「森野」
「……戸野くん」
ある当番の日。学級日誌を書くために1人教室に残っていると、帰ったはずの戸野くんが戻ってきた。
やっぱり私が1人の時じゃないと話かけて来ない。自分がいじめれると嫌だから。それに尽きるだろう。
「久しぶりじゃん。話し掛けてくるの。やっぱり、いじめられている人と話すと自分の印象が悪くなるからだよね」
「……別に、そんなことない」
戸野くんは教室に入って私の隣に座り、日誌を覗き込んだ。別に大したこと書いていないのに、ジッと見られ……正直なところ調子狂う。
「森野、体調はどうなの」
「別に。何も変わらず」
「……そう」
戸野くんに本当のことを言う筋合いは無い。体力が落ちているとか、そんな話は彼に不要。何も無い。それを貫き通すためには、1番楽で早い言葉。
「ところで、何しに来たの」
「……様子見。陸也くんの依頼」
それだけを言って、黙った戸野くん。ふぅ……と小さく息を吐いて、軽く頭を搔いた。
陸也くんって……ナベのこと。相変わらずナベは懲りていないのだろう。戸野くんを使ってまで、学校での様子を知ろうとするのは普通じゃないと思うのだが。
「詳しいことは知らない。だけど、佐藤先生から引き離してと、だけ言われている。森野に同級生の友達を作って欲しい。それが陸也くんの願いだって」
「大きなお世話だよ……」
どうせすぐ死ぬんだから。出てきそうになったその言葉は飲み込み、日誌の中身を書いていく。その間、戸野くんは黙ったまま私の隣に居た。
結局、ナベは諦めていないんだろう。
今もまだ、どうにかして私を佐藤先生から引き離そうとしている。
ナベは、私の為と思ってやっていることなのだろうけど。何が私にとっての幸せなのか、きっと何一つ考えていない。
「……で、いつまで居るの」
「君が帰るまで」
「迷惑だよ。さっさと帰って」
「嫌だ。僕は君と一緒に帰るんだ」
少しズレた眼鏡をクイっと押し上げて、また私の書いている日誌を眺める。戸野くんは何かを考えるかのように、首を傾げていた。
「……因みにさ。森野って今も佐藤先生と仲が良いじゃん。佐藤先生が原因でいじめられているっていうのに」
「……」
「陸也くんも、何で森野を佐藤先生から引き離せと言うのか僕には分からないけどさ。森野は、佐藤先生のことが好きなの?」
「……」
私は何も答えずに、日誌を荒く閉じた。そうして、文房具たちを投げ込むように鞄に入れて席を立つ。「戸野くんに答える筋合いは無い」と一言呟くと、「図星なんだ」とまた声が返ってきて、それにまた苛立ちを覚える。
ナベと言い、戸野くんと言い、もう放っておいてくれたら良いのに。
医者だから、身内に同じ患者が居たから、なんて……そんなものを盾に私の人生を妨害する権利は無い。残りの短い人生をどう生きるか。それを決めるのは私だ。
「元気な戸野くんには、余命宣告された人の気持ちなんて分からないよ。どうせ死ぬなら私は、いじめられても、死ねって言われても、菊の花を添えられても、石ころを投げられても。それでも私は……私は、佐藤先生の傍に居たいと、心の底から思っている」
「森野……」
「何も知らないくせに。ナベに頼まれたからという理由だけで、私の邪魔をして来ないで」
驚いたような表情の戸野くんを放って、教室を飛び出た。
日が落ちて僅かな電灯だけが足元を照らす廊下。日誌を提出するため職員室に向かっていると、突然扉が開いた教室から「森野」と私を呼ぶ声が小さく聞こえて来た。
聞き馴染みのある声。その姿を見なくても、誰かなんてすぐに分かる。
「びっくりしました…………」
「ごめん」
「突然開かないで下さいよ。寿命が縮まりました」
「それは大変だ」
その声の主————……佐藤先生は、軽く手招きをして私を教室の中へと導いた。そこは物置のようになっているようで、大きな棚が並ぶ部屋に沢山の物が並べられている。少し埃っぽいこの部屋で、先生は一体何をしていたのだろうか。
