「はぁぁぁ〜〜っ、無理無理無理!! 謝っても全然許してくれないし、何度も話しかけても無視。きょうだいになったからにはコミュニケーションを図っていかなきゃいけないのに、向こうが無視し続けてたらこっちが努力しても意味ないし」
――萌歌と一緒に暮らし始めた日の翌日のランチタイム。
中庭で目の下にクマを作ったまま心葉に同居の件をグチっていた。
萌歌に近づく努力をしているものの未だに成果が見られない。
「毎日食卓を囲んでいるうちにいずれ仲良くなるんじゃない? 家族なら嫌でも顔を合わせなきゃいけないし」
「あっちが喋ってくれないのに?」
「家族だったらなにかしらコミュニケーションが生まれるでしょ。まぁ、長い目で見ていきなって」
「……も〜っ! 心葉ったらひとごとだと思って」
頬をぷぅと膨らませてお弁当箱の中の卵焼きをつまんでひょいと口に入れる。
すると、目新しい味が激震をあたえた瞬間、箸を持つ手が止まった。
「お、美味しい……。一般家庭の卵焼きってこんな味がするんだぁ」
「今日から新しいお母さんの手作り弁当?」
「うん。これって萌歌がいつも食べているお弁当だよね。これからは毎日こんなに美味しい料理が食べれるなんて感動〜っっ!!」
自分が作ったお弁当じゃないだけでも嬉しいのにね。あぁ……、人が作ったお弁当って最高!!
じ〜んとしながら咀嚼していると、心葉は水筒の飲み物をゴクリと飲んでから言った。
「あんたも大変だね。家族がいきなり二人も増えてさ。ストレス半端ないでしょ」
「きょうだいがあの萌歌じゃね。だいたいあの子は性格がキツイんだよ。少しはオブラートに包んでくれればいいのに、思ったことをズバズバ言うからひとことひとことにトゲがあるんだよ」
「あんたも人のこと言えないじゃん。言いたいことはブレーキかけないし」
「そんなことないっ! 私は誰かさんと違ってちゃんと謝れるし〜。あそこまで頑固を貫いてくると参っちゃうよね」
「あっ…………。ねっ、ねっ……皐月……」
心葉は苦笑いしたまま私の上腕を触ってきたのでその異変に気づくと、背後にヌッと影ができた。
振り返ると、そこには萌歌が冷たい目で見下ろしたまま仁王立ちしている。思わずギョッと目を見開いた。
「またあたしの噂?」
「いっ……、いやっ……、あのっ、それはさ……」
「この前言ったばかりなのにまだ懲りないの? 言いたいことがあるならあたしに直接言いな。……ま、謝っても許さないけどね」
彼女は額に青筋を立てながらそう言うと、長い髪をハラリと手で払って校舎へ戻っていく。
私はその背中に向けて言った。
「悪気があったわけじゃ…………」
そこまで言いかけたけど、聞く様子のない態度に声が詰まった。彼女は長い髪を揺らしたまま校舎の奥へ消えていく。
「あ〜あ、また怒らせちゃったね」
「はぁぁ……。普通に話せるにはあと何年かかるんだろう。いまからこんなんじゃ先々が思いやられるよ」
「あんたの素直すぎる性格が損してるというか。こりゃしばらく仲直りできそうにないね」
お互い素直すぎるから仲良くなるのには時間がかかるかもしれないけど、せめて普通に会話ができれば……。
本当はいまのままじゃダメだとわかっている。この関係をどうにかしたい。
でも、そこには分厚くて高い壁が立ちはだかっている。
――ランチタムが終わり、5時間目の科学の授業が始まった。
萌歌のことで頭がいっぱいだけど、佐神先生は私の心境を知るはずもなく授業を進めていく。
彼は黒縁メガネに白衣姿で、二十代後半の男性職員。いつも蚊が泣くような声でなにを喋ってるかわからないから、授業は生徒の雑談に埋もれていく。
私も他の生徒と同様、科学の授業に興味がないけど、この時だけは眠気に襲われながらもうっすらと聞いていた。
すると……。
ガラッ!!
突然大きな音とともに後方扉が開く。生徒たちが一斉に目を向けると、そこにはケンカが強くて最強男子も噂されている桐島響の姿があった。
乱雑にセットされている短い銀髪。両耳にはピアスが二つずつ。二重の切れ目が彼の特徴。
強面の風貌なせいか、普段から近寄る者はいない。肩が触れただけでも暴力を振るわれるという噂が生徒たちの間に飛び交っているから。
「やべー……。昼寝してたら遅れちまったー」
「きっ……、桐島くん……。早く席に着きなさい」
「んあっああぁぁっ?!?! そんなに小っせぇ〜声じゃ聞こえねーよ!」
「…………ちゃっ、着席して下さい」
このように簡単にナメラれてしまうほど佐神先生は頼りない。教師の中でも肝が据わってないのは彼一人だけ。だから、科学が好きになれないというか……。
桐島くんが座席にどかっと腰を下ろすと、佐神先生はチョークで黒板に横二本の平行線を書いた後、下から上に向けて一本の曲線を描いた。
「えぇーー……っ、いま私たちが暮らしている世界に加えて、もう一つの並行世界が存在するということが先日ニュースで報道されました。そこはパラレルワールドと呼ばれ、一つの世界が何かのきっかけによって二つに分岐してしまったと言われています。一説によると、人間の性格や建物の形状が左右反転していて鏡の奥のような世界。つまり、君たちの分身がもう一つの世界で存在している可能性もあり、その確率は……」
へぇ〜……。パラレルワールドって人の性格や建物の形状が逆なんだ。
もしそんな世界が存在してるなら、萌歌と仲良くやっていけるのかな。それどころか、憧れの三井くんと恋人になれるかな……なんてね。
私は左斜うしろの席の三井くんにちらりと目線を当てる。
彼はセンターパートの黒髪ツーブロックヘア。
彫刻のように顔が整っていて、学年で1、2を争うくらいの秀才だ。
先日告白をしたばかりだけど、いい返事は得られず終いで……。
念仏のように唱えられる退屈な授業に加えて昼食後ということもあり、机に寝そべったまま夢の世界へ。
この時は佐神先生が説明していたパラレルワールドに、まさか自分が行くことになるとも知らずに……。
――場所は自宅。
私は日付をまたぐ直前くらいにお風呂から上がって洗面所でドライヤーをあてて髪を乾かしていた。
ふと目線を下ろすと、洗面台の上には見覚えのない丸い手鏡が置いてある。
気になってドライヤーを洗面台に置いてから手鏡を持ち上げて眺めると、裏にはピンクベースのラインストーンで装飾が施されていた。
「うっわぁ〜、かわいい〜〜っ!! 萌歌ってクールなイメージがあるけど、こーゆーラインストーンのキラキラ感が好きなんだぁ。へぇ、意外!」
その手鏡の装飾を見た途端、目がハートに。
鏡自体は高価そうなものではないけど、フレームの隅までデコレーションされている分、より良く見える。
1000円……ううん。2000円で販売しててもおかしくないほどの仕上がりに。
真似したいなぁと思ってマジマジと眺めていると、ガラっと洗面所を開ける音がした。すかさず目を向けると、そこには鬼の形相の萌歌がこっちを見ている。
彼女は足を一歩前に踏み出すと、私から勢いよく手鏡を奪った。
「なに人のものを勝手に触ってんのよ!」
「洗面台に置いてあったからキレイだなぁと思って眺めてただけなのに、そんなに怖い顔をする必要がある?」
「あんたに私物を触られたくないだけ」
「それはわかるけど、言いかたってもんがあるでしょ。『手鏡を返してくれる?』だけで充分じゃない。なのに、人を泥棒扱いにしてさ」
「あんただって人の気持ちを考えないで失礼じゃないの? 少しは考えてからものを言いなさいよ。だからあんたとはきょうだいになりたくなかったのに」
私たちの関係は悪化の一途をたどるばかり。
彼女と顔を合わせばトゲトゲしく突っかかってくるし、肝心なことを伝えようとすると無視される。
そんな生活がこれから延々と続くと思うだけで正直重い腰が上がらない。
父が再婚したいと言ったとき、きょうだいが出来ると思って心がボールのように弾んだ。
友達や恋愛や家族のこと。なんでも話し合える関係になりたいし、親友のように仲良くしていきたいなとも思っていたのに……。
実際は顔を合わせばケンカ。この時点で理想のきょうだい像からかけ離れている。
二人で言い争っているうちにカッとなって鏡を持っているほうの腕を掴み上げてから言った。
「私だって萌歌ときょうだいになりたくなかった! きょうだいが出来たら良い関係をつくり上げていきたいと思ってた。なのに、私たちは顔を合わせればケンカ。確かに私も悪いところはあるけど、お互いがお互いを思いやれなくなってる」
「待って! 自分を正当化しないでよ。あんたが関係悪化の原因があることくらい気づいてよ」
「だから謝ってるじゃない。話を聞かないのは萌歌のほうでしょ?」
私は何度も何度も謝ろうと思っていたのに……。
「皐月と喋ってるとイライラするのよ。裏でなにを言ってるんだかわかんないし。どうせ明日も友達にあたしの悪口を言うんでしょ?」
「いつも悪口を言ってるわけじゃないのに、悪いところだけつまみ出さないでよ」
「あんなに何度も悪口を言われると、全部が全部そう聞こえちゃうのよ。嫌なら嫌でいいんだけど、友達を巻き添えにしてコソコソ悪口を言わないでくれない?」
「悪いと思ったから謝ったんでしょ! 私だって反省してるの。話を聞いてくれないのは萌歌のほうじゃん。あぁ、もうこんな世界は嫌だ! やってらんないよっ!!」
彼女の腕を引き、揉み合いになりながらそう言った瞬間……。
ピカッッ!!!!
