雪がちらつく12月。
 ついに、私の大嫌いなイベントがやってきた。

 この高校の良いところは体育祭が無いこと。それなのに、マラソン大会は律儀に開催されるのだ。
 学校の敷地内を2km走り、タイムを計測する悪夢のようなこれからの時間が本当に最悪。


 グラウンドの隅っこでクラスごとに固まり、自分たちの番が来るのを今かと待つ最中。例の黒い薔薇事件を起こした当事者たちは、遠くから私に向かって小さい石を投げつけていた。
 子供かよ……。そう思うも、このパターンは無視をするのが1番。あの人たちの様子に気が付いていないフリをして、フェンスに沿って植えられている山茶花(さざんか)を眺めた。


 結局あの後、佐藤先生は担任にそれとなく話したらしい。だけど興味も関心も無い担任は、それをクラスで話すこともせずにスルー。それに怒った先生は、ある日のロングホームルームの時に1年A組の教室に乗り込んできて、事実を全て話した上で生徒たちを指導した。

 私はと言うと、なんせメンタルだけは最強なわけで。
 何されても本当に心に響かないから、教室に通うのは別に苦ではなかった。

 何をされても。
 黒い薔薇の後、結局カラフルな(きく)が置かれていたけれど。

 大丈夫。別に私は、何も無い。



「————森野、無理するなよ」
「……えっ?」
「マラソン、無理して出る必要は無い」

 ふいに降ってきた言葉。
 少しだけ離れた位置でボードに何かを記入しながら、そう呟いていた人物。

 その人は一切私の方を向かずに、声だけを飛ばしていた。

「運動、辛いだろ」
「……でも、サボると成績に響く」
「……バーカ。夏休みに補習受けたやつが、今更何の心配してんだよ」
「……」

 ボードを見つめたままの人物……佐藤先生は、相変わらず私の方を見ない。ボードと向き合い、今もまだ書き続ける。

「また、補習受ければ?」
「……冬はどこの掃除ですか」
「うーん、体育教官室とか?」

 私の返答を聞かずに歩き始めた先生は、「オラッ、3年男子集合っ!!」と大きな声を張り上げながら、グラウンドの中心に向かって行った。

 その様子を眺めているあの当事者たち。
 私と先生が話していたことには気が付いていないようだが、恋愛経験が無い私でも分かる。あの目は、恋している人の目。

 何歳なのか。それすらも分からないけれど。
 正直カッコイイ方に分類されるその見た目は、女子生徒を(とりこ)にしても仕方が無い気はする。

「…………」

 強く風が吹くと、舞う雪は横向きに飛ばされていく。「オラァ、遊ぶなよ!」と声を張り上げている先生の黒い髪は、雪が積もって徐々に白く染まり始めていた。


 しかし……。先生が出る必要は無いって言ってくれるのならば、言葉に甘えてみようかな。クラスマッチの時に、自己判断で見学をしていた事実は棚に上げて。
 私はその場から立ち上がり、担任の方に向かった。そして体調が悪いから見学すると、いつものように報告し、いつものように「了解」とだけ返ってくる言葉。それを確認してから、ゆっくりとグラウンドを後にした。



 1人校舎内に戻り、制服に着替えてから教室に戻る。誰もいない静かな校舎は、私だけの空間だと錯覚させた。

 教室からはグラウンドが見えない。肘を突いて窓の外を眺めるも、見えるのは体育館と教官室だけなのだ。


 ————あと、何回。ここから景色を眺められるのだろうか。


 最近、物思いに()けることも多くなってきた。
 記憶が無くなっていく感覚はまだ無い。だけど、妙に体は弱っているような気がしていた。


 本当に死ぬのかな。

 死にたくないな。

 高校だけは、卒業したいな。

 そう願えば願うほど、自身の病気をより一層自覚してしまう。


 先程外で見た山茶花。学校の敷地を囲う長いフェンスに沿って、ずらーっと植えられている。グラウンドからではそこまで分からなかったけれど、かなりの量が植えられているようだ。可愛い色合いに、可憐な花弁。山茶花の花言葉はなんだったか—―それがふいに気になり、スマートフォンで検索を掛けたりして。

 誰もいない教室は、居心地がいい。


「オラーッ!! 1年女子!! お前らもっと早く歩けよ!!」

 窓が閉まっているというのに、鮮明に聞こえてくる佐藤先生の大きな声。 

 最近、不思議に思うことがある。
 私の中で佐藤先生の声が、良く響くこと。

 他の先生や生徒の声は雑音くらいにしか思わないのに、妙に佐藤先生だけ、響く。

「よく分かんないな……」

 よく、分かんない。
 何もかも。

 思えば親に()(はな)されて施設に入れられた頃くらいから、何にも……何もかも。よく分かんない。

 自分のことが分からない人間が、分からないままここまで生きて来ただけ……。



「——森野」
「……え?」

 突然呼ばれた名前。咄嗟(とっさ)に、佐藤先生だと思った。
 振り返りその声の方向を向く。しかしそこに立っていたのは……。

「だ、誰……」

 同じクラスの同級生だということは分かる。だけど周りに興味が無い私は、その人の名前が本当に分からない……。身長が高くて眼鏡を掛けた人。ジャージ姿のままこちらを見つめているその人は、教室の扉の所で突っ立ったままだった。

