昔から空を見るのが好きだった。
晴れた日の青い空、雲をたくさん抱えたねずみ色の空、雨の日の薄暗い空さえも好き。天気や季節によって姿を変える空は、世界の美しさを私に教えてくれる。
教室の窓側の席につくと同時に、空に目を向けた。
黄砂の影響で少しかすんだ空の遠くに、折れそうなほどに細い月がうっすらと浮かんでいる。
青空に溶けてしまいそうなほど、白く光る真昼の月。ううん、まだ始業式が終わったばかりの時間だから〝午前の月〟と呼ぶべきか。
太陽は沈むのを忘れないのに、月は昼間も残っていることがある。場違いなことを知っているから、ひっそりと目立たないように薄く光っているのかもしれない。
「実月、また空を見てんの?」
教壇のほうから七瀬梨央奈が歩いてきた。艶のある長い髪を揺らしながら、前の席にうしろ向きでドスンと座った。
「見てないよ」
「呪文にかけられたみたいにボーッと見てたよ。空野実月って名前にピッタリだね」
クスクス笑う梨央奈に、ぶうと頬を膨らまして見せる。
「桜を見てただけだもん。空はついでに、って感じ」
校門の両脇に生えている、二本の桜の木を指さした。
梨央奈は「あー」と納得したようにうなずき、サラリと髪をかきあげた。
「今年の桜は優秀だね。まさか始業式の日まで咲いてるとは予想外だったわ。まさに、春って感じ」
クラスメイトの男子がひとり、梨央奈にチラッと視線を送ったのがわかった。
同性の私から見ても、梨央奈はすごくキレイ。スクールメイクはバッチリでカラコンまで入れているし。
「今日はやけに気合い入ってるね。いつも以上にキレイだよ」
イヤミじゃなく、素直にそう言った。
「始業式だから気合い入れないと。実月も二年生になったんだから、ちゃんとメイクしたほうがいいって」
「私はいいよ。ニキビ、再発させたくないし」
「ニキビがあったのは半年前まで。今はぜんぜんないじゃん」
去年、梨央奈にメイクのやり方を教えてもらったことがあるけれど、下地やファンデの塗り方を聞いた段階でくじけた。あまりにも手順が多過ぎる。
ただでさえ、いつも遅刻ギリギリの私。毎朝時間をかけてメイクするなんて不可能だ。カラコンだって、あんなプラスチックの塊を目に入れるなんて怖過ぎる。
「そもそもメイクは校則で禁止されてるでしょ」
ツッコミを入れると、梨央奈は「うげ」と顔をゆがめてみせた。
「日焼け止め入りの下地にクリアマスカラ、保湿用のリップしかしてないんだよ。こんな のメイクとは言えないし」
それだって立派なメイクだと思うんだけど。
半数以上の女子が、なにかしらのスクールメイクをしている。私は日焼け止めさえ、よほど晴れた日にしかつけていない。
「でもさ」と、梨央奈がほほ笑んだ。
「やっぱりこの高校を選んで正解だったよ。校則が厳しく ないし、専門学科はクラス替えもない上に国家資格まで取れちゃうんだから」
私たちの通う高校には普通科と専門学科がある。私は専門学科の福祉科に属していて、もうひとつある専門学科はスポーツ科。スポーツ科の卒業生のなかには、有名なサッカー選手や陸上選手がいるけれど、福祉科にそういう人はいない。
「国家資格の受験資格をもらえるだけでしょ。受験して合格しないと介護福祉士にはなれないんだよ」
訂正しても梨央奈はどこ吹く風。
「『合格率ほぼ100%』ってのがこの高校の売りじゃん。てことで、問題なし」
手鏡で前髪のチェックをはじめている。
私みたいに介護の仕事に就きたい人だけじゃなく、資格が取れるから、という理由で入学した子も少なくない。
梨央奈の家は不動産会社を経営していて、『七瀬不動産』の看板は小さなこの街で知らない人はいない、というくらいよく見かける。
実家は駅前に広大な敷地を有していて、梨央奈と知り合う前から、そこが七瀬不動産の社長宅だということは知っていた。
ひとり娘である梨央奈は、親の反対を押し切ってこの高校に入学した。代わりに『宅建』という資格の勉強をさせられているそうだ。
「あ、いけない。お水入れてこないと」
