作戦の実行はすみやかに、かつ、大胆に。

午後からの奈良観光では、事前に決めたルートどおりに最初は動く。

奈良の大仏、春日(かすが)大社(たいしゃ)を見学したあと、電車で(へい)(じょう)(きゅう)跡へ。奈良駅に戻り、商店街で買い物をしてから最後はならまちの散策。

最初の大仏殿に入る前に、小早川さんが再び体調不良になったことにする。先生への連絡は、私たちがいないことがバレたときに『今、電話するところでした』と、梨央奈が演技をすることに。

ホテルに戻らないと怪しまれるので、バレたという連絡がきた時点で終了だ。

「雨が降りそうじゃない?」

大仏殿の前で梨央奈が空をにらんだ。

「ほんとに月なんて出てるの?」

やっぱり梨央奈と葉菜には、見えていないみたい。昨日よりも濃い月が、雲の間で存在感を増している。

「出てるよ。前は雨が降ってても月が出てたし」

経験者である葉菜が言った。

ふたりにはさっき、奈良でも幽霊に会わなくちゃいけないことを話してある。葉菜は納得してくれたけれど、幽霊を信じない梨央奈は渋々同意してくれた感じ。

「バレたらすぐに電話するけど、そっちも目立たないようにやってよ。あと、これサンキュ」

大仏殿の入場券をヒラヒラとふる梨央奈。協力金として私と小早川さんでふたりに買ってあげたものだ。ちゃっかりしてる。

「うまくいくといいね。小早川さんもがんばって」

葉菜の言葉に、小早川さんは消え入りそうな声で「はい」と答えてからあたりを見渡した。

「ナイトさんはどこへ行かれたのでしょう?」

今朝からナイトの姿が見えないことを心配しているみたい。

「たぶん伝えたいことは伝えたから、あとは現地で待ってるつもりじゃないかな」

斜め前の上空で雲の切れ間から月が顔を出している。ここからそう遠くはなさそうに思える。

ふたりに別れを告げて歩きだす。先生に声をかけられたら、とりあえずトイレに行くところだったことにしよう。

観光客が川の流れのように大仏殿へ向かっている。エサをもらおうと、鹿が右へ左へ歩いている。

「これから幽霊に会いに行くなんて、誰も思わないよね」

「ですね。自分でもまだ信じられません」

神妙な顔でそう言ったあと、小早川さんがチラッと私に顔を向けた。

「でも、不思議です。幽霊はたくさんいるのに、どうして毎回ひとりだけが対象なのでしょうか?」

「小早川さん、今も視えているの?」

小早川さんは小さくうなずくと、広い車道を指さした。

「あそこにモヤみたいな影が。そして、あっちには……」

と、今度は横断歩道を指す。

「子どもの霊が視えます。パッと見た感じだと生きている人間と相違ありませんが、体の輪郭がぼやけているので幽霊だとわかります。強い思い 残しがあるのでしょうね」

たくさんの幽霊が視えてしまうなんて、きっとつらいこと。

「大変だったんだね。私も前までは幽霊なんて信じてなかったけど今は違う。葉菜だって同じ。もう、ひとりぼっちじゃないよ」

とにかく使者として四組を引き合わせればいいのだから。

「ありがとう。実月さんは――あ、空野さんはあとふたりですもんね」

「実月って呼び捨てでいいよ。私も、下の名前で呼んでいい?」

「あ、はい……」

モジモジと体をすぼめる彼女に、

「瞳」

と呼んでみた。

ビクンと体を震わせたあと、小早川さんが、

「……実月」

とささやくように言ってくれた。

「ふふ。なんか楽しくなってきちゃった」

「私も」

リンゴみたいに顔を真っ赤にする瞳に、胸がキュンキュンしてしまう。

苦手な人でも、話をするとわかり合えることがある。幽霊との出会いによって、教えてもらった気分だ。

碧人との距離が離れた今、友だちと呼べる人が増えたことが心強い。いつか、私の恋について話せる日が来るといいな……。