「ねぇ、森野。俺が原因でいじめられているって、どういうこと?」
「……え?」
私の前にしゃがみこみ、両手で私の両腕を掴んで悲しそうな表情をしていた。
戸野くんとの会話を聞いていたとしか思えない先生の言葉。いつから、どのくらい聞いていたのだろうか。
「ねぇ……死ねって言われたってどういうこと? 菊の花も石ころも、俺は何も聞いていないよ?」
「……話、聞いていたのですか」
「ごめん……。森野が教室で日誌書いてるって聞いたから。様子を見に行こうと思って」
次第に目が潤み始める先生。その両手は酷く震えていた。
扉の窓から僅かに差す電灯の灯りだけが頼りの室内に2人。お互いの呼吸音だけが、静かに響く。
「——いじめの原因は先生じゃないですよ。私が悪いんです」
「この前もはぐらかして言わなかっただろ」
「先生のせいじゃないからです。全て自己責任ですから」
頑なに理由は語らず、その台詞ばかりを繰り返した。全然納得していなさそうな先生は、そっと目を伏せて溜息をつく。そして一言「俺には何でも話してくれって言ったじゃないか……」と呟いた。
その言葉に返答できず先生から目線を逸らすと、優しく腕を引っ張られてその場に座らされる。そして、そっと先生の胸に包み込まれた。
「お願いだから、俺の前では強がるなよ……」
たった一言だったけれど力強い先生の声色。それとは反対に、抱きしめてくれていた腕の力は、以前と比べ物にならないくらい弱々しくなっていた。実感したくないのに、こういうところで先生の病気を実感してしまう。私の体力が落ちているのと同じように、先生も体力が落ちているのだ。
まだ2人とも記憶の欠乏は感じられないけれど、それもいつかはやってくる。その現実がまた怖くて、恐ろしい。
「……森野、わかば園まで送る。一緒に帰ろう」
「でも、そんなところ見られたら何を言われるか……」
「誰に何を言われるの」
「……」
「大丈夫。俺がお前を守る」
2人で物置のような部屋を出て、職員室に向かった。
私は担任に日誌を提出し、先生は帰宅の準備をする。「玄関のところで待っていて」という指示に従って1人玄関に向かうと、1年の靴箱付近に戸野くんが立っていた。「まだ靴があったから待ってた」という恐ろしい言葉を口にして、少しずつ私の方に歩いてくる。
戸野くんの顔に感情が見えず、とにかく怖い。どうして戸野くんがそのような表情なのか全く理解できないが、ただこの状況は非常にまずいと思った。
「職員室で何をしていたの」
「別に、戸野くんには関係無いって」
「やっぱり、佐藤先生なの?」
「だから……関係無いって!!」
大きな声で牽制するように叫ぶと、一瞬だけ戸野くんが怯んだように見えた。その隙に靴を履き替え外に出そう。そう思い体を動かすと、後ろから低く冷たい声が飛んできた。それと同時に、他に誰もいない静かな玄関からは冷たい風が入り込み、全体的に冷たい空気感に覆われる。
「戸野、この間から何だよお前」
「……佐藤先生」
睨みつけるような視線を戸野くんに向け、「さっさと帰れよ」と更に冷たく言い放った。先生は自身の靴箱からスニーカーを取り出し、スリッパをしまう。その様子を不満そうに戸野くんが眺めていた。
「……何って、こちらの台詞です。佐藤先生。先生がどういうつもりで森野と関わっているのか知りませんけど、同情で気に掛けているだけなら、今すぐにでも止めて下さい。森野は先生のせいでいじめられているし、辛い思いをしているんだ。森野の病気のこと、何も知らない人が同情して良い物ではありません……!!」
戸野くんの言っている意味が分からずに呆然と立ち尽くしていると、先生は「バーカ」と一言呟いて鞄をその場に置いた。そして戸野くんの方に歩み寄り、キッチリと結ばれている制服のネクタイを手に取り引っ張る。
「お前こそ、森野の何を知っているのか知らないし、森野のことをどう思っているのか興味も無いけどさ。病気のことは当事者にしか分かんねぇよ。当事者同士だからこそ、共有できる感情もあるだろ」
