家にいる時間はあっという間に過ぎる。家事の合間に雑誌を眺めたりスマホをいじくったりしているうちにもう七時だ。

久しぶりに机の引き出しを開けると、お店に並べられるくらいの数のミサンガがあった。ミサンガの色には意味があるみたいだけど、私は碧人の好きな色を選んだ。

赤色と青色、黄色の刺しゅう糸で作ったミサンガは、長さもデザインもバラバラ。いちばんうまくできたと思えたものをプレゼントした。

まだつけてくれていることがうれしくて、そのぶん、冷たい反応をしたことが悔やまれる。

「しょうがないよね……」

ベランダに出ると、まだ冷たい四月の風がほてった頬 を冷やしてくれた。

七階にあるここからは、空が大きく見える。手すりに手を置いて夜の空を眺めれば、月がその存在をやっと主張している。

昼間は薄く、夜間は銀色の光をふらせる月。

月はまるで私のよう。学校では想いを隠し、ひとりになってから碧人のことばかり考える私にそっくり。

同じように碧人も月に似ている。冷たさとやさしさを持ち合わせる碧人は、現れたり消えたりする真昼の月のよう。

部活、休んでるって言ってたよね……。

足を痛めて以来、練習はできても試合には出られなくなったと聞いている。ケガのせいでスポーツ科から普通科へ変更した生徒もいるそうだ。

碧人もそうなるのかな……。

サラサラと光をふらせている月は、はるか彼方の空に浮かんでいる。決して近づくことができない距離に、またさみしくなった。

碧人を好きな気持ちを消してしまいたい。そうすれば 、昔みたいに冗談を言い合えるのに。

青い月について深追いしなければ、 、碧人への気持ちにも気づかないままだったかもしれない。

『青色の月が輝く日、黒猫がふたりを使者のもとへと導く。青い光のなかで手を握り合えば、永遠のしあわせがふたりに訪れる』

なぜあの日、伝説に登場する恋人たちと自分たちを重ねてしまったのだろう。

あの絵本の物語は、結ばれない運命を変えようと、恋人同士が月の神様に願いをこめるというもの。私と碧人はただの幼なじみ。そもそもの関係性が違っている。

あきらめよう。あきらめなくちゃ。あきらめろ。

これまで何度も、何百回も言い聞かせてきた。だけど、無理だった。

「ああ、もう……」

モヤモヤする感情を見たくなくて、リビングに戻る。そろそろお母さんが帰宅する時間だ。

夕食の準備はたいてい私がしている。簡単な物しか作れないけれど、以前に比べたら少しは腕もあがっているだろう。

カギを開ける音がした数秒後、

「ただいま!」

と元気よくお母さんがリビングに飛びこんできた。

「お帰り。お疲れさま」

ちょうど炊飯器がピーと鳴って炊きあがりを知らせた。十分ほど蒸らし たら完成だ。

一秒でも早くスーツから解き放たれよう と、お母さんが上着を脱ぎながら自分の部屋へ向かった。

「もう聞いてよ。今日のお客さん、すごく大変だったの。どうしても今日契約したい、って言うから調整したのに、行ったら留守なんだもん。電話したら『急な用事でムリになった』、って。なのに、『夕方にまた来て』って言われたのよ」

開けっぱなしのドアからいつもの報告をはじめている。

味噌汁(みそしる)の入った鍋に火をかけながら、 食器を準備する。

「ね、聞いてる?」

トレーナーに着替えたお母さんが戻って来た。

「聞いてるよ。大変なお客さんだったんでしょ?」

「そうなのよ」

と、テーブルに座るお母さん。小柄のせいもあり四十五歳にしては若く見える。

私が五歳のときに、お父さんは病気で亡くなってしまった。悲しかった記憶はあるけれど、ふたりでいる時間のほうが長くなり、今ではもともとふたり暮らしだった気さえしている。

入っていた(だん)(しん)保険のおかげでマンションのローンも免除されたそうだ。お母さんは独身時代に勤務していた保険会社に戻り、今では営業部の課長にまで昇進している。