「あれ?」

思わず足を止めていた。

「いけない。碧人に言うの忘れてた」

使者になることが、どう定義されているのかはわからないけれど、四回使者になれば 、碧人にだって幽霊が見えなくなる。

でも、スマホのない碧人と連絡を取るのは難しい。碧人も青い月に気づいているだろうから、きっと来てくれるよね……。

「碧人さんって、スポーツ科の生徒ですよね?」

「幼なじみでね、青い月は最初、碧人とふたりで発見したの。碧人も一回は使者として……あれはどうなんだろう? 回数 に数えてもらえるのかな……」

「碧人さんと一緒にナイトに聞いてみてはどうでしょうか?」

「そうなんだけどね……」

碧人のことを考えると、胸に温度が(とも)る。顔を見ればうれしくて勝手に笑顔になる。そして、そのあとはさみしくなる。

もう三年間も同じ感情をくり返している。

「碧人さんのことが好きなんですよね?」

「まさか」

以前はこういう質問をよくされた。そのたびに自然に心外な顔を作れている。

「ただの幼なじみ。それ以上でもそれ以下でもないし」

ウソだ、と指摘するように頭がズキンと痛みを覚えた。

あきらめようと決めても、思ったとおりにはいかない。心についたウソが、体にまで影響を及ぼしているような気分だ。

「そういうの、私にはよくわかりません。でも、実月さん――実月のこと、応援します」

「だから、そういう関係じゃないって」

頭痛をふり切るように足早に歩くと、青い月はもうほとんど真上にあった。

「え、ここって……」

見覚えのある景色に戸惑う。

なだらかな坂に見覚えがある。昨日、山本さんと散歩をしたならまちだ。

「ここなら、ふたりともあとで合流できますね」

前髪をかきわけ、瞳は周りを観察している。そして、坂道の先で視点を止めた。

「あの、碧人さん……」

またその話? いぶかしげに前方に目を向けて驚いた。

ポケットに両手を突っこんだ碧人が、こっちに向かって歩いてくるのが見えた。

「おふたりでいるところを何度か見ました。あの人、碧人さんですよね?」

「……うん」

碧人は私たちの前に来ると、

「よう」

と、いつものように挨拶をしてから、瞳に目を向けた。

「あの……こんばん――こんにちは。小早川です」

ペコリと頭を下げ、瞳は私のうしろに隠れてしまった。

「初めまして。碧人って言います」

興味深げに瞳を見ていた碧人が、やっと私に視線を合わせてくれた。

「まさか旅先で青い月を見てしまうなんて。まあ、観光とか興味がないからいいけど」

「抜けてきたの?」

「そっちこそ。体調不良って作戦だろ?」

「まあね」

「考えることは同じってことか」

苦笑する碧人。旅行中、あまり会えなかったから素直にうれしくなる。

「あ、そうだ。新しいことがわかったの。使者を四回やれば、役目が終わるんだって。ね?」

瞳に同意を求めたけれど、見知らぬ男子が怖いらしくうしろで震えている。

「何回でもいいけど。こういうの楽しいし」

ポリポリと頬をかく碧人に、胸がズキンと音を立てた。

「幽霊が怖いくせに」

気づかれないように強い口調で言えば、もっと胸が痛くなる。

「ないない。ちょっと、ビビっただけ。それより、小早川さんも使者ってこと?」

「はうっ」

うしろでヘンな声がした。

「瞳は霊感が強いの。昔から幽霊が視えていたんだって」

代わりに答えると、うしろでブンブンと首を縦にふっている。

「幽霊が視える? それって本当に?」

「……視えます。はっきり視えるんです」

首だけひょいと出した瞳が、すぐにまた隠れた。

「それじゃあ大変だ。じゃあ、今回はふたりに譲ることにしよう」

「別に何人でやってもいいでしょ」