手鏡から稲妻のような閃光が走り、辺り一面は一瞬にして眩い光に包み込まれた。
それによって目の前が画用紙のように真っ白に。
「うわわわわっ……」
「えっ…………」
…………
………………
…………………………
――あれから何分経過したのだろうか。
意識を失っていたと気づいたのは、洗面所の床に倒れたまま目を覚ましたとき。
床に手をついて上半身を起こすと、隣には萌歌がうつ伏せで倒れていた。
ところが、本当の異変に気づいたはそこから。
「萌歌……、ねぇ、萌歌!! 起きて!」
「うっ……うーん…………なによ……騒がしいわね……」
「変なの! 全てが……。自分の家なのに、自分の家じゃないみたい!!」
「うっ、うーーん…………? なにおかしなことを言ってるのよ。わかるように説明して」
萌歌は目をこすりながら体を起こす。状況を把握してないからそんな呑気なことを言ってられるのだろう。
私の瞳の中は、”いつもの風景”が映し出されていなくて泳ぐように辺りを見渡しているというのに。
「せ、洗面所の扉が……。浴室の場所が……。私たちがここで倒れていた間に景色が左右反転してるの」
「……どーゆーこと?」
「つまり……、洗面所の全ての配置が逆になってるんだよ」
顎の震えが止まらなくて声が揺れたまま説明していると、彼女は異変を感じたのか、同じように洗面所の中をぐるりと見回した。
「ほんとだ……。右側にあったはずの浴室が左に。さっき入ってきた扉が右に。定位置にあったものが全て逆になってる。まるで鏡の向こう側にいるみたい」
そこでハッと気づいた。
もしかしたら、佐神先生が授業中に言っていたパラレルワールドに来てしまったのかもしれないと。
……いや、そんな簡単に来るはずがない。先生の話といえども信憑性が低いし。それに、パラレルワールドへ来る理由や行きかただってわからないのに。
と、現実が受け入れがたくて否定したいところだけど、目の前にある景色がそれを覆してくる。
次第に不安が募っていき弱気になった。
「もしかして、パラレルワールドに来ちゃったかな。私たち……」
「昨日佐神が言ってたやつ?」
「うん……。だって、目覚めた途端に家の中が全て逆になってるなんておかしいでしょ! ねぇ、絶対そうだよ! どうしよう!!」
「夢でも見てるんじゃないの? バカバカしい……」
同じ景色を見ているはずなのに、彼女は信じようとしない。
もしかしたら、まだ目が覚めていないのかな。
それならちゃんと起こしてあげなければならないと思って彼女の左腕を掴んだ。
「まだ寝ぼけてるの? これは夢じゃない。現実なんだよ! 自分の肌をつねってごらん」
「大げさに考えすぎでしょ。一晩寝れば元通りにもどってるよ、きっと」
「なに言ってるの? もし戻らなかったら、私たちは一生パラレルワールドで生きていかなきゃいけなくなるんだよ?」
「はぁっ? そんなの知らないし、しつこいっつーの!!」
彼女がしかめた顔のまま手を振り払った瞬間、それまで掴んでいた手鏡が飛んでいき、洗面台の下に当たってパリーンと音を立てた。
目を向けると、手鏡はクモの巣状にヒビが入っていて、ガラスの破片が辺りに散乱している。
「あっ……」
「ちょっ……、何してんのよっ!! あたしのお気に入りの手鏡だったのに」
「ごめん。悪気があったわけじゃ……」
「もういいっ!! 言い訳なんて聞きたくない! あんたが責任持って割れた鏡を片しておいてよね。あたし、もう部屋に戻るから」
彼女は顔をしかめて拳を握りしめたまま立ち上がって洗面所を出て行った。
その場に取り残された私は、気持ちが追いつけないまま様変わりしてしまった景色を眺めるだけ。
夢、だと思いたい。
でも、どんなにたくさん瞬きしても、何度も辺りを見渡しても、家の中の配置は全て逆になっている。
いや……、それ以上に深刻なのは、時計の文字盤と動きが逆だということ。
この現実をどう受け入れればいいか、どう受け止めたらいいかすらわからないまま、鏡の破片を拾って、左右を確認しながら部屋に向かった。
部屋の中に入って机の前で積んである教科書に手をかけると、やはり文字が全て逆になっている。
もしこれが夢じゃないなら、この先どう生きていけばいいかわからない。一瞬にして”通常”が全て奪われてしまったのだから……。
――そして、一晩経った。
ベッドから起き上がって辺りを見回してみるが、眠りについた時となに一つ変わらない。
カーテン、タンス、机、本棚の位置が全て反対側に設置されている。
夢であって欲しかった。
目が覚めたら元通りになっていて欲しかった。いつもどおりの生活がそこに待っているはずだったのに……。
でも、現実はそこまで甘くない。
私は布団から起き上がり、萌歌の部屋の前に立って拳で思いっきり扉を叩いた。
ドンドンドン!! ドンドンドン!!
「萌歌っっ!! 起きてる? ねぇ、萌歌っ! 萌歌!!」
ドンドンドン!! ドンドンドン!!