梨央奈が水筒を手にし、慌てて教室を出て行った。超がつくくらいお金持ちの家に生まれたのに、梨央奈はかなりの節約家。ファーストフード 店に寄るときもクーポン券を駆使しているし、お弁当も自分で作ってきている。スマホもポイントが貯められるアプリでいっぱいだ。
本人は『浮いたお金をメイクの道具代に回してるだけ』と言っているが、お嬢様っぽくふるまわないところが梨央奈のいいところだ。
今日は始業式だけで授業がないので、このあとスーパーの特売に直行するらしい。
ホームルームがはじまるまで、あと五分ある。
トイレに行こうと廊下に出ると、こっち側の空に月は見えなかった。
自転車置き場の向こうに、去年まで使われていた旧校舎が建っている。手前に『立ち入り禁止』の看板が通せんぼしているのが見えた。
去年までは授業中も工事の音がずっとしていた。どんどん建設されていく新校舎を見てはワクワクしたものだ。
二年生になった今日からついに新校舎へ移動すること ができた。新しい建物のにおい、広い廊下、なんだか自分まで新しく生まれ変わったようないい気分。
トイレに向かっていると、向こうから何人かの男子生徒がじゃれ合いながら歩いてきた。スポーツ科の生徒はいつも紺色のジャージ姿なのですぐにわかる。始業式のあと着替えたようだ。
そのグループから数歩遅れ、だるそうに歩いて来る男子生徒がいる。
――清瀬碧人。
碧人もスポーツ科だけど、体育の授業以外は制服をきちんと着ている。昔は寒がりだったのに体質が変わったらしく、時期尚早の夏服を着ている。
栗色染めた髪、意志を感じさせる鋭角の眉をやわらかい瞳が中和している。
身長は昔に比べるとずいぶん伸びたけれど、スポーツ科ではまんなかくらいだそうだ。
長年テニスに命を懸けている碧人の肌は、季節を問わずはちみつ色に焼けている。細身の体は制服越しでも筋肉質なことがわかる。
いわゆる〝イケメン 〟に属する碧人は、去年誰かに告白されたそうだ。聞いたときは驚いたけれど、その場で断ったと聞いてホッとした。
同じマンションに住んでいるのもあり、小学生のころからクラスは違ってもいつも一緒にいた。会えばくだらない話で盛りあがり、からかい合ってばかり。つき合っているんじゃないか、という疑惑も笑い飛ばせるほど、私たちは完璧な『幼なじみ』だった。
だけど……今は違う。
高校での私たちは、お互いを幽霊のように扱う。存在に気づいても立ち止まってはいけない、話しかけてもいけない。
無関心を装い、会釈や目線を交わすことなく、私たちはすれ違う。
やっぱり今日も、私を一度も見てくれなかった。もう慣れたつもりなのに、やっぱり胸がチクリと痛くなる。
碧人は変わってしまった。去年の夏休み中から急に無口になり、話しかけると嫌な顔をするようになった。
『学校では話しかけないでほしい』
そう言われたときは、さすがにショックだったな……。
向こうから梨央奈が水筒を手に駆けてくるのが見えた。
「チャージ完了。って、トイレ?」
「そのつもりだったけどやめとく。そろそろ先生が来ちゃうし」
梨央奈が「それそれ」と不満げに言った。
「今日からチャイムが廃止になったんだよね。時間を見て行動しなくちゃいけないなんて最悪」
新校舎は住宅地に近いため、騒音対策としてチャイムを鳴らさないことになった。代わりに廊下には、デジタル時計がいくつか設置されていて、授業の五分前になると文字が赤色に変わるそうだ。
梨央奈の横に並ぶと、碧人がいちばん奥の教室に入るのが見えた。
「これも時代の流れってやつだよね」
姿が見えなくなってから取りつくろうようにそう言った。
「ていうか、旧校舎のチャイムを鳴らしてくれればいいのにさ」
ブスっとしてもキレイな梨央奈は、 長いまつげの瞳を旧校舎に向けている。
「もう電気が止められてるんじゃない?」
「それもそうか。ま、チャイムが鳴らなくても、冷暖房完備になったことのほうがよっぽどうれしいけどね」
前も古いエアコンはあったけれど、よほどの寒暖 でない限りはつけてもらえなかった。新校舎は常に一定の温度を保つようにコントロールされているそうだ。
教室に入る前にもう一度旧校舎を見た。
何十年もの間、たくさんの生徒が過ごした場所がその役目を終え、ひっそりとたたずんでいる。
