2学期が終わり、冬休みに入った。
結局マラソン大会以降、戸野くんが話しかけてくることは無かったのだ。
……どこにいても、誰かの目に留まる。
いじめられている私と2人で話していると、戸野くん自身が何を言われるか分からないからだろう。だから、私に話しかけてこない。きっとそういうことなのだと思う。
そしてその後、私はナベの診察室にも乗り込んだ。入って早々に戸野くんの話をすると、ナベは申し訳なさそうに俯き「ごめん、未来ちゃん。僕が早まった」などと、意味不明な供述をしたのだ。
私のことを勝手に白状するのに、遅いも早いもあるかい。そう言って診察室を飛び出すも、ナベが追い掛けてくることは無かった。
戸野くんの件以降、複雑な感情が私の中で渦巻いている。佐藤先生以外の人に知られたこと。その事実が妙に消化出来ずにいた。
「……未来ちゃん? 夏芽です。入るよ」
「夏芽さん、どうぞー」
川内わかば園の自室。予定も無く部屋で漫画を読んでいると、突然ノック音が鳴り響いた。いつもは来ない時間なのに、夏芽さんが姿を現したのだ。
手ぶらの夏芽さんは開けた扉を閉めずに私を見る。そして「今、大丈夫そうやね」と呟き「お客さんよ」と言葉を継いだ。
私なんかに客なんて……。ナベは勝手に部屋まで来るから、ナベでは無い。となると、誰だろう。この短い時間で頭をフル回転させていると、夏芽さんの後ろに男性の姿が現れた。
見覚えのある人。服装こそいつもと違うけれど、見間違えない。その人。
「……え、佐藤先生?」
「こんにちは、森野。突然ごめんな」
ごゆっくりー。と告げて出て行く夏芽さん。部屋に入ってきた佐藤先生は、扉付近で立ち止まり、少しだけ俯いていた。
ここに先生が現れたことにも驚いたが、それよりもあまりに暗くて悲しそうで、いつもとは全然違う雰囲気を纏っており、そちらの方が心配になった。
「せ、先生。どうしたのですか。てか、住んでる施設教えましたっけ?」
「森野がカミングアウトしてくれた時に、教えてくれたじゃない」
「そうでしたっけ?」
椅子に座るよう促して、読んでいた漫画は閉じて本棚に戻した。
以前も思ったけれど、やっぱり先生はどこか疲れている気がする。暗くて悲しそうで、疲れていそうで……。もう、心配する言葉しか思いつかない。
「先生、どうしたのですか。大丈夫ですか……」
「……森野」
「はいっ……」
「急で悪いが、出掛けられる?」
「え、今からですか?」
「うん」
少し、外で話したいんだ。そう言った先生に連れられて、私は部屋を後にした。
外来駐車場に停めてあった先生の車。そういえば、以前も似たようなことがあったような……と思ったが、その時の相手はナベだったことを思い出させる。
今回は、佐藤先生。学校以外で会うことすら初めてなのに、その上2人で出掛けるなんて……正直、思考が追い付かない。
先生に促されて車に乗り込む。大人な雰囲気の車内にドキドキしていると、先生もゆっくりと運転席に乗り込んだ。見上げるように先生の顔を見つめてみると、やっぱり悲しそうな表情をしていた。
「先生……」
「……森野、お花は好き?」
「えっ?」
「森野とは、最初に桜を見た。その後、クラスマッチの時に紫陽花を見たな。そして、夏休みには向日葵も見た」
「……先生?」
「……」
目に涙を浮かべていた先生は、それ以上何も言わなかった。
静かに車を発進させ、病院の駐車場を後にする。……明らかに様子がおかしい。あのマラソン大会の時から微かに抱いていた違和感。それにはやはり、何らかの理由がある気がする。
車をしばらく走らせた先生は、ポインセチアが見られるという花卉栽培施設にやってきた。クリスマスが近いこの季節、今見るならポインセチア一択だと、先生は小さく呟いたのだ。
車を降りて施設に向かう。その背中を一生懸命に追い掛けていると、優しい笑顔で振り返った先生にそっと手を差し伸べられた。
「森野、大丈夫?」
「……大丈夫です」
だけど、ありがとうございます。そう呟いて、その手を握り返す。初めて触れる他人の肌に、ふと涙が込み上げて来た。
施設に入って早々ベンチに座り、遠くに咲いている花を眺める。静かに流れる空気の中で、先生は小さく溜息をついた。
結局、先生はどうしたのだろうか。それを不思議に思い言葉を発しようとすると、先生が先に口を開いた。
「ねぇ、森野。この前さ、死ぬ時は一緒に死のうって言ったじゃん」
「……」
「……俺さ。9月に受けた健康診断でさ。白血球数が高くて引っかかったんだ」
「……」
「それで、ずっと川内総合病院にかかっていた」
その話の流れに、なんとなく嫌な気配を感じた。
寒さが原因ではない震え。それを抑えられずに正面を向いたまま、呆然と遠くを眺める。
先生も、正面を向いていた。
そちらの方を見ることもできず、ただただ静かに先生の言葉に耳を傾ける。
胸が痛くて、苦しくて。どうしようもなかった。
「ずっと、検査をしていたんだけど。今日やっと、正式に病名が下されたよ」
「もしかしてそれって、き、記憶能力……」
「…………そう、森野。お前と同じ、“記憶能力欠乏症”だってよ。後天性のな」
「……」