「萌歌! ねぇ、萌歌ったら!! 一晩経っても部屋の中が昨日と同じなんだけど! 萌歌! 起きて、萌歌……」
手が痛くなり顔面蒼白のまま叫んでいると、扉がゆっくり開かれた。薄暗い部屋の中から眠そうに目をこすっている萌歌が現れる。
「なによ、朝っぱらからうるさいわねぇ〜」
「一晩経っても部屋の中の配置が元に戻ってないの。それだけじゃない。文字も全て逆。時計も、教科書も、スマホも、全部全部……。やっぱり夢じゃない! この世界なにかがおかしいの。ねぇ、どうしよう!!」
「そんなの知らないわよ。あんたのせいでこうなっちゃったんだから、あんたが責任持って解決してよね」
彼女は眉を釣り上げたまま不満を押し付けると、バタンと勢いよく扉を締めた。
知らない世界に送り込まれて不安な私と、この世界に来た責任を押しつけてくる萌歌。
まともに取り合ってくれる人がいない状態での未知の世界は、心に暗い影をもたらしていく。
――制服に着替えて外に出てから、より一層深刻度が増した。
家なんて所詮小さな世界だったと……。
一歩外に出れば、見慣れた通学路、看板、信号、街の景色、太陽の方向、今まで見慣れていたものが全て反対の向きに。
それが目に映った途端、本当の試練はここからなんだと察した。
幸い通っている学校は徒歩圏。スマホの地図アプリを見ながらの登校すれば問題ないけど、キーの位置や文字が逆さに。検索が難しくて学校に到着するまで少し時間がかかった。
――やっとの思いで教室に到着。
昨日から積もり積もっている不満を吐き出す為に、席でスマホを操作している心葉の傍へ行って声をかけてみたけど……。
「心葉、おはよ〜。聞いてくれる? 困ったことがあったんだけどさ……」
一瞬目が合ったはずが、彼女はフイッと目線をそらして再びスマホ操作を始めた。
普段なら元気な声で「おっはよぉ〜」と声をかけてくれるのに、あまりにもそっけない態度に違和感を覚える。
いま、目が合ったよね。
私が呼んで気づいたからこっちを見たんだよね。
それなのに……、無視??
心に波風が立ちながらも、上目遣いでそろりと聞く。
「心葉、なにか怒ってる?」
「別に」
「今日は様子が変だよ。私が何か嫌なことでも言ったかな」
「なにも」
「身に覚えがないんだけど、もし変なことを言ってたらごめん」
恐る恐る表情を伺いながらそう伝えると、彼女は話に区切りをつけるかのように膝裏で椅子を押し当てて席を立つ。
「なに? 言ってることがわかんないし、馴れ馴れしいんだけど」
目に輝きを失わせたまま言い返された後、彼女は会話を遮断するように席を離れて行った。
普段とはまるで違う様子に気持ちがついていけないまま焦ってその背中に言う。
「馴れ馴れしいって、どーゆーこと? 私たち親友じゃないの?」
「……親友? 私、堀内さんとは1日たりともそんな日はなかったけど」
「ちょ……ちょっと待って。昨日まで”皐月”って呼んでくれたのに、どうしていきなり名字呼びに? 心葉ったら一体どうしちゃったのよ」
願いとは裏腹に、彼女は反論したり足を止めることなく教室を出ていく。その背中はまるで他人のよう。
ぽつんと取り残された私は心の葛藤が始まった。
昨日まで普通に接していたのに、今日はどうしたんだろう。
昨日の別れ際にどんな話をしたっけ。ええっと……。最近近所にできたスイーツのお店の話だったような。知らない間に気に障る言葉でも言っちゃったのかな。あぁっ……、全然身に覚えがないよ〜〜っ!!
どんよりと肩を落としたまま席に向かうと、あの桐島くんが私の席に座って机に寝そべった。
……あれ、桐島くんの席はそこから横二つ先なのに自分の席を間違えてる??
でも、本人にいま座ってるところが私の席だなんて言えない。話しかけただけでも怒鳴りそうだから、どうしたらいいかわかんないよ……。
ただですら心葉の件で落ち込んでるのに、桐島くんまで私を困らせてくるなんて。トホホ……。なんかとことんツイてないかも。
私はもどかしい気持ちのまま立ち尽くしていると、後ろから来た萌歌がすれ違いざまに呟いた。
「桐島が座ってるところから左二つ横だよ」
「えっ」
「あんたの席。この世界は全て左右反転しているなら多分正解だと思う。早くこの世界にいることを受け入れなきゃやってけないよ」
「萌歌……」
正直驚いた。あの萌歌が困ってることに気づいてくれたなんて。……なんか、意外。
「あっ、ありがとう! そっかぁ〜。普段通りの席順で考えてたから、自分の席を勘違いしちゃったんだね! 指摘されるまで気づかなかったよ」
感謝を伝えようと思って背中に向けて大きな声で言った。でも、彼女は振り返らない。
返事はしてくれなかったけど、きっと気持ちは届いてるよね。
確かに、パラレルワールドに来てしまったからには一刻でも早くこの環境に馴染まなければならない。帰れるかどうかもわからないし。
あぁ、勉強どうしようかな。ノートも全部逆向きで書かなきゃいけないんだよね。急に反転文字を書けと言われても無理だよ。
はぁぁぁ……、頭ではわかっていても気持ちがついていけてないな。
……あれ? もしかして、全て反転してるということは、心葉の性格も反転してたのかな。
普段は仲がいいぶん、いまはその逆で仲が悪くなっているとか? 佐神先生もそう言ってたような……。それなら納得いくかも。
環境に少しずつ慣れ始めて気持ちが安定してくると、ふと名案が思い浮かんだ。
もしこの世界が本当に全て反転しているのなら、三井くんは私の告白をOKしてくれるかも。
向こうの世界でアタックしてもダメだったということは、ひょっとしたら…………むふふ……。
期待がふくらんだ途端、笑い声をこらえて揺れた肩が止まらなくなった。
善は急げと思い、ハッピー気分のまま三井くんを体育館裏へ呼び出す。
そして、躊躇いもせず「好き」だと告白したけど……。
「ごめん、先日も言ったけど、いまは堀内と付き合いたいとかそーゆー気持ちにはなれなくて」
あっさりフラれた。
元の世界でフラれ、このパラレルワールドでもフラれるなんて。佐神先生が人間の性格も逆って言ってなかったっけ?
……でも、もしかしたらという思いもあり、念の為にもうワンプッシュしてみることに。
「……どうしても、だめ?」
「うん。いまは他の女と遊んでたほうが楽しいんだよね」
……ん?
断る理由がなにかおかしくないかい。
先日は「勉強が忙しいから」と断られたけど、「他の女と遊んでた方が楽しい」って。真面目な性格だったのに、どうしていきなりクズ男に……。
あ、そっかぁ!!