「じゃあ、案内するところまで協力することにしよう。それだって一ポイントもらえるはずだし」

そう言うと、碧人はさっさと前を歩いていく。

坂道の先に、神社の鳥居が見えた。赤色がほとんど()げてしまっていて、奥に見える本殿は鳥居の大きさに反し、かなり小さい。

「たくさん幽霊がいるはずなんだけど、どうしてひとりだけの案内をするんだと思う?」

うしろから尋ねると、碧人は「へ?」とふり向いた。

「学校の関係者の霊だからじゃないの? 俺、てっきりそう思ってた」

「関係者? でもここ、奈良だよ?」

「わかってるよ」

あ、機嫌を悪くしたかも。そう思った次の瞬間、ふり向いた顔が笑っていたのでホッとした。

「おそらくこのあたりで亡くなった人はこの神社に来るのかも。そのなかに、俺たちの高校に関係している霊がいるんじゃないかな」

そのときだった。

――ガラガラ。

空気を震わすような鈴の音が聞こえた。碧人と瞳がハッと音のしたほうへ顔を向けた。

本殿につけられている鈴の音だと気づくのと同時に、これがチャイムの代わりだとわかった。

鳥居の下に誰かが立っている。制服を着ている女子生徒に見えるけれど、私たちとは違いセーラー服姿だ。

ここからでも輪郭がぼやけているのがわかる。

「どうしよう……」

瞳が制服の背中をギュッと握った。

見ると、さっきよりも青い顔でガタガタと震えている。

「たくさん、います。鳥居の向こうにたくさん……」

「え? あ、そうか……。瞳はほかの幽霊も視えてるんだね?」

「私、ムリです。怖くて……」

足を止めた瞳が、足を踏ん張り動かなくなってしまった。

「俺が呼んでくるから待ってて」

そう言うと、碧人はダッシュで鳥居に駆けて行く。

私はここにいたほうがいいだろう。

「瞳、大丈夫? ちょっと座る?」

「これ以上近づかなければ大丈夫です。碧人さんに申し訳ないことをしました」

「ああ言いながら、本人もけっこう怖がってるからね」

シュンとする瞳の肩を抱いた。

「……いい人ですね、碧人さん」

「だね」

今、『好きか』と尋ねられたら、うなずいてしまっていただろう。碧人は鳥居の下にいる女子生徒に声をかけている。

少し緊張しているのだろう、表情も声も硬いのが伝わってくる。

「にゃん」

いつの間に現れたのか、足元にナイトがいた。

「やっぱり来た。今回は三人で一回ぶんだからね」

澄ました顔で神社に目を向け、ナイトはあくびをしている。

聞いてるんだか聞いていないんだか……。

「なあ」と、碧人が戻ってくると、私ではなくナイトに目を向けた。

佳代(かよ)さん、神社から出られないんだって。なんとかなる?」

旧校舎から出られないように、あの幽霊も神社に閉じこめられているのだろう。しっぽをアンテナのように立てたナイトが鳥居に向かって歩いて行った。

「あの子、佳代さんって言うの?」

「そう言ってた。もう二十年以上もの間、あそこに立ってるんだって」

「え……二十年も?」

碧人は腕を組み神妙な顔でうなずいた。

「正確な年数は覚えてないんだって。で、佳代さんもやっぱり同じ高校だった。うち、制服変わったんだろうな」

そんな長い期間、あの場所に居続けていたなんて想像もできない。よほど強い思い残しがあるのだろう。

ナイトが佳代さんの前にちょこんと座るのが見えた。

「不思議な猫ですね。霊感のない人にまで見えるのは珍しいです」

瞳がつぶやいた。顔色が少し戻っているのがわかる。

「私たちが四回やり切れば、また誰かを探すんだろうね」

「実月、自分の使命が終わっても助けてくれますか?」

「もちろん」

そう答えると、瞳は胸をなでおろした。