なんだか、かわいそうに思えた。
晴れた日の青い空、雲をたくさん抱えたねずみ色の空、雨の日の薄暗い空さえも好き。天気や季節によって姿を変える空は、世界の美しさを私に教えてくれる。
教室の窓側の席につくと同時に、空に目を向けた。
黄砂の影響で少しかすんだ空の遠くに、折れそうなほどに細い月がうっすらと浮かんでいる。
青空に溶けてしまいそうなほど、白く光る真昼の月。ううん、まだ始業式が終わったばかりの時間だから〝午前の月〟と呼ぶべきか。
太陽は沈むのを忘れないのに、月は昼間も残っていることがある。場違いなことを知っているから、ひっそりと目立たないように薄く光っているのかもしれない。
「実月、また空を見てんの?」
教壇のほうから七瀬梨央奈が歩いてきた。艶のある長い髪を揺らしながら、前の席にうしろ向きでドスンと座った。
「見てないよ」
「呪文にかけられたみたいにボーッと見てたよ。空野実月って名前にピッタリだね」
クスクス笑う梨央奈に、ぶうと頬を膨らまして見せる。
「桜を見てただけだもん。空はついでに、って感じ」
校門の両脇に生えている、二本の桜の木を指さした。
梨央奈は「あー」と納得したようにうなずき、サラリと髪をかきあげた。
「今年の桜は優秀だね。まさか始業式の日まで咲いてるとは予想外だったわ。まさに、春って感じ」
クラスメイトの男子がひとり、梨央奈にチラッと視線を送ったのがわかった。
同性の私から見ても、梨央奈はすごくキレイ。スクールメイクはバッチリでカラコンまで入れているし。
「今日はやけに気合い入ってるね。いつも以上にキレイだよ」
イヤミじゃなく、素直にそう言った。
「始業式だから気合い入れないと。実月も二年生になったんだから、ちゃんとメイクしたほうがいいって」
「私はいいよ。ニキビ、再発させたくないし」
「ニキビがあったのは半年前まで。今はぜんぜんないじゃん」
去年、梨央奈にメイクのやり方を教えてもらったことがあるけれど、下地やファンデの塗り方を聞いた段階でくじけた。あまりにも手順が多過ぎる。
ただでさえ、いつも遅刻ギリギリの私。毎朝時間をかけてメイクするなんて不可能だ。カラコンだって、あんなプラスチックの塊を目に入れるなんて怖過ぎる。
「そもそもメイクは校則で禁止されてるでしょ」
ツッコミを入れると、梨央奈は「うげ」と顔をゆがめてみせた。
「日焼け止め入りの下地にクリアマスカラ、保湿用のリップしかしてないんだよ。こんな のメイクとは言えないし」
それだって立派なメイクだと思うんだけど。
半数以上の女子が、なにかしらのスクールメイクをしている。私は日焼け止めさえ、よほど晴れた日にしかつけていない。
「でもさ」と、梨央奈がほほ笑んだ。
「やっぱりこの高校を選んで正解だったよ。校則が厳しく ないし、専門学科はクラス替えもない上に国家資格まで取れちゃうんだから」
私たちの通う高校には普通科と専門学科がある。私は専門学科の福祉科に属していて、もうひとつある専門学科はスポーツ科。スポーツ科の卒業生のなかには、有名なサッカー選手や陸上選手がいるけれど、福祉科にそういう人はいない。
「国家資格の受験資格をもらえるだけでしょ。受験して合格しないと介護福祉士にはなれないんだよ」
訂正しても梨央奈はどこ吹く風。
「『合格率ほぼ100%』ってのがこの高校の売りじゃん。てことで、問題なし」
手鏡で前髪のチェックをはじめている。
私みたいに介護の仕事に就きたい人だけじゃなく、資格が取れるから、という理由で入学した子も少なくない。
梨央奈の家は不動産会社を経営していて、『七瀬不動産』の看板は小さなこの街で知らない人はいない、というくらいよく見かける。
実家は駅前に広大な敷地を有していて、梨央奈と知り合う前から、そこが七瀬不動産の社長宅だということは知っていた。
ひとり娘である梨央奈は、親の反対を押し切ってこの高校に入学した。代わりに『宅建』という資格の勉強をさせられているそうだ。
「あ、いけない。お水入れてこないと」
梨央奈が水筒を手にし、慌てて教室を出て行った。超がつくくらいお金持ちの家に生まれたのに、梨央奈はかなりの節約家。ファーストフード 店に寄るときもクーポン券を駆使しているし、お弁当も自分で作ってきている。スマホもポイントが貯められるアプリでいっぱいだ。