この世界は性格も真逆だから真面目な人はチャラくなるのか……。
だけど、好きな人がここまで落ちぶれるなんて思わなかったよ。しかも、どっちにしてもまたフラれてるし。
私は虚しさの吹雪に巻き込まれながら、その場を離れて行く三井くんの背中を見つめたままひとりごとを呟いた。
「うっ、うっ、うっ……。この世界は全て逆だから告白がうまくいくと思ったのに。しかも、恋が一瞬で冷めるくらい最低男に変貌してしまうなんて。なにがパラレルワールドよ。この世界に来てから人間の性格や建物の形状が反転してるはずなのに……。なにが基準だかわかんない。中途半端に反転させないでよ」
窮屈な気持ちのまま半泣きしていると、体育館のすぐ横から「ぶわぁ〜っはっはっは!!」と大きく笑い出す声が聞こえてくる。
失礼な人だなぁと思いながらそこに移動すると、花壇のレンガにごろんと横になって腹を抱えている桐島くんの姿があった。
彼は私に気づくと人差し指をまっすぐに向ける。
「だっっっせぇえ〜っ!! 三井にフラれてやんの。しかも、振った理由がパンチ効いててウケるんだけど」
「……もしかして、そこで全部聞いてたの?」
私は上目遣いで聞く。
これが彼とファーストコンタクトだったけど、失恋のショックが勝っていたせいで怖い人とは感じなかった。
「人聞きが悪いな。聞いてたんじゃなくて、聞こえてきたの! せっかく人がここで寝てんのに、勝手に堀内の告白が始まるし」
「うっ……。誰もいないと思ってたのよ」
恥ずかしさと情けなさで赤面したまま拳を握っていると、彼は上半身を起こしてから座り直す。
「ちょっと気になることがあったから聞いてもいい?」
「あ、うん。いいけど……」
「さっき、『この世界に来てから人間の性格や建物の形状が反転してる』言ってたけど、堀内は別の世界から来たってこと?」
「そっ、そうだけど……」
「ちょっとそれを詳しく聞かせてくれない?」
それから私はパラレルワールに来た経緯を伝えた。
父親が再婚して、萌歌と姉妹になってから鏡の前でケンカをしていた時に異変が起きて、目が覚めたらこの世界に倒れていたということを。
すると、桐島くんも私たちと同じように元の世界から来たことをカミングアウト。
ここへ来たのは自分たちだけだったと思っていた分、驚きが半端ない。
「俺たちは同士ってことだよな」
「うん。少なくとも、私と萌歌、桐島くんの三人は同じ世界からやってきたことになるね」
「堀内はいつ来たの?」
「昨晩。桐島くんは?」
「俺も昨日の夜中。鏡に吸い込まれた感覚があって、気付いた時には床に倒れてた。目を覚ましたら家具の配置や家の形状が全て逆になってたし」
「私と同じだ……。きっとなにかきっかけがあってこのパラレルワールドに連れてこられてしまったんだよね」
そう言うと、桐島くんはなにかを考えているかのようにぼーっとした目のまま瞼を軽く伏せて人差し指を顎に当てる。
「……パラレルワールド? それって、先日佐神が授業で話してた……」
「うん。現実と並行しているもう一つの世界。きっと間違いない。私たちはパラレルワールドに来ちゃったんだよ」
正直な話、桐島くんも同じタイミングでやって来たと知ってホッとした。
私と萌歌じゃマトモな話し合いが出来ないと思うから。
「つまり、俺たちは縁があってここへ来た。なら、ここで暮らしていく意味があるかもな」
「えっ! ここで暮らしていく……? 桐島くんは元の世界に戻りたくないの?」
「別に。元の世界に不満があったことは確かだから。状況が逆転すれば俺の問題は解決するし、未練もないし」
この世界へ来てから辛いことばかり。一刻でも早く解決したいと思っているのに、桐島くんはそうではない様子。
「そ、そんなぁ……。だって、昨日まで仲良くしてきた友達が他人のように仲が悪くなってるんだよ? それでもいいの?」
「友達なんていないよ。みんな俺の顔を見るだけで逃げてくじゃん。それに、卒業まであと1年もないし」
「そんなぁ」
「じゃあな。お前も頑張れよ」
彼はそう言うと、校舎の方に向かって行った。
元の世界に帰りたいと思っている私とは対称的に、彼はこの世界に残ろうとしている。
それに加えて、私のせいでここに連れてこられたと文句を言ってきた萌歌には責任を丸投げされてしまったし……。
誰も味方がいない状況で元の世界に戻れるのかな。
せめて一人だけでも味方がいてくれれば、こんなに心細くないのに……。
――場所は自宅。
19時過ぎに萌歌が帰宅したので、私は玄関扉の開閉音を聞き取った後に部屋を飛び出して玄関に向かった。
いま味方がいないなら、これから作っていけばいい。
孤独感を打ち破るには、自分の気持ちを切り替える他なかった。
「萌歌、おかえり。あのね、大事な話があるの」
「……なに?」
「速報っ!! 実はね、パラレルワールドに来たのは私たちだけじゃなかったの。同じクラスの桐島くんも昨日ここへ来たんだって。偶然でしょ!」
仲間がいることを知れば喜んでくれると期待していたけど……。
「ふーん……」
彼女は玄関で靴を脱ぐと、眉一つ動かさずに自分の部屋に足を向けた。
相変わらず無関心というか、興味がないというか。
誰もが飛びつくような吉報のはずが空回りに。
元の世界の仲間に出会えて嬉しいとか思わないのかな。
いま不安じゃないのかな……。
「もしよかったら、今後について三人で話し合わない?(桐島くんがイエスという可能性は低いけど……)一つでも案が増えれば1日でも早く元の世界に帰れるかもしれないし」
この時の私は、萌歌も同じように早く帰りたいと思っていた。
ところが、長い髪をはらりと揺らした後に返ってきた返事は……。
「あたしは帰らないよ」
「えっ」
「今日ダンス部で、あるオーディション用のグループ決めをしたの。大切なオーディションだし、あたしが抜けたらみんなに迷惑をかけてしまうから、あんたが桐島と二人で帰ればいい」
ここに残る決断だった。
予想外の返答に動揺の色が隠しきれなくなる。
「そんな……。でも、それは元の世界に帰ってからまた挑戦すればいいんじゃない?」
「はぁっ? あんたにはわかんないだろうけど、今回は憧れの【DATTY】の一員になれるチャンスが詰まった特別なオーディションなの。募集人数は二人。今回は絶対に外せないのよ」
「えっ!! 【DATTY】って韓国で有名な女性ダンスグループの……」
「夢なの。あのダンスグループに入って活躍することが。あたしは中学からダンスを始めたからスタートが遅い分、人一倍練習を重ねてきた。そして、その夢はいまは目の前に。すでに活躍しているグループに追加加入するいうことは自分を売り込む近道なの。このチャンスだけは絶対に手放したくないから、そんなくだらないことには付き合ってられないの」
彼女は眉間にシワを寄せたままそう吐き捨てると、部屋の中へ姿を消していった。
元の世界に無関心な様子を見た途端、目の前が真っ暗になった。
帰りたいのは、この世界へ来た三人のうちの私一人だけ。もし自分だけが元の世界に戻ったとしても、果たしてそれが正解かどうか自信がない。
――場所は教室。
私は授業の合間の時間や昼休みの時間を使って、パソコンやスマホでパラレルワールドについて検索していた。
まず自分が第一歩をふみださなければなにも始まらない。
萌歌や桐島くんは帰る気がなさそうだけど、元の世界へ繋がる方法を見つければきっと興味が湧くはず。
検索でいちばん厄介なのは、文字が左右反転してること。
スマホのフリック入力ですら真逆方向。初めてスマホを操作したとき以上に手間取っている。
パソコン画面はスマホで写真を撮ってから画像を反転させた。そうすれば見慣れた文字配列で読むスピードが上がるから。
ただ、問題が一つ。キーボードの配列が逆だから幼稚園児が文字を打つのと同じスピード感に。メリットとデメリットは常に背中合わせだ。
ここまで調べても有力な情報は見つからない。仮説で片付けられてるような気がする。
自分たちのようにここへ来た人間がいる可能性もあるのにひとつも情報が残されていないなんて……。
私は最悪な事態も想定しながら諦めずに検索を続けた。
放課後、教室内にひとりぼっちになってることに気づかなくても、窓の外の景色が暗闇に包まれていても、毎日パソコンと向き合い続ける。
