「胃袋がでかくなる方法ってないのか?」
二人しかいないダイニングルームで運び込まれた和洋中の食事の量は、軽く十人前は超えていたが、淳は一人前すら食べられず申し訳なさすぎて下を向いていた。
見たことも無い魚や肉、彩り豊かな野菜すらも本物?と思ってしまうほどの芸術性に手を付けられず、結局は平たいお皿に乗っている白米半分と、白身魚のキノコのあんかけのキノコのみ。
元々の食が細いこと、というより家にあまり食材が無かった為に、一日に食べる食事量が必要な摂取カロリーの半分にも達していなかったせいか、年中貧血に栄養不足。そして小さくなった胃袋で低体重。極めつけは蝕まれた病魔のせいで、淳の食欲は益々低下していった。
「こんなに用意して下さり、残すのは申し訳ないのでサランラップをかけて頂ければ……。夜と明日までには食べきってみせます」
大きなダイニングテーブルの対面に座る泉澄に、ほとんど口をつけることを出来ない料理を前にして謝罪する。
「いや、残したら俺が食えば良いだけの話しだが、先ずは飯を沢山食って体力をつける所から始めよう」
きっと五龍神田様は知っているだろう。私があまり食べられない原因を。せっかくこんなに美味しそうな料理を用意してくれた方にも申し訳ない。
「五龍神田様……申し訳ありません」
「いい加減俺のことは泉澄と呼んでくれるか?お前も五龍神田の姓を名乗るのだ。ややこしい」
夫や妻のことを苗字で呼ぶ夫婦は世の中にはいるだろうが、淳に自分の事を名前で呼ばれたいが為にわざとに少し、冷たい態度をとる泉澄。
「……でも」
「異議は認めない」
淳が戸惑う理由は泉澄も理解はしていた。自分なんかが、自分は本当に妻になるのか、きっとそんな理由が頭をよぎっているのだろう。しかし泉澄にとって、淳のそんな迷いは馬鹿馬鹿しいとあしらうつもりだ。
ただ今は、淳の体調をしっかりと管理をし、淳のやりたい事をさせたくてたまらなかった。
人生とは辛くて苦しいものばかりでは無い、そう伝えてあげたい。未だに今の状況を戸惑う淳の姿を見ると、泉澄の決意は益々固くなっていく。
「今日は何をしたい?」
泉澄が淳に声をかける。俯いていた顔を上げると、テーブルのお皿がいつの間にか空になっており、泉澄がナプキンで口を拭いていた。
「あれ?ここにあった……料理は?」
「俺の腹の中だが?俺は大食いだから。今の量は通常だ」
あまりの早さと、あれだけの量をペロリと食べた後でも変わらないその姿に唖然とし、そして何だか笑いが込み上げてくる。
「は、早すぎですよ。喉に詰まりますよ」
「俺に限って有るわけ無い、と言いたいところだが何度も喉に詰まって泰生に助けて貰ってるよ」
「ふふ、駄目ですよ」
白鬼の頂点がご飯を喉に詰まらせ、付き人の泰生に詰まった食べ物の処置を想像すると、とんでもない状況だ。その場面を想像してクスクスと両手で口を隠して笑う淳。
「あぁ、やっぱり。お前の笑顔はこの世のものとは思えない程美しい」
「……え」
その言葉に淳は思わず止まってしまう。
そんなわけ……ある筈が無いと言いたいのに、愛しそうに自分を見るその表情につい口を慎む。
照れくさくて恥ずかしい。
なのにとても居心地が良くなる感覚。
「い、泉澄様……ありがとうございます」
「……っっ!!」
勇気を振り絞り、初めて下の名前で呼んでみた結果、泉澄は嬉しさのあまり椅子から転げ落ちそうになる程の胸の高揚に、思わず息が荒くなる。
「凄いな、本物は。何をしても何を言われてもこんなに感情が爆発しそうになるのか」
「爆発する前に珈琲は如何ですか、坊っちゃん」