ナイトと一緒に女子生徒が歩いてきた。細い髪は茶髪で、日に焼けた肌と同じ色のファンデでメイクをしている。眉は見たことがない
ほど細い……。

よく見ると、セーラー服のスカートも短くカットしているみたい。

「なんか連れ出してもらって悪いね。てか、マジで行動範囲狭過ぎて激ヤバだったよ」

想像していたより何倍も元気な佳代さんに、ギョッとしてしまい自己紹介が遅れた。

「初めまして。二年生の空野実月と申します。こちらが、小早川瞳さんです」

「おっつー。みっちゃんとひとみんだね。あたしのことは、かよっぺって呼んで」

「かよっぺ……、じゃあ、佳代さんで」

「普通過ぎ。ウケるんですけど」

手をパンパンとたたく佳代さん。さっきからペースを狂わされっぱなしだ。

「てかさ」と、佳代さんが顔を至近距離まで詰めてきた。

「ふたりともほとんど盛れてないじゃん。そんなんじゃ『コギャル』とは呼べないよ」

そっか、とようやく納得した。二十年くらい前にはこういう格好が()()っていたと聞いたことがある。

「そういうあたしもこの格好はダメダメ。修学旅行にこれから出かけるってときに、ママにルーズソックス取りあげられちゃってさ。エムケーファイブって感じ」

「エムケーファイブ?」

「『マジでキレる五秒前』の頭文字だよ。え、もう使ってないってやつ?」

キャハハと笑ったあと、佳代さんは改めて私の全身をなめ回すように見た。

「ま、どっちにしても、その格好はイケてないよ」

「それより、佳代さんの会いたい人について――」

「せっかくだからショッピングでもしない? あたしがコギャルメイクを教えてあげる」

話を聞かない佳代さんに、次の言葉が出てこない。

「メイクなんてどうでもいいんだよ」

碧人が不機嫌そうに言った。

「は? なにそれ」

「実月みたいなのがかわいいってこと」

そう言ってから、碧人は「いや」と口ごもった。

「今の時代は、っていう意味で」

言い直さなくてもわかってるよ。ぶすっとする私に、佳代さんは一瞬真顔になったけれど、すぐにヘラッと笑った。

「そっかー。二十年以上前のことだもんね。時代も変わるってやつか」

私たちは、自分の気持ちが表に出ないように心にもメイクをする。なんでもないようなフリをして、ひとりになると孤独に震えている。でも、実際には誰かがそばにいてくれることが多い。

佳代さんはずっとひとりだった。長い間、あの神社から出られずに孤独に耐えてきたんだ……。

「あの」と瞳が思い切ったように顔をあげた。

「かよっぺさんの会いたい人は誰なんですか?」

真面目な瞳は、本人希望のあだ名で呼ぶことにしたらしい。

「あたし? どうだろう、忘れちゃった」

「ご両親でしょうか?」

「パパとママには会ったよ。死んじゃったあと、葬式には行けたんだよ。ママなんて号泣しててさ、普段は冷たい兄貴も生意気な妹もワンワン泣いてた。友だちなんてせっかくのメイクがと れちゃうくらいに……」

思い出すように遠くを見つめたあと、佳代さんはニッと笑った。

「でも、気づいたら奈良に戻されてたわけ。最初は事故現場のそばに立っててさ、大声で『マジで!』って叫んだもん」

佳代さんは交通事故で亡くなったのだろうか?

話すたびに輪郭がかげろうのように揺れている。

「しばらくはいろんな人に声をかけまくったけど、透明人間になっちゃったみたいで、自分が死んだことに気づかなかったくらい」

壮絶な話を、佳代さんは笑いながら言っている。

なにも言えずに碧人と顔を見合わせた。

佳代さんが、風を読むようにじっと宙を見つめた。

「この神社に来てからは穏やかな気持ちなんだ。神様なんて信じてなかったけど、いるのかもって。そのうち会いたい人が来てくれる気がしてた。でも、もうそんなに時間が経っていたなんてね」