本人は『浮いたお金をメイクの道具代に回してるだけ』と言っているが、お嬢様っぽくふるまわないところが梨央奈のいいところだ。
今日は始業式だけで授業がないので、このあとスーパーの特売に直行するらしい。
ホームルームがはじまるまで、あと五分ある。
トイレに行こうと廊下に出ると、こっち側の空に月は見えなかった。
自転車置き場の向こうに、去年まで使われていた旧校舎が建っている。手前に『立ち入り禁止』の看板が通せんぼしているのが見えた。
去年までは授業中も工事の音がずっとしていた。どんどん建設されていく新校舎を見てはワクワクしたものだ。
二年生になった今日からついに新校舎へ移動すること ができた。新しい建物のにおい、広い廊下、なんだか自分まで新しく生まれ変わったようないい気分。
トイレに向かっていると、向こうから何人かの男子生徒がじゃれ合いながら歩いてきた。スポーツ科の生徒はいつも紺色のジャージ姿なのですぐにわかる。始業式のあと着替えたようだ。
そのグループから数歩遅れ、だるそうに歩いて来る男子生徒がいる。
――清瀬碧人。
碧人もスポーツ科だけど、体育の授業以外は制服をきちんと着ている。昔は寒がりだったのに体質が変わったらしく、時期尚早の夏服を着ている。
栗色染めた髪、意志を感じさせる鋭角の眉をやわらかい瞳が中和している。
身長は昔に比べるとずいぶん伸びたけれど、スポーツ科ではまんなかくらいだそうだ。
長年テニスに命を懸けている碧人の肌は、季節を問わずはちみつ色に焼けている。細身の体は制服越しでも筋肉質なことがわかる。
いわゆる〝イケメン 〟に属する碧人は、去年誰かに告白されたそうだ。聞いたときは驚いたけれど、その場で断ったと聞いてホッとした。
同じマンションに住んでいるのもあり、小学生のころからクラスは違ってもいつも一緒にいた。会えばくだらない話で盛りあがり、からかい合ってばかり。つき合っているんじゃないか、という疑惑も笑い飛ばせるほど、私たちは完璧な『幼なじみ』だった。
だけど……今は違う。
高校での私たちは、お互いを幽霊のように扱う。存在に気づいても立ち止まってはいけない、話しかけてもいけない。
無関心を装い、会釈や目線を交わすことなく、私たちはすれ違う。
やっぱり今日も、私を一度も見てくれなかった。もう慣れたつもりなのに、やっぱり胸がチクリと痛くなる。
碧人は変わってしまった。去年の夏休み中から急に無口になり、話しかけると嫌な顔をするようになった。
『学校では話しかけないでほしい』
そう言われたときは、さすがにショックだったな……。
向こうから梨央奈が水筒を手に駆けてくるのが見えた。
「チャージ完了。って、トイレ?」
「そのつもりだったけどやめとく。そろそろ先生が来ちゃうし」
梨央奈が「それそれ」と不満げに言った。
「今日からチャイムが廃止になったんだよね。時間を見て行動しなくちゃいけないなんて最悪」
新校舎は住宅地に近いため、騒音対策としてチャイムを鳴らさないことになった。代わりに廊下には、デジタル時計がいくつか設置されていて、授業の五分前になると文字が赤色に変わるそうだ。
梨央奈の横に並ぶと、碧人がいちばん奥の教室に入るのが見えた。
「これも時代の流れってやつだよね」
姿が見えなくなってから取りつくろうようにそう言った。
「ていうか、旧校舎のチャイムを鳴らしてくれればいいのにさ」
ブスっとしてもキレイな梨央奈は、 長いまつげの瞳を旧校舎に向けている。
「もう電気が止められてるんじゃない?」
「それもそうか。ま、チャイムが鳴らなくても、冷暖房完備になったことのほうがよっぽどうれしいけどね」
前も古いエアコンはあったけれど、よほどの寒暖 でない限りはつけてもらえなかった。新校舎は常に一定の温度を保つようにコントロールされているそうだ。
教室に入る前にもう一度旧校舎を見た。
何十年もの間、たくさんの生徒が過ごした場所がその役目を終え、ひっそりとたたずんでいる。
なんだか、かわいそうに思えた。