何日も、何日も……。帰れる日を夢見てキーボードに指を叩きつけていた。
半べそをかいても肩をなでてくれる人なんていない。自分だけが頼り。落ち込んじゃだめ。
でも、このまま検索し続けても結果が出なかった場合のことを考えると不安になる。
どうしよう。どうしよう……、どうしよう…………。
「……ったく!! しゃーねーなぁ……」
――検索を始めてから約2週間後の放課後。
時間とともに気持ちが追い詰められながらガランとした教室内でパソコンに向き合っていると、桐島くんが私の机の隣にリュックをドサッと置いて椅子に座った。私の黒目は思わず彼の方へ。
「桐島くん……」
「途中で諦めると思ってたのに全然諦めねぇから」
「だって、帰る方法を探さないと……。二度と帰れなくなったら困るし」
「……その熱意に負けたよ」
「えっ」
「手伝ってやるよ。朝から放課後までパソコンをカタカタしてるところを見てたら、こっちまで帰りたい気持ちが伝わってきたし」
彼は私の返事を待たずにリュックからパソコンを取り出して起動させた。
「ありがとう。一人で探すのに限界感じてたから」
彼の優しさが後押ししたのか、瞳から一粒の雫が滴った。
何度調べても検索がヒットしない上に、一人きりで不安だったから。
すると、彼は呆れ眼を向ける。
「おいおい、泣くなよ。俺がイジメてるみたいだろ」
「だって嬉しかったんだもん。毎日スマホとPCを往復しても情報は一つも拾えないし、相談する相手はいなかったから」
「……あの時は突き放しちゃってごめん。俺、自分のことばかり考えてた。ここへ来てから悩みが解消されていたから帰らなくてもいいかなって」
「桐島くん……」
「でも、必死に帰る手段を探してるおまえと、悩みが解決して楽観的に考えていた俺。二人は同じ条件でここへ来たのに、おまえを見てたら楽な方へ逃げている自分に考えさせられたよ。……でも、今日からは協力する。検索スピードを二倍にしようぜ」
「うんっ!! 頑張ろうね!」
このまま一人で探していかなきゃいけないと思っていたせいか、彼のひとことによって心臓がじわじわと温かくなっていき、熱い血が全身を駆け巡っていった。
もう、一人じゃない。
そう思っただけで頬が緩む。
「ってか、スマホカメラでパソコン画面を撮って反転させてから読むなんてよく思いついたな。すげぇじゃん」
「でしょでしょ! 確かスマホには左右反転機能があったと思って。これなら勉強も追いつけるはず」
「俺なんて黒板の文字をそっくりに書き写してたよ。いつかは慣れるかと思って」
「あははっ、私は無理だったから授業中も黒板の文字をこっそり写真に収めていたよ」
「賢いな。……でも、そのやり方だとテスト時に苦戦するだろうな」
「うぐっ……」
クラスメイトから怖いと恐れられていた桐島くん。
外見からして不良っぽいイメージが強かったけど、想像よりも話しやすくてちょっと意外。
――私たちは、その日を境に放課後教室に残ってパラレルワールドについて検索を始めた。
集中するあまり最終下校時刻のチャイムを聞き取る毎日。
5月ということもあって下校時刻の18時半。外はまだ明るい分、時間感覚を失ってしまう。
検索方法を変えたり、英文を翻訳したりと、あらゆる手段を使ってみたけどやはりヒットせず。
「いっそのこと、思いきって検索キーワードから”パラレルワールド”を抜いてみる?」
「じゃあ、なんて検索するの?」
「うーーん……。そうだなぁ。”もう一つの世界”とか”異世界”とか」
「なるほどねぇ。少しでも接点につながればいいんだけど」
私と彼が隣同士の席に座って細かい相談をしながら二台のパソコンとスマホを使って調べていると……。
「もう一つの世界なんて信じてるの?」
前方扉から聞き慣れた声が届けられた。
目線が吸い寄せられると、腕を組んでいる心葉の姿が。
少し興味を持ったかと思って、椅子から立ち上がり彼女の方へ。
「そうなの。実は私、もう一つの世界から来たの。だから、帰る方法を桐島くんと一緒にパソコンで検索してて……」
「私は信じないけどね。そんな世界なんて」
「えっ」
「調べても時間の無駄だと思う。……じゃあね」
心葉はサラリと言い残すと廊下へ消えていった。一瞬の期待は一瞬で砕け散ることに。
「ちょっ……、ちょっと、心葉!!」
追いかけて扉に手を置いて廊下を覗くが、彼女は振り返らない。
元の世界ではなんでも話せる仲なのに、ここではまるで他人のよう。
期待外れな態度に扉を支えていた手がガクッと垂れ下がった。
「なんか……、虚しいね。仲が悪い萌歌と家族になってケンカしている間にこんな世界につれて来られちゃうし、ここの人たちの性格が逆で建物は左右反転してるし。萌歌に元の世界へ帰ろうと言っても断られるし」
「……」
「私、前世でなんか悪いことをしたのかな。過去の記憶なんてないのに、いまその代償を払わなきゃいけないの? どうして私だけこんな目に合わなきゃいけないの? もう二度と元の世界に戻れなかったらどうしよう……」
弱音はもう吐きたくないと思っていたけど、人からここまで言われると頑張る気力さえ失い始めている。
もしかしたら、自分のしてることが本当に無意味なのかもしれないと思ったら、やるせない気持ちに。
すると、桐島くんは背後からいきなり声を上げた。
「はぁあぁぁぁああっっ?!?! いまさらなに弱気なこと言ってんの?」
「えっ」
「頑張るって決めたんだろ。なら後ろを向くな。俺らぜってぇ元の世界に帰るから!!」
「桐島くん……」
「まだヒントにすら辿りついてないけど、きっと自分たち以外の人もここに来てる可能性がある。俺らが一番最初じゃないはずだ。探しているうちになにか情報を拾えると思うし、堀内の努力は必ず届くよ」
――私、大事なことを忘れていた。
帰る方法が見つからなくてついネガティブになってしまったけど、近くで今日までの努力を見ていてくれる人がいるということを。
「そう……かな……」
「あ、そうだ! 肝心なことを忘れてたよ」
「えっ、なに?」
「佐神に話を聞いてみるってのはどう? ほら、元の世界にいるときに授業で言ってたじゃん。パラレルワールドについてさ」
「あぁっ!! 言ってた言ってた。それいいね! どうしていままで気づかなかったんだろう。佐神先生ならなにかヒント的なものを知ってるかもしれないからね」
「じゃあ、いまから聞きに行ってみよう」
私たちは雨音に包まれている教室で荷物を片してから職員室に向かった。
確かにあのとき先生は言ってた。”もう一つの世界がある”と。
授業中に伝えるくらいだから、先生は調べている可能性があるし有力な情報を握ってる可能性もある。
私たちは期待を膨らませたまま佐神先生を職員室の出入り口まで呼び出して、パラレルワールドについて聞きたいと訪ねてみたけど……。
「僕はそんな話をしてない」
予想外の回答が下だされた。私たちは思わず互いの目を見合わせる。
「だって、先日授業で言ってたじゃないですか。もう一つの世界があるって……。私たちはちゃんと聞いてたんです」
「聞き間違えじゃないかな。だいたい大事な授業でそんな話をするわけがないだろ」
「ちょっ!! 覚えてないなんてあり得ないだろ。たった2週間前の話なのに」
「そんな話自体してない。君たちの勘違いだろう。……もうとっくに下校時刻は過ぎてるからそろそろ帰りなさい」
先生は無関心な様子でくるりと背中を向けてデスクの方へ。
「先生っっ!!」
「おいっ、佐神! 隠してんじゃねーよ。俺らは本当のことが知りたいんだ!!」
「桐島! 先生に呼び捨てなんて失礼じゃないか。態度を改めろ!」
「くっっ……。なんだよ、急に別人みたいでさ」
「別人……? なにを言ってるんだ。さぁ、もう下校時刻だから帰りなさい」
期待も虚しく職員室の奥へ戻っていく先生。私たちは先生が着席するまで見届けるはめに。
唯一の期待が見事に砕け散った瞬間だった。
私たちはしゅんと肩を落としながら静まり返った廊下を歩き進める。
いまの心境は空一面にびっしりと雨雲が敷き詰められている梅雨空と同じ。
「佐神先生の性格も真逆だったね。普段は生徒に野次られてるような人なのに」