冷蔵庫から缶ビールを取り出して渡すと、お母さんは待ちきれない様子で一気に飲んだ。

「ああ、おいしい!」

感情のこもった声をあげている。

今日は時間があったので、豚の角煮を作った。あとは高野豆腐と味噌汁、昨夜の残りのきんぴらごぼう。

食材はネットスーパーでお母さんに買ってもらい、二日に一度宅配ボックスに届くようになっている。たまに足りないものがあるときは、学校の帰り にスーパーに寄るようにしている。

席につき食べはじめると、ここからがお母さんの()()大会の本格的なはじまり。

今日はさっきのお客さんのこと、来週から販売開始される保険商品が複雑極まりないこと、上司にイヤミを言われたことなど。

お腹にたまった一日のモヤモヤを吐き出したあと、お母さんはやっと呪いが解けたかのように穏やかな顔で「で」と首をかしげた。

「実月のほうはどうだったの? 新しい校舎は快適?」

「想像以上に快適。クーラーもついてるし、廊下も広いし。でも、チャイムは鳴らさないんだって。冗談かと思ってたら本当だった」

「遅刻しないように早く登校しなくちゃね。やっぱりお母さんが家を出るときに起こそうか?」

これまでも(いく)()となく提案されてきたことだ。出勤時間の早いお母さんに合わせるのは勘弁、と断ってきた。でも、夏には本格的に介護の実習もはじまるし……。

「一度でも遅刻しそうになったらお願いするね」

「じゃあ、きっとすぐのことね」

ひょいと角煮を口に放りこむお母さん。

その予想は当たるだろう。朝が極端に弱いせいで、これまで何度も遅刻しかけている。

小学生まではマンションのロビーに集合し集団登校をしていた。当時から私は遅れがちで、毎朝のように碧人が部屋まで迎えに来てくれた。メンバーはどんどん減っていったけれど、碧人だけは根気よく部屋のチャイムを連打してくれた。

あのころがいちばん楽しかったな……。当時はそのことに気づかなかったし、気づいたからってなにも変わらなかっただろう。

碧人が『学校で話しかけないでほしい』と言った理由は、『クラスのヤツらに勘違いされるから』だった。

話せなくなることよりも、そう思われたくない間柄だということがもっと悲しかった。

「どうしたの、ぼんやりして」

お母さんの声にハッと我に返り、慌ててお茶を飲んでごまかした。でも鋭いお母さんにウソをつくのは不可能だということを私は知っている。

「昔みたいにみんなで登校できればいいな、って。ほら、昔はみんなで集団登校してたじゃん」

「みんな高校も違うし、出発時間もバラバラなんだからムリでしょ」

「碧人は同じ高校だし」
 
同じ高校を目指したのは偶然じゃない。碧人が推薦入試で合格したと知り、介護の資格を取りたかったこともあり、同じ高校を受験することにした。私の合格を知った碧人は、まるで自分のことのようによろこんでくれて――。

「いけない!」

思い出の上映は、お母さんの声に遮断された。

小野田(おのだ)さんに保険の資料を持ってきて、って頼まれていたのに届けるの忘れてたわ!」

小野田さんはこのマンションの管理人さんだ。年齢は六十四歳。私が生まれたとき から管理人をしていて、物心がついたときから『美代子(みよこ)さん』と下の名前で呼んでいた。

若くしてご主人を亡くしてから、ずっとこの仕事をしているそうだ。

「とっくに仕事が終わって家に帰ってるんじゃない?」

美代子さんの勤務は夕方までだから、そもそも間に合わなかっただろう。長男夫婦と同居しているらしく、『孫の世話まで押しつけられて大変なのよ』と、言葉とは裏腹にうれしそうに話していた。

「明日になったら忘れちゃうから、今のうちに管理人用のポストに入れてくるわ」

嵐のように駆けて行くお母さんを見送ってからため息。

ひとりになると、すぐに碧人のことを考えてしまう。

今ごろ碧人はなにをしているんだろう。

私のことを少しでも考えてくれているとうれしいな……。