始業式が終わり、3学期がスタートした。
 冬休みを挟んだおかげか、以前のような目立つ嫌がらせは無い。

 いつも通り教室で1人過ごしていると、やたら戸野くんの視線が気になった。話し掛けてくるわけではないけれど、視線だけがこちらに飛んでくる。それがとても気持ち悪かった。



 3学期初日から、5限目は体育だ。
 久しぶりだからドッヂボールでもするぞー、と声を上げた佐藤先生。いつも通りを装っているようだったけれど、その表情はどこか暗く、調子も良さそうでは無かった。

 キャッキャと楽しそうな声を上げる同級生を遠目に眺める。やっぱり体力が落ちている私は正直立っているだけでも少し辛い。

 ドッヂボールには参加せず、私はこそっと体育館の外に出た。そして渡り廊下に座り、庭を眺める。
 あの大雨の中行われたクラスマッチの日。あの時もドッヂボールには参加せず、ここから紫陽花(あじさい)を眺めたことを思い出し、少しだけ頬が緩んだ。



「……森野」
「ん?」

 背後に立つ佐藤先生。「遊んでいるところを見ておかなくて良いの?」と聞くと、「あれは遊びじゃない、試合だ」と割と真顔で返答された。
 それが面白くて吹き出すように笑うと、先生は同じように私の隣に座り庭を眺め始めた。申し訳程度に植えられているカラフルなパンジーが、ほんのり雪を被って揺れている。

「今日は“お腹が痛いから見学しています”って言わないの?」
「言いませんよ。今日はお腹痛くないので」

 ふふっと笑い合い、パンジーをまた眺める。
 こうやって先生と2人でいるところを見られるから、いじめられるのだろう。そう思いながらも、やっぱりこの時間を失いたくないという気持ちの方が勝る。

「森野……。あの時も、こうやって並んで紫陽花を眺めたね」
「……はい」
「だけど——……その記憶も、もうすぐ消えてしまうのかな。ここで過ごしたこと、全部忘れてしまうのかな」
「……」
「……なんて、お前の方がずーっと前から、そういう気持ちで過ごしていたのにな。ごめん」

 冷たい風が吹き抜けていく中、同級生たちの楽しそうな声がよく響く。隣に座っている佐藤先生は、小さく溜息をついて一筋の涙を零していた。悲しそうな様子の先生に対して掛ける言葉が見つからなくて、また庭に向かって視線を向ける。すると先生は涙を拭いながら小声で言葉を継いだ。

「森野が高校で友達を作らないって話していた時の心情が、今の俺なら前より理解ができる。森野は本当に大人だよ。そして、本当に強い。薔薇(ばら)の件の時も思ったけれど、森野は本当に強い人だ」
「……」
「俺、いつ忘れるか分からないからさ。覚えているうちに伝えておこうと思って」

 それだけを告げて、先生は立ち上がり体育館の中へ戻って行った。ピーッと首に提げていた赤い笛を強く吹き、「オラッ、後ろも参加しろよ!!」と大きな声で笑っている先生。不意に飛んできたボールを上手にキャッチして、クラスの中でも目立つ方の男子に向かって投げつける。「お前も1人くらい、当ててみろ!」と(あお)るとその男子は小さく頷いて、敵の男子に向かってボールを投げた。

 こんなにも楽しそうなのに。こんなにも生き生きとしているのに。
 運命とは、時に残酷だ。


 佐藤先生も同じ病気にかかったと聞いてから、実は改めて“記憶能力欠乏症”について調べた。ネットで調べればいくらでも出てくるのに、その現実と向き合いたくなくて、私は私の病名について詳しく知ろうとしなかった。

 “記憶能力欠乏症”————……比較的新しい病気で、白血病や認知症と間違われることもある。診断がなかなか難しく、脳神経内科医でなければ判断することが難しい。先天性と後天性があり、先天性は生まれて直ぐの血液検査で異変が出る。厳密に言えば、やはり白血球の数値が高い。そこから色々な検査をして、様々な病名と比較して……最終的に“記憶能力欠乏症”だと診断される。こちらは進行が非常にゆっくりで、ある時急に白血球の数値が急増する。それが、余命宣告のサイン。それが10代のうちなのか、20代なのか、それとも50代なのか。人によっては様々で、余命宣告がされないまま人生を謳歌(おうか)して亡くなった患者も過去には居たそうだ。
 一方の後天性は、何の前触れもなく白血球の数値が急増するらしい。そこで大抵の人は異変に気付く。そして体力の衰え、記憶力の低下、そして……記憶の欠乏。少しでもその兆候があると、“記憶能力欠乏症”だと診断を下される。
 後天性はとにかく進行が早いのが特徴。診断名が下されると同時に余命宣告され、早い人は1か月。長い人で1年。あっという間に病気が進行して死にゆくらしい。
 しかも最近の研究によると、後天性として発症する人の多くが20代~30代の男性だとか。年々患者は増加傾向にあるものの、病気にかかる直接的な要因や予防方法などはまだ分かっていない。