「僕、戸野(との)綾都(あやと)。……ごめん、突然。君が1人で校舎に戻って行くところを見ていたからさ。チャンスだと思って、ここまで来た。陸也(りくや)くんから君のことは聞いている」
「陸也くん……?」

 次々と知らない名前が出てきてパンクしそう。戸野くん自身も知らないけれど、陸也くんなんてもっと知らない。誰か分からずに首を傾げていると、「この前、お墓参りに行ったでしょ。陸也くんと」と言ったのだ。

「……え、ナベのこと?」
「うん。渡邊(わたなべ)陸也(りくや)。君の言うナベだよ。そしてお墓、戸野(との)和都(かずと)。僕の……兄だよ」
「えっ」

 戸野くんは教室に入り、私の隣の席に座った。そして眼鏡を外して、髪を掻き上げる……。同級生だと思えないくらい妙に大人びている戸野くんは、横目で私の方を見て、また言葉を継いだ。

「先日、陸也くんと会った。その時に初めて、森野のことを聞いた」
「……な、何でナベが私のこと話すの」
「陸也くんは、君に友達がいないことを心配していた。……僕も4月からずっと、変わった人だなって思っていたんだけど。陸也くんから話を聞いて、納得した」
「……」

 今日わかば園に戻る前に、ナベの診察室に寄ろう。
 私の許可も得ずに勝手に話したこと、絶対に問い詰めてやる。そう意気込み、隠れて小さくガッツポーズをした。私自身が人に話したくないと言っているのに、ナベが他の人に話すとは何事だ。

 怒りに満ちている私とは反対に、どこか悲しそうな戸野くん。外していた眼鏡を掛けて俯き、そっと息を吐き出す。

「兄と同じ病気だと聞いてから、ずっと話したかった」
「……でも、独りぼっちでいじめられている私には、タイミングをよく見なきゃ話しかけられなかったと」
「違う、そうじゃなくて……」
「いいの、別に」
「違うっ!!」

 突然の大きな声に、驚き固まる。戸野くん自身もハッとなって、気まずそうに更に深く俯いた。
 窓の外から聞こえてくる、佐藤先生の大きな声。非日常な今この状況だが、いつもの声を耳にするだけで安心感を覚えるから不思議だ。

「……佐藤先生の声、聞いてんの」
「な……何なの、本当に。別に関係無くない!?」
「何で君がいじめられるのか気になっていたけど、確かに佐藤先生と距離が近すぎる」
「……本当に——……」

 何も知らない戸野くんに、どうしてそこまで言われなければならないのか。それが分からなくて、じわじわと怒りが込み上げてくる。座っていた椅子から勢いよく立ち上がって机を強く叩いた。

「本当に戸野くんには関係無いって。もう良いから、ナベに何を言われたのか知らないけれど。私に構わないで!」
「あ……、森野っ!」

 戸野くんに冷たい言葉を投げ掛けた私は、そのまま教室を飛び出した。
 背中越しに大きな声で私を呼ぶ声が聞こえて来るも、それには反応せずに。

 廊下の窓からグラウンドの方を眺めると、まだマラソン大会は継続されていた。
 今は1年生の女子が走っているらしく、佐藤先生の「諦めんな! 走れ!!」という、ひたすら生徒を(あお)る声だけが良く響いている。

 ————私、戸野くんに佐藤先生のことを指摘されて、何であんなに怒りが湧いたのだろうか。

 佐藤先生の姿を見て、色々と思うことがあった。
 最初こそ、やたら絡んでくる教師。くらいにしか思っていなかった。それなのに、今は先生の存在に助けられていることがある。
 私が自分自身のことを、初めて打ち明けた人だからだろうか。
 先生が……ただただ優しいからだろうか。

「……分かんない」


 行く宛のない私は、特別教室棟の裏に向かった。2回ほど、佐藤先生と過ごしたあの場所。
 2回目の時にはまだ少しだけ残っていた秋桜は完全に姿を消し、代わりにフェンスに沿って植えられている山茶花の赤が、薄く白化粧をして咲き誇っていた。

 段差に座り込んでいると、徐々に積もり始める雪。私の紺色のブレザーも、少しずつ白くなっていく。遠くから聞こえて来る応援の歓声と、先程よりも一層大きく聞こえる先生の声に静かに耳を澄ませた。
 今もまだ聞こえる、生徒を(あお)る声。あの大きな声に対して妙な感情を抱いていると、今度は違う声が耳に入ってきた。


