に過ごせるような、幸せな…………。
「……」
喉まで出てきたその言葉は飲み込んで、空を見上げた。滲んだ涙を見られないように軽く拭い、小さく唇を噛みしめる。
「……」
「未来?」
「ふふーん。私は、アリかな!」
「え、アリなの!? ちょ、ならこの漫画を是非読んだ方が良いよ! 人生観変わるから!」
楽しそうな未来さんの様子に涙が滲んだ。「未来さんもアリに転生しましょ」と呟くと「未来が言うなら……」と、真剣な表情で考え始めた。
実際、転生先はアリでも何でも良い。
私と未来さんが楽しく元気よく、長生き出来る世界線。そんな理想的な世界であれば、私は何になったって良い。
いつか訪れたらいいのに。
1人でそう願いながら、私はまた空を見上げた。
その日の夜。
わかば園の自室に来客が訪れた。
朱音さんと夏芽さんの2人が来たから、何事かと思い急いで横たわっていた体を起こした。すると朱音さんが深刻そうな表情で「……未来、ごめん」と一言呟いた。
その言葉が理解出来なくて首を傾げると、2人の後ろから中年の男女が現れた。その男女は「み……未来……」と涙を流しながら言葉を発して、飛ぶように部屋に入ってきたのだ。
「み、未来!! ごめん、ごめんね」
「げ……元気か? 未来、未来!」
「…………?」
大号泣している男女2人。その後ろで同じように涙を流している朱音さんと夏芽さん。状況が全く理解できなくて、つい体が固まってしまう。
「未来……朱音さんから聞いたよ。杖が無いと歩けなくなったって。……本当にごめん。本当はこうなる前に会って、どこかに出掛けたりしなければならなかった……!!」
「悪い事をしたと思っているの。でも、未来に余命宣告されたことが、悲しくて……辛くて。未来が1番辛いってこと、分かっていたのに! 現実を直視したくなくて未来から目を逸らしていた。今更何を言っても遅いけれど、本当にごめんなさい!」
「……」
意味が分からなくて、首を傾げながら朱音さんに視線を送る。「未来、どうした?」と聞いてくれた朱音さんに向かって小さく頷いて「……この方たち、どなた?」と呟くと、絶望にも似た泣き叫ぶ声が私の部屋に響き渡った。
朱音さんによると、この2人は私の『両親』らしい。だけど、その一切が分からない。急に両親だと言われても理解も出来ないし、意味も分からない。
夏芽さんが「記憶の欠乏……」と呟くと、更に大きく泣き叫ぶ声が響く。
「だ……だから、未来の記憶が無くなってからでは遅いと、あれほど言っただろうが!! もう何もかも手遅れじゃないかよ!! どうしてくれるんだ!!!!」
「そう言うけれど!! あなただって、これまで一言も『会いに行こう』とは言わなかったじゃない!! 私だけに責任を押し付けて、自分だけを正当化させようとしないで!!」
女性は手に持っていた花束を投げ捨て、部屋を飛び出して行った。そして、それを追い掛けて行く男性と朱音さん。
3人が飛び出して行った後の部屋に訪れる静けさ。残された夏芽さんは「……未来ちゃんのせいじゃないから」と一言呟いて、優しく私を抱きしめてくれた。
気が付かないところで進行している記憶の欠乏。
分かっているのに、いざ現実となると悲しみを覚える。
投げられた花束に視線を向ける。
私が昔から大好きだったピンクや赤色の花に、可愛いリボンがあしらわれていた。
誰にも話したことがない、私の好きな色。
その現実があまりにも虚しくて。寂しくて。
だけど不思議と切なくて、複雑で。どうしようもなかった。