「元の世界と並行しているはずなのに、パラレルワールドの話をしてないなんて……。唯一の宛が消えたな」
「私たち、このまま帰れないのかな。この世界で一生いきていかなきゃいけないのかな」
「諦めるのはまだ早い。明日図書室へ行って調べてみよう。何かヒントが見つかるかもしれない」
「図書室……かぁ。新しい情報を嗅ぎ回ってばかりいたから図書室の存在を忘れてたね」
「気ぃ落とすなよ。これからが勝負だからね」
彼は穏やかな目のまま私の頭にポンッと手を置いた。
もし、私があのままずっと一人きりで調べていたら、佐神先生に話を聞きに行くことも、図書室へ調べに行くことも思い浮かばなかったよ。
努力をしていれば必ず見てくれる人がいると聞いたことがあったけど、それは本当なんだね。
――翌日。
私たちは昨晩自宅で調べてきたパラレルワールド関連の著書情報を共有して、放課後に図書室へ向かった。
入口に設置されている端末で関連する書籍を検索。
慣れとは怖いもの。毎日反転文字を眺めていたら少しずつ読めるようになっていた。
彼と分担して棚ごとに本を取りに行き、テーブルの上に次々と積んでいく。
三十数冊とそこそこ数は見つかったが、女性司書にも相談して関連著書をパソコンで検索してもらった。
しかし、ヒットしたのは自分たちが調べた本と同じ。
それでもしつこく聞いていたせいか、彼女の目の色が変わった。
「そんなに熱心に調べてるけど、パラレルワールドに興味があるの?」
「あっ、はい。知ってたら教えて欲しいんです。パラレルワールドについて。ネット検索してもなかなかヒットしなくて」
「ごめんなさい。専門分野に関しては知識が薄くて。本の内容を確認しないとわからないの」
「本じゃなくてもいいんです」
「えっ」
「例えば、誰かからパラレルワールドについて聞いたことがあるとか小さなことでも構いません。一つでも情報が欲しいんです。パラレルワールドへの行き方とか、そこと繋がってる世界の話とか、行き来ができるかどうか知りたいんです。だから、だからっっ……」
ドミノ倒しのように押し寄せてくる気持ちに歯止めがきかず、声のボリュームが右肩上がりになって前のめりのまま聞いていると……。
「おい! 堀内。やめろ」
後ろから来た桐島くんに肩を掴まれた。振り返ると、彼は眉間にしわを寄せたまま首を横に振る。
「桐島くん……」
「すみません……。こいつ、興味があることを熱心に調べるタイプで。自分たちで調べるので気にしないでください」
「えっ、でも……」
「なに言ってるの? 一人でも多く調べる人がいてくれた方が……」
「なんでもないっス。ありがとうございました」
彼は私の話を遮断して軽く頭を下げた。
「えっ、ちょっと!! 桐島くん、まだ話は終わってな……」
「失礼しました。……ほら、堀内。行くぞ」
「えっえっ……、ちょ、ちょっと、桐島くんっ!!」
話は終わってないのに、強制的に先ほどの席へ連れて行かれる私。
納得がいかぬまましぶしぶと椅子に座りながら仏頂面で聞く。
「ねぇ、どうして引き止めたの? 司書さんがせっかく興味を示してくれたのに。もしかしたら、パラレルワールドに関してなにか知っていたかもしれないし……」
「戸惑ってただろ。それに、佐神の反応を忘れたの?」
「忘れてはないけど……」
「この世界の人たちは、ここがパラレルワールドだということを知らない。それに、別世界が存在することさえ。お前だってここへ来る前はもう一つの世界があるなんて言われても信用しなかっただろ?」
確かに自分も佐神先生の話を他人事だと思っていた。パラレルワールドなんて存在するはずがない。鏡に映したような景色が、人々が、世界があるなんて。
自身が受け入れられるはずがないのに、人に受け入れてもらおうなんて身勝手かもしれない。
「むやみに話して混乱を招くのはどうかなって。パラレルワールドなんて非現実的だからまともに取り合ってもらえないだろうし」
「確かにそうかも。みんなの反応を見てると余計にそう思う」
「この件は信用できる人だけに話そう。一方的に話を撒き散らしても変な目で見られるのがオチだし」
「うん、わかった。今後はそうするよ」
帰りたいけど、帰れない。
帰る手段を探しているけど、見つからない。
人に相談したいけど、受け入れてもらえるかどうか……。
現実を叩きつけられるたびに、広い宇宙の中で私と桐島くんと萌歌の三人だけが取り残されたような気になる。
もしかしたら、この世界に同じ経験をしている人がいるかもしれないけど、3週間経っても有力な情報が得られないということは稀な出来事だったかもしれない。
そう考えていたら、孤独感に襲われて目頭がカッと熱くなった。
「大丈夫?」
桐島くんは異変に気づいたのか、正面から顔を覗き込んできた。私はうつむいたまま重い口を開かせる。
「……ん、平気」
「俺たちがここに連れてこられたのはきっと意味があると思う。だから、それを一緒に探していこう」
ここに連れてこられた意味……か。
気持ちに余裕がなかったせいでそこまで考えられなかったなぁ。
パラレルワールドが元の世界と並行しているということは、この世界で実在していたもう一人の自分もいるということだよね。
そのもう一人の自分はいま何をしているのかな。私と引き換えに元の世界へ行ってしまったのかな。同じく見たことのない世界に戸惑ってるはずだよね。真実の蓋が一つずつ開かれる度に新たな疑問が浮かび上がってくるよ。
それから私たちは山積みの本を上から読み始めた。スピードアップを図る為にスマホで写真を撮りながら。
集中するあまり、お互い無言のままページを開いていく。もちろん探し求めている情報はなかなか見つからない。参考になりそうな箇所はノートへ書き写していく。
キーンコーンカーンコーン……。
下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。集中していると一日なんてあっという間。私と彼は五冊ずつ本を借りて図書室を出る。
――帰り道。
夕日に包まれながら歩いていると、彼はスラックスのポケットからスマホを取り出して言った。
「おまえとLINE交換したいんだけど」
そう言われた瞬間、胸がドキッとして仰天した目を彼に向ける。
「えっ!! 私と?」
「借りた本の中で少しでも有力な情報があったら共有したいから」
「あ、あははは……。そうだよね。情報共有しなきゃ……だよね」
あまりにも動揺していたせいか、彼は細い目で見下ろす。
「まさか、俺が番号を知りたがっているとでも思った?」
「ちっ、違うよ……。そんな風に思ってないし……」
あの桐島くんとLINE交換するなんて思いもしなかった。
最初は周りの噂ばかり気にして怖い人だと思っていた分、縁のない人だと思っていたけど……。
実際は優しいし力になってくれる。
いままでの私は、一体彼のどこを見ていたんだろう。
「堀内、桐島、ちょっといいかな。二人に大事な話があるんだけど……」
――図書室で調べ物を始めてから2日後。
私たちはいつも通り図書室で調べ物に没頭していると、背後から佐神先生に声をかけられた。
呼ばれたことに驚いたけど、先生が言いたいことはなんとなく察している。
その後、話の場を移すために第二理科室へ。
私たちは一番前の席に向かい合わせに座ると、先生は教卓の前に立った。
「先日は話を聞いてやらなくてごめん。教師として間違ってたよ」
「先生……」
「俺らの話を無視したくせに、いまさらなんだよ」
「桐島くんっっ!!」
「ごめんごめん……。あれからパラレルワールドがやけに気になっていたんだ。もし実在するならどんな世界なんだろうってね。そしたら、昨日司書からパラレルワールドについて調べ物をしてる生徒がいると聞いてすぐに君たちだと思った。熱心に調べていると聞いて何か力になってあげたくてね」
私たちは”先生に気持ちが届いた”と思って互い目を合わせてうんと頷く。
話を聞いてもらえなかった時は絶望的だったけど、また一人協力者が増えると思うだけで心強い。
一人から二人、そして二人から三人。アイデアや情報量が一つでも増えれば、帰る手立ても見つかりやすいだろう。
それから私たちはここへ来た時の状況や、今日までの詳細を伝えていくと……。