トモヨが珈琲の良い匂いが薫るワゴンを押して現れ、邪魔者めとふて腐れた泉澄の前にいつものブラック珈琲を置き、淳にも声をかける。
「淳様、お砂糖とミルクはどういたしますか?」
「あ、あ、あの」
言っていいものなのか。自分は数回缶コーヒーしか飲んだことが無いこと。砂糖やミルクがどれくらい必要なのか分からない。
食後の珈琲すら分からなく、こんなにうろたえてしまう自分が本当に惨めで嫌だ。今は泉澄様が結界を張ってくれているお陰だ。もし無かったら、私は熱々の珈琲を頭からかけられてもおかしくない。
「淳、甘いのは好きか?」
「は、はい」
「トモヨ、ミルク多めで砂糖は二個だ」
「かしこまりました」
泉澄が代わりにトモヨに指示を出す。その指示通りに作った珈琲を差し出され、恐る恐る口に運ぶとミルク感が強いが少し酸味のある、まろやかな甘い珈琲に美味しくて嬉しいと、身体全体で喜んでいる気がした。
「さて、話を戻すが今日は何をしたい?」
珈琲の美味しさでとろけてしまいそうな所で、泉澄にまたしても同じ事を聞かれる。
何を……したい
何を……
「学校に……行きたいです」
それはずっとずっと、願っていたこと。勉強で知識を身に付くのが好き。歴史を知ることが好き。例え評価はされなくとも、教科書には自分が知らない世界が沢山載っている。
高卒の資格の為にとは思って通い、同級生には毎日嫌がらせをされていたが、やはり自分が選んだ道を途中で投げ出したくなかった。
「分かった、俺と行こう。トモヨ、泰生に連絡を」
「坊っちゃんの着ていた制服何処にありましたかな?」
淳の小さくとも大きな願いを、泉澄とトモヨは笑うことなく着々と準備に勤しむ。
「え?良い……んですか?」
「妻が願うことを協力しない夫が何処にいる」
当然だと言わんばかりの態度でテーブルから立ち上がり、座る淳の所で手を差しのべる。
何度も差し出されるこの手を未だに恐れ多いのは仕方のないこと。昨日今日で気持ちが変化するのは困難だ。しかし大きなその手に自分の手を乗せると、本当に彼の大事な人と思わせられる温もりと、彼の優しい穏やかな表情に、希望も無かった人生に暖かな一筋の光を与えてくれるそんな気がした。
「淳の学校も知っている。夕方からだろ?俺と泰生と一緒に行こう」
自分が通っている学校を知られている事にもはや何の抵抗も無かった。それどころか、残された余命の中で自分の心残りは母親と学校だった。母親の事がほぼ解決した今、残り一つの心残りが叶うことに心が踊った。
「坊っちゃん、残念ながら制服有りませんでした」
「いや、淳の学校は私服だ。淳が私服に対して、俺だけ制服は可笑しいだろ」
「早く言って下さい!使用人全員、血眼になって探してたんですよ!」
手を繋ぎながら泉澄とトモヨのやり取りに微笑ましく見つめ、そして思う。
あぁこのまま、命が尽きてももう悔いは無いかもしれない。
自分の為に動いてくれる泉澄に、それらをサポートするトモヨ。その光景だけで心が満たされる。
「制服……泉澄様の制服見たかったですね」
「……っ!!か、可愛すぎる。トモヨ!大至急俺の制服の仕立てを行え!!」
「無茶言いなさんな!!」
先代からの使用人と言っていたトモヨだからこそ、こんな発言も許容範囲なのだろう。
「私、先ほど解雇された身ですので無理難題な要求は致しかねます」
「婆さんのふて腐れた態度は、胸焼けしそうだな」
「ふふ」
勘違いするな、今だけ。
穏やかな気持ちの中に心に刻む。いつ何処で、切り離されても傷つくのを最小限にする為に。