ナイトがなにか言いたげに私を見てくる。わかってるよ、使者としての使命を果たせって言いたいんでしょ。

「会いたい人を教えてもらえれば、探しますから」

「ムリだって。二十年以上も経ってんだよ? 今さらなんて言って連れてくるの? ここが奈良ってこと忘れちゃった?」

「できる限りがんばります」

力をこめて言うと、佳代さんは()()されたように表情を曇らせた。

「あたし、その人にめっちゃ迷惑かけてたんだよ。会いたくない、って言われるに決まってる」

「そんなのわからないじゃないですか」

「わかるんだって」

プイと佳代さんは横を向いてしまった。

「嫌われてることがわからないほどバカじゃない。まあ、あたしが冷たい態度を取ってたからなんだけどね。だから――なにもできないんだよ」

うなだれる佳代さんを見て確信した。

「じゃあ、会いたくないって言われましょう」

「は?」

「そうしないとこれから先もずっとこのままです。私が佳代さんの気持ちを代弁します。だから、ちゃんと伝えましょう」

「あの……」瞳が私の背中から顔だけ出した。

「私も協力します。かよっぺさんの気持ちを伝えます」

「そうですよ。碧人も入れた私たち三人で――」

「うえっ!」

なにか喉に詰まったような声をあげた碧人。見ると、驚いた顔で口をあんぐりと開けている。視線は坂の下に向かっていて――。

「ごめん。俺、先に行くわ」

そう言うなり、碧人は脇道へダッシュした。

いきなりの展開になにも言えなかった。

碧人が見ていたほうへ目を向けると、坂道をのぼってくる女性がいる。芳賀先生だとわかるのと同時に、瞳がアワアワとしだした。

佳代さんが「誰よ」と言ったあと、その瞳を徐々に大きくした。

「ひょっとして……ガハ子?」

「え……芳賀先生のこと知ってるんですか?」

そう尋ねると同時に、佳代さんの姿は煙のように消えてしまった。

「ちょっと」と不機嫌そうに芳賀先生が近づいてきた。

「あんたたち、グループを抜け出したんだってね」

「……え?」

「とぼけてもムダよ。七瀬さんと葉菜さんがふたりでコソコソしてたから声をかけたの。冷や汗をかきながら言い訳をしてたけど、私はごまかされないわよ」

「それは、違うんです。ね?」

同意を求めたのに、すでに罪を白状した人みたいに瞳はうなだれてしまっている。

「葉菜さんが()(ちょう)(めん)な性格だということを忘れてたわね。ノートに抜け出す計画についてまとめてあったわよ」

腕を組んだ芳賀先生が、「さあ」と私たちを交互に見た。

「すべて白状してもらいましょうか。時間はたっぷりあるわよ」

どうやらぜんぶバレてしまったらしい。でも、さっきの佳代さんの様子のほうが気になる。もう一度あたりを見回しても、佳代さんの姿はなかった。

あ、碧人が電柱の陰からこっちを見ている。両手を合わせて私を拝んだあと、奈良駅のほうへ駆けて行った。

「あの、先生」

「言い訳はけっこう。そもそも、あの計画、なによ。『青い月』とかわけのわからないことが書いてあったんだけど」

没収してきたのだろう、ノートにはほかにも『幽霊』『使者』などの単語が並んでいる。

「先生は、二十年くらい前ってもう教師をしていたんですよね?」

「話を逸らさない」

ダメだ。ぜんぜん聞く耳を持ってくれない。

困っていると、意を決したように瞳が一歩前に出た。

「かよっぺさん……」

「え?」

「芳賀先生は、かよっぺさんをご存じですか?」

時間が止まったかのように、芳賀先生は口を開けたまま固まってしまった。

私も思い切って口を開く。

「佳代さんという人です。修学旅行で来たと言っていたので、私たちと同じ二年生だと思います」

やっぱり先生は知ってるんだ、と思った次の瞬間、芳賀先生が眉を()りあげたからギョッとした。

「生徒の幽霊を見にここに来たってこと? ふたりとも、そんな子だったわけ⁉」

「ちが……」

迫力に気圧され、瞳は私のうしろに隠れてしまった。

「誰かに彼女のことを聞いたのね。信じられないわ! そういえば、空野さん、旧校舎にも行ったりしてたわよね。あれもまさか、幽霊のウワサを聞いたの?」

「違います。そうじゃなくって……」

「とにかくホテルに戻るわよ。場合によっては、処分の対象となるから」

視線を感じてそっちを見ると、隣に佳代さんが立っていた。懐かしそうに目を細めている。

「生きてるときのクセで逃げちゃった。ガハ子、まだ教師やってたんだ。チョーウケるんですけど」

手をたたいて笑い転げている。

「佳代さん!」

名前を呼んだけれど、「はあ⁉」と、反応したのは芳賀先生のほう。

「あなたはまだそんなことを……」

「違います。佳代さんがここにいるんです」

同じ言葉でしか反論できない私の腕を、先生はグイと引っ張った。

「いい加減にしなさい!」

「懐かしい。そうやってあたしもよく叱られたよ」
 
佳代さんが声のトーンを落とした。

「教師になって、初めて担任を持ったのがあたしのクラスだったんだよ。昔は紺のスーツに黒いメガネだったのに、なによその格好。ジャージなんてありえない」

「教えてください。初めて担任を持ったのが佳代さんのクラスだったんですね」

「な……なに言ってるのよ! いい加減にしなさい!」

腕を引っ張る力が少し弱まった。瞳が私のお腹に手を回し、うしろから引っ張る。

「あの」と背中から声が聞こえた。

「かよっぺさんが言っています。紺色のスーツに黒いメガネだったって!」

これまででいちばん大きな声で、瞳が叫んだ。

「え……」

急に手を離され、ひっくり返りそうになった。私たちの真上に青い月が浮かんでいる。

「まさか、本当に……?」

眉をひそめ、あたりを見渡す芳賀先生の正面に佳代さんが立った。

「ジャージ姿なんて初めて見たから最初、わからなかった。ガハ子、歳取っちゃったね……」

あたりの景色が青色に塗り替えられていく。神社の鳥居まで真っ青だ。

「あたし、芳賀先生に迷惑ばっかりかけてた。でも、顔を見られただけで、すごくうれしい」

せっかく会えたのに、芳賀先生に佳代さんの姿は見えない。

お互いにその存在を信じないと、会うことはできないんだ……。

「佳代さん、ふたりしか知らないエピソードってありませんか?」

「いっぱいあるよ。ガハ子にとって初めての担任だったから、生活指導のカネゴンって先生がフォローしてくれたんだよね。三者面談みたいなのばっかやらされてさ、でも、ガハ子はかばってくれようとして、あたし以上にカネゴンに叱られてた」