「話をまとめると、君たちから見てここがパラレルワールドで、もう一つの世界は左右反転している場所で、君たちはいま帰る手段を探してるということでいいのかな」
「佐神からしたら、俺らがいた世界がパラレルワールドかもしれないけど、自分たちにとっては大切な生まれ故郷なんだ」
「桐島! 先生に向かって呼び捨てはやめなさい」
佐神先生はびしゃりと言いきると、桐島くんはツンと口を尖らせてそっぽを向いた。
「でも、そういうことなのか。……おもしろい。パラレルワールドにますます興味が湧いたよ」
「先生はパラレルワールドについてなにか知ってますか?」
「いや……。実は何も知らないんだ。……ただ、一つだけ宛はある」
「えっ!!」
私と桐島くんは丸くなった目でお互いを見合う。
「確か、知り合いの大学教授がパラレルワールドについて研究していたはず」
「ほほほほ……本当ですか?!」
思わず身を乗り出すくらいの吉報に胸の鼓動が早くなる。
「あはは。どこまで本当のことを知ってるかわからないからあまり期待しない方がいい。僕自身も聞いた時はまともに受け止めなかったし」
「専門的に研究している人の話を聞けるなんて助かるな。有力な情報が得られればいいけど」
「自分たちで調べるのに限界を感じてたくらいだからね。もう無理かなぁ〜って思ってた」
「じゃあ、今晩さっそく教授に電話してみるよ」
「ありがとうございます!!」
「……堀内、もしかしたら元の世界に帰れるかもしれないな」
「うん。諦めなくて良かったぁ〜」
「こらこら、安心するのはまだ早いよ。これからが勝負だからね」
いっときは本当に帰れないのかなって。萌歌と桐島くんと、一生この世界で暮らすのかなって。もう二度と元の世界の父親や友達に会えなくなったらどうしようって思ってた。
でも、一人一人手を重ねる人が増えていくうちに、自分がしていたことに無駄がなかったんだと思うように……。
――佐神先生が大学教授と連絡をとってから2日後。
私と桐島くんと佐神先生の三人は、風祭大学総合科学研究科の石井教授の元を訪れた。
六畳程度の研究室の両壁には専門書と思われる多数の書籍が並んでいる。もちろん大学に来ること自体初めてなので物珍しい目で見ていると、グレーのスーツ姿に白髪交じりの短髪でメガネをかけている石井教授は、私たちの方に向かってきて佐神先生と軽い握手をした。
「石井教授、ご無沙汰してました。お元気でしたか?」
「えぇ、そちらこそお変わりないようで安心しました。お会いするのは4〜5年ぶり以来ですかね。いきなり電話を頂いたのでびっくりしましたよ」
「ご多忙中にすみません。早速ですが、先日電話で伝えた例の件についてお話をお願い出来たらと」
「まずはそちらのソファーへおかけ下さい。話はそれからで……」
「はい。では失礼します」
私達四人は、部屋の中央にあるソファーに腰を落ち着かせる。私は教授の顔に目を向け早速本題へ。
「私とここにいる桐島くんはパラレルワールドからやってきました。ある日の夜、私は妹と喧嘩している最中に鏡に吸い込まれてしまったんです。目を覚ましたらこの世界に来てて……」
先日佐神先生に伝えたことと同じ内容を石井教授へ。
すると、彼はテーブルからペンを拾い上げてメモをとる。
ときより質問を受けながらやりとりが20分ほど続いた後、教授は口を開いた。
「パラレルワールドは元々一つの世界だった。だが、今からおよそ300年ほど前のある日、グリーンフラッシュが原因でこの世界にとんでもない事態が起こってしまったとか」
「グリーンフラッシュ……。なんですか? それ……」
私はゴクリと息を飲んでいると、桐島くんは軽く腰を浮かせながら聞いた。
「グリーンフラッシュとは、日没時に太陽が最後に放つ緑色の閃光のこと。地球の大気中の光線の屈折によるものでプリズム効果によって起こってるもの。それになんらかの異常が重なって時空を歪ませてしまい、一つの世界が二つに分岐されたと伝えられている」
「……なぁんか、ややこしい話だな。俺らはただ異常事態に巻き込まれただけなのに」
「桐島くんっ!!」
「ははっ。理解出来ないのも無理はない。私たちも8年前に研究チームを作って調べている段階だからね。…………それで、君たちは元の世界に帰りたいと」
「はい。帰る手段はあるのでしょうか。インターネットや図書室で調べても有力な情報が見つからなかったので……」
上目遣いでそう言うと、彼は立ち上がって窓の方へ行き外を眺めた。
「……実は一つだけ方法がある」
「えっ、本当ですか?!?!」
「ただ、絶対に帰れるとは約束出来ない。私も人から聞いた話なのでね」
「それでもいいです。ぜひ教えてください!」
いま有力な情報が一つもない私たちにとって、喉から手がでるほど欲しい情報だ。
そのぶん逸る気持ちも抑えきれなくなっている。
「ここから二つ先の九重駅から徒歩15分ほどのところに陽翠湖という小さな湖がある。そこは神様の隠れ家とも言われている神秘的な場所。そこで、20時から5分だけグリーンフラッシュに近い現象が起こる。たった5分間だけ月が緑になるとか。その間、湖に向かって帰りたい気持ちを叫ぶと元の世界に帰れるらしい」
「えっ!! たったそれだけで元の世界に帰れるなんて……」
「簡単にこの世界へ来たように、簡単に帰れると噂で聞いている。……ただし、それは1年に一度で満月の日。幸いにも3日後の15日がちょうどその日。つまり、今日から3日後の20時に陽翠湖でスタンバイしていればいいだろう」
それまで帰宅方法を難しく考えていた私たちは、思わぬ吉報に心震わせた。
しかも、1年に一度の満月の日が3日後だなんて、こんなラッキーなことはないだろう。
――それから10分後。
佐神先生は教授とまだ話があるからと言って研究室で別れ、私たちは大学を出てから歩いて駅の方へ向かった。
貴重な情報を入手したお陰か、大学へ向かっていた時よりもお互い表情が明るい。
「パソコンや本でたくさん調べけど、教授の話を聞いたらなぁんか拍子抜けしたね。あんなに簡単に帰れそうだなんて」
「湖がこの世界からの出口だったなんて信じられないな。まぁ、一番引っかかるのはあの話が人づてだってこと。どうも胡散臭いんだよね〜」
「確かに。でも、もしかしたら本当の出口かもしれないからやってみる価値はあると思うよ」
「まぁな。3日後みたいだし、教授の言うことを信じて試してみっか! ダメだったらまた別の方法を考えればいいし」
いざ帰れるとなると、最近この世界の生活に慣れてきたせいか少しばかし恋しく思う。
何故なら、ここへ来てから大きな障害にぶつかり、次々と心強い仲間に出会えて、それを乗り越えられそうな段階までやってきたのだから。
「桐島くんは元の世界に戻ったら一番に何がしたい?」
「バスケ。思いっきり走っていい汗をかきたい。ここではやる気のない奴らばかりだからまともに参加するヤツがいなくて。……堀内は?」
「……私?」
「うん」
「私はね〜、青春っっ!! 心葉と一緒に原宿行って、流行りの韓国コスメ買って、かわいい洋服買って、美味しいスイーツをいーーっぱい食べて、三井くんにもう一度告白して、恋人になって、デートして……」
元の世界を思い巡らせながらやりたいことを考えていたら、いつしか瞳から頬に流れた雫が地面に一直線に向かっていた。
楽しかった思い出が溢れんばかりに蘇ってきた途端、我慢が限界を迎えていたらしい。
彼はそれに気づいたようで心配そうに顔を覗き込む。
「……もしかして、泣いてんの?」
「あはは……。情けないよね。元の世界にこんなに執着してたなんて。『嫌だ』『一刻でも早くここから抜け出したい』。パラレルワールドに来た当初はそんなことばかり考えてたのに、生活していくうちに想像以上に愛着が湧いてたんだなって思ったら勝手に涙が浮かび上がってきたよ」
濡らした頬を手の甲でゴシゴシしてると、彼は私の頭上に手をのせて髪をぐしゃぐしゃと強く撫でた。
そのせいで、肩までの短い髪が開いた傘のように。
「そーゆーの、らしくねぇから……」
「ふ……ふぇっ?」
「元の世界に帰ったらいまよりも数百倍以上の幸せが待ってんのに、自分で足を引っ張り続けてもしゃーねぇだろ」
「そうだけど……」