「……」

 佐藤先生には、長生きして欲しい。
 ふとそう願ってしまうのも、やはり私が先生こと好きだからなのだと思う。


「ねー、せんせー!! 一緒に参加してよー!!」
「あぁ!? 俺はお前らがちゃんと参加しているか確認をする義務があるんだ! 呑気にその輪の中で遊んでられねぇーよ!」
「あ、先生遊びって言った!!」

 男女関係無く囲まれる先生の姿を見て、ジワッと涙が滲んできた。
 佐藤先生が、いつまでも“先生”でいられる世界線ってどこだろう。
 
 つい空想に更けてしまう意識の中で、またピーッという笛の音が聞こえて来た。「はーい、試合終了! もう怠いから、このまま解散!! お疲れ~!!」と言って、適当に授業を閉めていた。



 生徒たちがゾロゾロと体育館を後にする中で、私も立ち上がり体育館を後にしようとした。するとその様子に気が付いた先生は「森野!」と一言大きな声で名前を呼んで、「ステイ!」と言葉を継いだ。
 ステイって……犬じゃないし! なんて思いながらその場に立ち止まると、少しだけ口角を上げて小走りで駆け寄ってきた先生。手に持っていたドッヂボールを私に向かって、ふわっと弧を描くように投げてきた。
 ゆっくりとこちらに向かってくるボールを両手でキャッチして、先生の方を眺める。「上手に取れたね」と拍手しながら、今度はボールを受ける体勢になる。そして「森野、投げてごらん」と言って優しく微笑んでくれた。

「先生、私そこまで届かないです」
「大丈夫。どんなボールでも、俺が全部受け止めるから」

 その言葉に深く頷き、左手でボールを掴んで先生に向かって投げ飛ばす。
 ソフトボールよりは大きいけれど、それなりに飛ぶと思っていた。なのに、全然飛ばずに私の直ぐ目の前で墜落(ついらく)するボール。知らず知らずのうちに腕の力も落ちていたのだろう。小さくテンッテンッと跳ねるボールに、思わず笑いが零れた。

「ははっ、えー?」
「……森野」
「先生、もう1回やります」

 跳ねていたボールを再度拾って、また左手で掴んだ。そして大きく振りかぶって投げ飛ばす。だけどやっぱり、ボールは直ぐ目の前で墜落した。
 小さく跳ねるボールを見つめ、零れる涙。体力が衰えていることは分かっていたけれど、正直ここまでだとは思っていなかった。
 ()()なく溢れ始めた涙を止められず、それらは床をどんどん濡らしていく。漏れ出る嗚咽も抑えきれないまま、転がっているボールを両手で取ろうとするも、手が震えて上手く掴めない。

「ははは……」
「森野」
「私の体力、どこ行った?」
「森野っ!」

 小さくうずくまる私の体を、先生は優しく抱きしめてくれた。先生の体も震えていて止まる気配がない。

「……私、死ぬんだ」
「死なない」
「でもこの前、先生が言いましたよ。一緒に死のうって」
「……うん。でも、森野は死なない。医者じゃないから理想論を語らせろって、言っただろ」
「そうですけど、この前言ったことと矛盾しています。私、先生と一緒に死ぬと決めました」


俺と一緒に、死ぬの?
 ——そうだと言っているのです。

俺と一緒で良いの?
 ——寧ろ、佐藤先生と一緒が良いです。

……本当は俺も、森野と一緒が良い。
 ——先生と、私。2人一緒なら、どんな“未来(ミライ)”も怖くないと思うのです。


 6限目開始のチャイムが鳴り響く中、静かな体育館に取り残されたままの私たち。頬でお互いの体温を感じるくらい顔を近づけて、抱きしめあったまま涙を零し続けた。これから嫌でも実感してしまう死期に、お互い耐えられるのだろうか。あまりに愚直(ぐちょく)すぎる疑問に嫌気が差しつつ。もう長くないと分かれば、これから私たちがどのように過ごしていけば良いのかが、(おの)ずと分かってくるような気がした。


「佐藤先生。私ね、先生のことが……」
「森野っ」
「え?」
「しーっ」


 そっと唇に人差し指を立て、微笑んだ先生。
 そして「また、聞かせて」とだけ呟いて、優しく頭を撫でてくれた。