「——森野」

 戸野くんだった……。
 どうしてここが分かったのかは分からないが、やたらとしつこい彼に対して嫌悪感を抱く。今日初めて話した人に、どうしてここまで追われなければならないのか。それだけが全く理解できなかった。

「…………しつこいって、言われない?」
「言われない。言われる人がいない」
「戸野くん……。普通、ここまで追い掛けてくる?」
「普通は追い掛けないと思う。だけど、逃げたのが君だったから。森野だから、追い掛けた」
「意味分かんないって」

 ゆっくりと歩みを進めて近付いて来る戸野くんは、先程よりも悲しそうな表情をしていた。……もし、もしも彼が、自分のお兄さんと私を重ねているのならば——……。

「……戸野くん。どういう経緯でナベが私のことを話したのか知らないけれど。私は私であって、君のお兄さんではない。偶然同じ病気を持った人がクラスに居て気になるのも分かる。だけど、正直迷惑なの。私は、死ぬ時にはポックリ死ぬ。誰にも心配かけず、誰にも気にされず……。だから私は誰とも関わりたくないっ!」

 ちらちらと舞っていただけの雪が徐々に力を強め始める。それでなくても白くなっていた制服には、更に雪が積もり始め、頭をも白くしていく。
 戸野くんも例外では無かった。ジャージ姿のままの戸野くん自身にも、雪が積もり白くなっている。

「……そう言うくせに。佐藤は別なんだ」
「べ、別とかじゃない! 佐藤先生は……っ」
「俺がどうした?」
「!」
「何しているんだい、戸野」

 少し呼吸を乱し、肩で呼吸をしている佐藤先生。 
 ふぅ……と大きく息を吐き、戸野くんを睨みつけるように声を上げる。

「誰がサボって良いって言った?」
「……マラソンなんかよりも、大事なことがあったんです」
「——いや、無い。今のお前にとって、マラソンよりも大切なことは無い」

 はよ戻れ、と戸野くんをグラウンドの方に押していく先生。戸野くんも先生も不機嫌そうで、特別教室棟の裏には妙な空気が漂っていた。

 戸野くんが強制的にグラウンドに連行され、訪れる静寂。やることも無く呆然と山茶花を眺めていると、また佐藤先生がこちらに向かって歩いていた。少しだけ不機嫌そうに眉間に皺を寄せている先生は、私と目が合うと優しく微笑む。

「……森野、大丈夫か」
「先生こそ……またここに戻ってきて大丈夫なのですか」
「今は少しだけ大丈夫」

 静かに私の隣に座って小さく溜息をつく先生は、どこか疲れているような表情。そっと目を閉じて、遠くに聞こえるグラウンドの喧騒に耳を傾けていた。

「戸野、何だったの」
「……あ……。いや、別に」
「別にってこたぁ無いだろ」

 先生の黒い髪にも、雪が積もっていた。目を閉じたままの先生は、どこか儚くて……今にも消えてしまいそうで。
 私は無言のままで黙り込んでいると、急に先生は腕を私の肩に回してきた。そして「戸野とは、友達になったの」と一言呟いたのだ。

 友達だなんて……、願い下げだ。
 今日初めて話した人であり、戸野くんの人物像も分からないのに……。

「……大体、先生はどうしてここに私が居るって分かったのですか」
「あぁ……。いや、1回教室に行った。だけど居なかったからさ。次に森野が向かうとすれば、ここかなって。俺の推測。だけど、ビンゴだった」
「……」
「戸野はオマケだ」

 何なら、居なかったことすら気が付かなかった。そう言って小さく笑いを零した。

「何で、私を探していたのですか」
「何でって……。俺、森野のことが心配だから。大丈夫かなって思って」
「……」

 先生はそれ以上、何も言わなかった。

 静かな空気が流れる特別教室棟の裏側。
 すると、遠くから別の体育の先生の叫び声が聞こえて来た。

「成績発表をする! 今から集計するから(しばら)く待機!」

 その声が聞こえると、隣で黙り込んだままだった佐藤先生が目を開けて動き出す。てっきりグラウンドに戻るものだと思っていたのだが、予想は裏切られた。


 先生が目を開けると同時に零れ落ちた一筋の涙。それを軽く拭った先生は、何も言わないままそっと私の体を抱きしめた……。


「え、せ……先生……?」
「ねぇ、森野。死ぬ時は、一緒に死のうか」
「……えっ?」

 突然発せられた衝撃的な言葉に、思わず絶句した。

 しかも先生は、これ以上何も言わなかった。
 私も、あまりにも驚き過ぎて言葉が出てこない。黙り込んでいる先生に対して、言葉の意味を追及することはできなかった……。