「……どういうこと……」
「つまり。同情するなとはこちらの台詞だ。俺は後天性の“記憶能力欠乏症”であり、余命はあと1年も無い。徐々に衰えていく体。それがどんな感じなのか、お前には一生分かんねぇだろ」
ネクタイから手を離し、大きく溜息をついた先生。戸野くんは驚いたような表情のまま固まってしまった。
しかし、まさか先生が戸野くんにカミングアウトするとは思わなかった。病気を他人に話すのは勇気のいること。私自身もそうだから余計になんだけど。あまりにも普通に、呼吸をするようにそう言った先生は格好良く見えた。
「お前がどういう理由で俺と森野を引き離そうとしているのかは知らん。誰の差し金かも俺は知らん。けれど、お前に病気のことを語る資格は無い」
「違う……。僕の兄貴は“記憶能力欠乏症”で亡くなったんだ!! だから、誰よりもその病気のことを知っているつもりだし、森野のことを誰よりも理解できると思っている!」
「……バーカ。なら尚更だ。兄貴は兄貴だ。お前は病気の当事者ではない」
帰るぞ。と私の肩を叩き歩くよう促す。靴を履き替えて先生の後を追って玄関を出る途中、ふと視界に入れた戸野くんは酷く悲しそうな表情で一点を見つめていた。
既に真っ暗になっていた外を、僅かな街灯だけが私たちを照らす。車に向かう先生の背中を追いかけていると、ふと立ち止まった先生はこちらを振り返ることもせずに言葉を発した。
「戸野が、あんなにも目くじらを立てる理由はなんだ?」
「……ナベのせいです」
「ナベ?」
「私と先生の主治医、渡邊先生。彼が私と佐藤先生を引き離そうとしているのです」
「……何でだよ」
「…………」
込み上げてきた涙で言葉が出なかった。
先生は私の肩を支え、車を目指す。優しく助手席に乗せてくれた先生自身は運転席に座り、小さくまた溜息を零す。
私は勇気を振り絞って、先生にちゃんと話をした。
先逝くであろう後天性の佐藤先生と仲良くしていると、私が傷つくことになる。だから佐藤先生と関わるなと、ナベに言われたこと。ナベは高校で同級生と仲良くなって欲しいと願っていること。
そして、それらを実現させるために、ナベが戸野くんに私たちの邪魔をするよう依頼していたこと。戸野くんのお兄さんは“記憶能力欠乏症”で、ナベと友達だったこと。全て、佐藤先生に話した。
「……何だよ、それ。医者だから何しても良いとか思ってんの?」
話を聞いた佐藤先生は怒っていた。
戸野くんに佐藤先生の病気のことを言わなかったのは正解だ。だけど最初、私の病気のことを戸野くんに話したことは間違っている。そう言って語尾を強めた。
「亡くなった友達の弟だから何だ。そんなの関係無いし、戸野に俺らの邪魔をされる筋合いも無い」
ゆっくりと車を発進させ、学校を後にする。
怒りが抑えきれない様子の先生は、少しの苛立ちを見せていた。
「……今度、渡邊先生の診察があるんだ。物申しておく」
「喧嘩はしないで下さいね」
「それは、保証できん」
しばらく無言が続いた静かな車内。
移り変わる窓の外を眺めていると、ふと気になっていたことを思い出した。
「……あ」
「ん、どうした」
「そう言えばずっと聞きたかったんですけど、冬休みに補習していません。評定2だったのに何故ですか」
「……あぁ、そのこと?」
1学期は運動が苦手すぎて評定2を取ってしまった。しかも、2以下は補習があるという特殊な学校。体育で補習対象になった人が私以外に居なくて、夏休みはプールサイドの掃除をしたのだった。
そして2学期もやっぱり2以下だった。それなのに先生は補習をしなかった。
私の質問を聞いた先生はふふっと笑いを零した。そしてポンポンッと頭を叩き、そのまま優しく撫でる。
「ポインセチア見に行っただろ。あれが補習」
「え?」
「ってことにした! 何をしても担当教師の勝手。2学期も森野だけだったし、それで良くない?」