「辛かった日も、努力してきた日も、困難を乗り越えた日も、振り返った時に全部最高の思い出になってると思うよ。だから、いまは前だけ向いてりゃいーの!」
そう言ってニコッと微笑む彼の笑顔は太陽のように温かい。
そうだよね。
いまは帰る為に必死に頑張ってるのに、気持ちを後ろ向きにしちゃだめだよね。
「ありがとう。ここへ一緒に来たのが桐島くんで良かった。私一人じゃ何も出来なかったと思うし……」
「俺も。お前がいなかったら自分に甘えてこの世界に残る気だった。……お前には感謝してる」
もし、この世界に桐島くんがいなかったら、今日という日を迎えられなかっただろう。
見えない出口を一人で探して落ち込んでいたはず。
もしかしたら、この世界に取り残されたまま生涯を終えていたのかもしれない。
「ねぇ、一つ気になることを言ってもいい?」
「なに?」
「私たちがパラレルワールドにいる間は、もう一人の自分が元の世界に送り込まれたってことだよね」
「入れ替わってる可能性は大だな」
「もしそうなら、もう一人の自分はいまどんな日常生活を送ってるんだろう。やっぱり慣れない生活に混乱しているかなぁ」
この世界に来た時は、周りの人たちの性格が真逆だったからすごく驚いた。
心葉が別人のように冷たくなっていたし、いつもぼっちな萌歌に話しかけているクラスの女子もいた。
だから、もう一人の自分が向こうの世界でどうやって生活しているのかがずっと気になっている。
「必ずしも幸せになってるとは限らないし……」
「私たちのように元の世界に帰りたいって思ってるかな」
「どうだろ。でも、俺たちが元の世界に戻ったら強制的に戻されるんだろうな、きっと」
「その間の記憶は残ると思う?」
「実際に帰ってみないとわからないね」
もう一人の自分に巻き添えを食らわしてしまって申し訳ないと思う反面、少しだけ感謝している。
何故ならここへ来てからの出来事が自分にとってプラス方面に働いていたから。
駅に到着すると、急にあることを思い出して全身に冷や汗が湧く。
「あっっ!!」
「なに、急に大きな声を出して」
「学校に忘れ物してきちゃったのをいま思い出したよ! 急いでたから机の中を確認するのを忘れてたぁ!」
「なに忘れたの?」
「英語の教科書! 明日小テストだから取りに戻るね」
「うん。じゃあ、ここで」
私たちは駅の改札でバイバイして、お互い逆方面のホームに向かって電車に乗った。
――下校時刻が間近に迫っていた頃に学校に到着。
運動部の練習の声が響き渡る中、校庭の隅に目を向けると萌歌が所属しているダンス部が練習している。
部員は20人程度。
萌歌も他の部員と息を揃えてダンスに励んでいる。
早速、石井教授に聞いてきたばかりの話を伝えようと思い、ダンス部の輪へ向かった。
練習が一段落した頃、輪から外れてタオルで汗を拭き始めた萌歌の元へ。
「萌歌、お疲れ様〜! あのね、ビッグニュースがあるの!」
「……なに、そのビッグニュースって」
「パラレルワールドから帰れる方法が見つかったよ! 佐神先生の知り合いの大学教授がパラレルワールドの研究をしていたから、さっき話を聞きに行ってきたんだ! それがね、思ったよりも簡単だったんだよ」
やっとの思いで入手した情報。
心踊らせていたせいもあって、思い一つのまま彼女に伝えるが……。
「あたしは帰らないよ。この世界で生きていくと決めたの」
だが、彼女は表情一つ変えぬまま下ろしていた髪を両手で束ねてハート型のクリップで留めながら言う。
「でも、ようやく帰る方法を見つけたんだよ? ここまでたどり着くのにどれだけの時間がかかったか……」
「そんなの知らない」
「えっ……」
「帰るなら勝手に帰ればいいじゃない。あたしはここでやりたいことを実現させる」
「なに言ってんの……。今回のチャンスを逃したら次は1年後になっちゃうよ。チャンスは1年に一度しかないから……。それでもいいの?」
「あたしはそんなことに費やしてる時間はないの。この1分1秒だって惜しいくらい練習に時間を費やしたいのに」
「そんなの向こうの世界に戻ってからやればいいじゃない。向こうとは並行世界なんだからさ」
そう言った瞬間、萌歌の動きが止まってギロリと睨みつけてきた。
そこで失言をしてしまったことに気づいて口元に手を当てる。
「『そんなの』って……、何様のつもり? 夢を軽くあしらわないでよ。あたしにとっては一生を左右するくらい大事な夢なの」
「ごめん、そーゆーつもりじゃ……」
すかさず誤解を解こうとしていると、「萌歌ーーっ、なにやってんの? そろそろ練習始めるよ」と背後から気だるそうに呼びかける女性の声が届く。
声の方に目を向けると、ダンス部の仲間三人がこっちを見ている。
萌歌は「うん、わかった。すぐ行く」と仲間の方を見てそう伝えると、再び私に目線を置く。
「話は終わり。もう帰ってくれない? 練習の邪魔なんだけど」
「萌歌……」
「勝手なことを言うけど、元の世界に戻った時にオーディションの話がなかったらどう責任をとってくれるの?」
「並行世界だからその話は残ってるかもしれないじゃない」
「じゃあ、もし残ってなかったら?」
「それは……」
「あたしの気持ちなんて誰にもわかんない。あんたが思ってる以上に本気なの。絶対にこのオーディションに勝ち抜いてDATTYの一員になってやるんだからっ!!」
彼女は怒鳴りつけるように吐き捨てると仲間の元へ向かう。
私は彼女の言葉をこだまさせたままその様子を目で追った。
自分が間違っていたのだろうか……。
二人同時に別の世界からやってきたから帰る時も一緒だと思っていた。
でも、彼女は彼女で、この世界で目標を持って前向きに取り組んでいる。
そして、萌歌たちのグループ練習が始まった。
生き生きしている表情にキレのあるダンス。
普段とはまるで別人のようにキラキラと輝いていて、ここが自分の居場所なんだと言わんばかりに振る舞っている。
『あんたが思ってる以上に本気なの。絶対にこのオーディションに勝ち抜いてDATTYの一員になってやるんだからっっ!!』
この言葉が弾丸のように胸の中を貫通していく。
私は萌歌が苦手だ。
口は悪いし、冷たく当たってくるし、一方的な気持ちを叩きつけてくるから。
でも、やりたいことに全力で没頭してる姿を見ていたら、自分の気持ちにブレーキがかかってしまう。
――夜20時。
萌歌の件でもやもやしていた私は、自宅のベッドに転がりながら桐島くんに電話をかけた。
以前なら心葉に悩みごとを吐いていたけど、いま一番に頼れるのは彼しかいない。
「もしもし、桐島くん?」
『どした?』
「うん、あのね…………。私、正解がわからなくて……」
『正解って? 一体、何の話?』
「さっき、萌歌にパラレルワールドから帰る方法が見つかったと伝えたら、『この世界で生きていく』って言われたの。萌歌にとって大事なオーディションがあるからって。私はこの世界の人間じゃないから、一緒に帰ったほうがいいと思うんだけど……」
パラレルワールドへ来てから、一度も帰る姿勢を見せない萌歌。
目前に夢が迫っているせいか、この世界での活躍を夢見ている。
私には彼女のように没頭できる夢がない。
だから気持ちがわからないのかもしれないけど、元の世界で生まれた頃から経験してきたことは何よりも代えがたい宝物だと思っている。
『堀内はそう思うかもしれないけど、もし世界が並行してるならこのままでもいいんじゃない?』
「どうして? 元々はこの世界の人間じゃないのに」
『確かにそうかもしれないけど、元は一つの世界だった。ここは全てが逆だから不便を感じることが多いかもしれないけど、それ意外は同じだから自分で選ばせてやってもいいんじゃないかな」
「でも、元の世界に送り込まれた萌歌もきっといるだろうし……」
『もし存在したとしても、向こうの世界の萌歌もここに戻りたいと思ってるかわからないよ』
「えっ」
『堀内が向き合ってるのはこの世界にいる萌歌だから、本人の気持ちを大事にしてやってもいいんじゃない?』
説得をされても首を縦に振ることが出来なかった。
確かに彼が言うことは正解かもしれない。
萌歌の幸せがここで得られる可能性があるのだから。
でも、生まれ故郷はここじゃないから、身を置き去りにしてしまうのはどうも納得がいかない。