それを伝えれば信じてくれるかもしれない。口を開こうとする前に、「ねえ」と芳賀先生がまっすぐに私を見つめた。

「本当にここに()()()さんがいるの?」

佳代さんの苗字は小野田なんだ、と知る。

「ここにいます。そのことを信じてくだされば、芳賀先生にも絶対に見えます」

「信じるって言っても、いくらなんでも――」

ふいに芳賀先生が空を見あげた。

「青い……。え、なんで月が青いの?」

あとずさりする芳賀先生の手を思わずつかんでいた。

「青い月が光るときに、会いたい人に会えるんです。佳代さんは、芳賀先生に会いたくて、ずっとこの神社で待っていたんです。だから、一度でいいから信じてください。佳代さんがここにいるって、心から信じてください!」

なにも答えず、芳賀先生は瞳を閉じた。数秒後に目を開けた芳賀先生が、私の隣を見た。

「ウソでしょう? 小野田さん……?」

「ガハ子、久しぶり」

あっけらかんと言う佳代さん。瞳に制服を引っ張られ、私たちは数歩うしろに下がった。

「ウソみたい。小野田さんにまた会えるなんて……」

「あたしは会いたかったんだけどなあ」

ようやく現実のことと理解したのだろう、芳賀先生がこわれものを触るように佳代さんの手を握った。

「私も……私も会いたかったわよ。今でも毎年、命日のときにはお母様に会ってるのよ」

「そっちじゃなくて、こっちに来てほしかったんですけど」

「なに言ってるのよ。事故が起きたあの川にだって、数年に一度は行ってるのよ。まさか、神社にいるなんて思わないわよ」

少しずつ調子が戻ってきたのか、不満げにうなる芳賀先生。

事故が起きた川……?

「しょうがないじゃん。動けなかったんだし」

佳代さんがツンとあごをあげた。

「昔からそうやって言い訳ばっかり。二十一年も経つ のに、ちっとも変わってないじゃない」

「先生は歳取っちゃったね」

「こら。そういうこと言わない」

ピシャリと言ってから、ふたりは同じタイミングで笑いだした。

あまりにもおかしかったのか、佳代さんがしゃがみこんで笑っていたかと思うと、その声はだんだん泣き声に変わっていく。膝の上に置いた両腕に顔を押しつけ、声を殺して泣く佳代さん。