病名を言った佐藤先生の表情は、何だか憑き物が取れたかのようにスッキリとしていた。多分、誰かに病気のことを話したくて仕方が無かったのだろう。それを今私に言ったことで、先生の中で引っかかっていたものがスッと取れた。何だか、そんな気がした。
静かな花卉栽培施設。寒い時期にわざわざお花を見に来る人もいないようで、人の数は本当に少ない。
私と先生だけの時間。同じ病名を共有したばかりの私たちの間には、何とも言えない空気が漂っていた。
「後天性は、進行が早い」
「……つまり」
「俺はあと、1年も無い」
「……」
抑えきれない感情が涙となって零れ落ちる。神様は意地悪だ。佐藤先生にまで、“記憶能力欠乏症”にする必要なんてないのに。
散々憎いと思っていたこの病気が、今日は更に憎く感じる。悔しくて、辛くて。どうしてそれが佐藤先生なのか。もう何一つ理解できなくて、只々悲しかった。
「森野……泣くなよ。同じ病気だろ」
「……同じとか、そうじゃないとか。そんなの一切関係無いです。私の大嫌いな病気に、佐藤先生までかかっているなんて。耐えられません」
ふいに、ナベの友達『戸野さん』が過ぎった。
あの人も後天性の“記憶能力欠乏症”で、あっという間に亡くなったと聞いている。
その事実を思い出し、また涙が込み上げた。
余計に悔しいし……何だかとてもやるせない。
先生は瞳を潤ませたまま考え事をしていた。その間に一筋流れ落ちた涙を手の甲で拭い、「よしっ」と声を上げる。
「……森野。ポインセチア、見に行こう」
「……」
「それがここに来た目的だろ」
ベンチから立ち上がった先生は私の手を取り、そっと立たせてくれた。そして優しく手を握って、ポインセチアが飾られているという場所へ向かう。
そこまでの道中、先生は何も言わなかった。
ただ真っ直ぐ前を見て、目的地に向かう先生。
しばらく歩くと、少し先に一面真っ赤に染まった温室が見えてきた。
温室の中には入れないけれど、外からならその赤を鑑賞することができる。
先生と2人、手を繋いで眺める真っ赤なポインセチア。
繋いだ手から伝わる先生の震えが余計にリアルで、妙に泣きたい気持ちになってしまう。
「……森野未来」
「……えっ?」
「未来を願い付けられたその名前。それに対して、虚しく思うことは無い?」
「虚しく……」
それは、虚しいよ。
何が未来だ。余命宣告された日から、何度も何度もそう思ってきた。
だけど、先生に対して返答ができなくて黙り込んでしまった。
虚しいけど、それが自分の名前であり、運命である。
何も悪くない、誰も悪くない。
無言のまま温室を後にして、ゆっくりとまた歩き始めた。
静かな風に乗って届く花の香りを嗅ぎながら、どう回答するのが正解かを考え悩む。
「……」
黙り続けていると先生はその場に立ち止まり、手を解いてカードケースを取り出す。そしてその中から免許証を取り出し、私に差し出したのだ。
どうして免許証なんか……。そう思いながら受け取ると、そこに書かれていたことに大きな衝撃を受けた。
「……え?」
「……それが、俺のフルネーム」
免許証の氏名欄には“佐藤未来”と書かれていた。私と同じ名前……“未来”。その事実に驚きが隠せない。
「俺は、“みき”って言う。女性の名前みたいで昔から苦労してね。本当にこの名前が嫌いで、今の高校でも下の名前は隠しているんだよ」
「確かに……一度も聞いたことが無かったです」
佐藤先生は少し悲しそうに俯いていた。
“未来を願い付けられたその名前。それに対して、虚しく思うことがあるか。”
先程は答えられ無かったのに、先生の話を聞いた今なら、何だか答えられるような気がした。
「私は……。未来って名前が大嫌いです。虚しいですよ」
「……だよな。俺もだ。名前のせいで虐められてきたし、余命宣告されて、余計に嫌いになった。何が未来だ……。そう思い、許せなかった」
だけど……。
そう言って先生は言葉を継いだ。
森野に出会って。
同じ“未来”に出会って。
2人して余命宣告されていて。
“未来”なのに、“未来”が無い。
「俺は森野と出会って初めて、この名前も悪くないって思ったよ」
「……」
先生に免許証を返し、良く鍛えられた力強い腕に抱きついた。
湧き上がる様々な感情に正解が見いだせず、俯き静かに涙を零す。
「多分、俺の方が先に死ぬんだろうな」
静かにそう呟いた先生の言葉に、更に涙が溢れ出た。
一方、泣いている私を他所に、先生は優しく微笑んでいる。
「……駄目です、先生。私が死ぬ時は傍に居てと、私が先に頼んでいます。私より先に先生が死ぬなんて、許しませんから」
「……だからぁ。一緒に死のうかって言っているじゃん」
「死ぬタイミングなんて合わせられませんよ」
「俺、森野となら合わせられる気がする」
「……え、流石に意味不明すぎますよ」
2人して笑い、涙を零す帰り道。
泣き笑いの私たちは、もう自身の感情すら制御できなくなっていた。
憎き“記憶能力欠乏症”。私だけならまだしも、佐藤先生まで蝕み、牙を剥く。
いつも通りを装うとする佐藤先生だったが、不意にやって来るやり場のない感情に押し潰されそうで。辛そうで、苦しそうで、それがあまりにも普段の様子からかけ離れていて、正直見ているこちら側もかなり辛かった……。