信号で停車したタイミングで私の方を向いた先生は、ニヤッと無邪気な笑顔を見せた。久しぶりに見たその笑顔があまりにも素敵に映って、涙腺が緩み切っている私の目からは、簡単に涙が零れ落ちた。
「え、何で泣いているの!? そんなに補習したかった!?」
「違います。先生の笑顔……」
「俺の笑顔?」
「先生、病気が分かってから疲れているというか、辛そうな表情ばかりだったから。久しぶりに見た笑顔に感動しました」
「な、何だそれ……」
信号が青になり、また走り出した車。
このまま真っ直ぐ進んで、次の信号を左折すれば川内総合病院だ。
もうすぐ終わる。先生との時間。
窓の外を眺めながら、反射して写る先生の顔を眺めた。
真っ黒な短髪。少しだけ彫の深い、整った綺麗な顔。筋肉質な体。力強い腕。
佐藤先生を構成する全てが愛おしくて、もどかしい。
先生を想ってまた涙が零れ落ちた時、心にずっと留めていた想いも自然に溢れ出した。
「————佐藤先生、好きです」
「……」
「私……本当は死にたくない。佐藤先生も、死んでほしくない。私と先生が、明るく楽しく、笑顔で過ごせる未来が訪れたら良いのに……。最近はそんなことばかり願ってしまいます」
先生は正面を向いたまま、何も言わなかった。
無言のまま病院の外来駐車場に入り、わかば園の玄関に近い場所に車を停める。
そしてシートベルトを外した先生は「森野」と一言呟いて、そのまま勢いよく私の体を抱きしめた。鼻を啜りながら今出せる精一杯の力で抱きしめてくれる先生の声は、酷く震えている。
「森野……っ。俺だってそうだよ。俺だって、どうすれば2人が長生きできる未来がやってくるのか。俺、家帰ってからも……ずっと、そんなことばかり考えているんだ」
大きく体を震わしながら嗚咽を漏らして涙を零す。涙でぐしゃぐしゃになっている先生は、私から少し離れて自身のポケットに手を入れた。その中から取り出した2つのお守り。押し花がデザインされた、見たことのないものだった。
「なぁ、森野……。俺もお前のことが好きだよ。同情なんかでは無い。俺は森野の強さと明るさに、いつの間にか惹かれていた」
「……」
「俺、神なんて信じていないんだけどさ。それでも神頼みをしてしまうくらいには、俺も森野も死なない未来を切に願っている」
先生から1つ受け取ったお守りには、細い花弁が特徴的な紫のお花が施されていた。裏には【長寿と幸福を】と書かれており、思わず頬が緩む。
このお花はノコンギクと言うらしい。菊と言うと私の机に置かれたあの時のことを思い出してしまうが、このノコンギクは故人に手向ける菊とは違うようだ。
「花言葉は、長寿と幸福。守護。そして……忘れられない想い」
「守護……」
「2人で長生きする未来を望むくらい、良いよな」
「先生……」
悲しみの中に生み出されし、1つの希望。
生きたいと願う余命宣告された私たちは、藁にも縋る思いでそのお守りを強く握った。
抱きしめられた先生の体から感じる体温は、この瞬間を先生が生きていることの紛れもない証明。
その温かさが妙に切なくて、また簡単に私の目を潤ませた。
「死にたくない」
「死にたくないな」
「病気が憎い」
「俺ら前世で、どんなことしたんだろうな」
「悪いことをしたバツですか」
「そうかもしれんな」
知らんけど。最近生徒の間で飛び交うその言葉を先生が口にして、つい笑いが零れた。
「けれど俺ら、何だかんだ死なないと思わない?」
「ふふ……。何だかんだ、ですね。そうだと良いのですが」
ギューッと、抱きしめる腕に力を込めて。
お互いの弱った腕が出せる最大限の力を込めて。苦しく感じる程に、相手の体温を全身で受け止めた。騒がしい2つの心臓に耳を傾け、どちらからともなく笑いを零して顔を近寄せる。
そうして私と先生は、お互い見つめ合って
溢れる涙でぐちゃぐちゃな顔に触れ合いながら
優しく、優しく
軽く触れ合うように、そっと唇を重ねた。