そうだよね。やっと会いたい人に会えたんだもんね……。

「小野田さん」

芳賀先生が抱きしめると、

「先生!」

佳代さんはその胸に顔をうずめた。

「あたし、先生に謝りたかった。あたしのせいできっとすごい迷惑をかけて……」

「いいのよ、そんなことはもういいの」

「でも!」と、佳代さんが顔をあげた。月に照られされ、水色の涙が頬を伝っている。

「修学旅行のとき、ひとりで抜け出しちゃったから。そのせいで死んじゃって……あたしは、あたしは……!」

芳賀先生の瞳から涙がぽろりとこぼれた。抱きしめ返す腕に一度だけ力をこめたあと、なにか決心したように芳賀先生はその体を強引に離した。

「きっと気にしてると思ってた。いい? これから言うことをちゃんと聞いて」

「嫌だ」

「嫌でも聞くの。あの事故はどうしようもないことだった。川で溺れそうになってた女の子を助けようとしてくれたのでしょう?」

その言葉に私と瞳は思わず顔を見合わせていた。交通事故じゃなかったんだ……。

「小野田さんのおかげであの女の子は助かったのよ。でも、どうなったかが心配で、ここから離れられなかったのよね?」

佳代さんが洟をすすりながら何度もうなずく。

「数年経ってからこの神社に来てくれたんだよ。無事でよかったと思った。でも、芳賀先生にちゃんと謝りたくて……」

「誇りに思ってる」

「え?」

きょとんとする佳代さんに顔を近づけ、

「あなたを誇りに思ってる。私も、あなたのお母さんも、クラスのみんなも」

芳賀先生はそう言った。

「でも、芳賀先生には迷惑ばっかりかけてた。初めての担任で大変なのに、反抗ばっかりして、あたしのせいでカネゴンにまで叱られて――」

「ガハハハ」
 
急に重い空気を押しのけるように、芳賀先生が大きな声で笑った。

「なに言ってるの。ちっとも迷惑だなんて思ってなかったわよ。まあ、『ガハ子』ってあだ名をつけられたのは若い乙女(おとめ)には厳しかったけど、誰よりも心は近いって感じてた。小野田さんだってそうでしょう?」

「ガハ子……」

「こら。取ってつけたようにあだ名で呼ばない。さっきまでちゃんと苗字で呼んでたくせに」

コツンと頭をたたくしぐさをする芳賀先生。

「バレたか」

と、佳代さんも顔をくしゃくしゃにして笑っている。

世界が、その青を薄くしていくのがわかった。もうすぐ、ふたりの時間は終わろうとしている。

佳代さんは立ちあがると、組んだ両手を上にあげて気持ちよさそうに伸びをした。

「あー、やっとこれでラクになれるよ」

「その前にふたりにもお礼を言いなさい。あやうく処分を受けるところだったんだから」

先生らしく注意をした芳賀先生に、佳代さんはプイと横を向いた。

「私たちはぜんぜん……ね?」

「そうです。大丈夫です」

慌ててふたりで手を横にふるけれど、芳賀先生は「ダメ」とひと言。

「これが、小野田さんへの最後の指導。ほら、ちゃんと謝りなさい」

譲らない芳賀先生に苦笑しつつ、佳代さんが私たちに頭を下げた。

「いろいろごめんなさい。そして、ありがとうございました」

「よし。これで私の授業は終わりよ」

芳賀先生が右手を差し出すと、自然に佳代さんはその手を握った。

「ガハ子、すっかりおばさんになったね」

「余計なお世話よ」

「でも、会えてうれしかった」

その瞳からまた涙があふれている。芳賀先生も涙をこらえて、必死で笑みを浮かべている。

「もう寄り道をせずに、自分の場所へ帰りなさい」

「はい。芳賀先生、またね」

「またね」

音もなく佳代さんが風景に溶けていった。

つないだ手をもとの位置に戻した芳賀先生が、ジャージの袖で涙を拭った。

「不思議なことがあるのね。会わせてくれて、ありがとう」

「いえ……」

「でも、あの子、ちゃんと天国に行ってくれたかしら。もしお母様の顔を見に行こうと思ってたらどうしよう。ご主人が亡くなったあと、引っ越しちゃってるのよね」

急に不安げになったのか、芳賀先生が「そうだ」と手を打った。

「もう一回呼び出してくれない? 新しい住所を教えるから」

「にゃん」

呆れた声でナイトが鳴いた。

「そんな力ありませんよ」

「なんだ、そうなの。じゃあ見かけたら教えてあげて。小野田さん、五丁目から二丁目に引っ越してるから」

「二丁目? うちのマンションのそばですね」

ふんふん、とうなずいてから気づく。……小野田という苗字に聞き覚えがある。

「あの、佳代さんのお母様の名前ってわかりますか?」

「小野田美代子さんよ」

これには驚いてしまった。まさかマンションの管理人である美代子さんが佳代さんのお母さんだったなんて……⁉

美代子さんに伝えたいけれど、きっと私はできないだろう。悲しみの荷物を増やしてしまうだろうし……。

芳賀先生が、腕時計を見た。

「ほら、あなたたちももとのグループに戻りなさい」

「あ、はい。失礼します」

頭を下げ歩きだす。

なんとか佳代さんの思い残しを解消することができてよかった。

「待って」

芳賀先生の声に、隣の瞳がビクッと体を震わせた。

ふり返ると、芳賀先生は組んでいた腕をおろし、深々と頭を下げた。

「ありがとう。小野田さんに会わせてくれて、本当にありがとう」

涙声に気づかないフリで私も頭を下げた。

歩きだすと、風がやさしく私の頬をなでた。

前を歩くナイトに、「ねえ」と声をかけた。

「私の使者としての役割は、あと一回で終わりだからね」

「にゃん」

珍しくナイトがそう答えてくれた。

さっきより薄い色の青空に、もう月は見当たらなかった。