放課後になり、月の色が青く変わりはじめている。

もう理解した。伝説における私の役割は『使者』のみで、この世に思いを残 した幽霊の手伝いをしなくてはならない。黒猫はその予告をしに教室まで来たのだろう。

空ばかり見てしまうのは、恋を知ってから。青い月をもう一度見ることができれば、言葉にできない願いが叶うかもしれない、と信じてきた。

やっと見ることができたのに、叶わないどころかこんな役割を押しつけられるなんてあんまりだ。

「すごい夕焼けだね」

荷物をまとめながら梨央奈が言うけれど、月の周りだけは青く染まっている。

青い月が見られるのは、私と碧人と幽霊と、その幽霊 が会いたい人だけということだろう。

今回は碧人と一緒に旧校舎へ行ってみよう。恋人同士じゃなくても、伝説にあるように手をつないでみるのはどうだろう。ひょっとしたら、なにかが起きるかもしれない。

そんなことを思っていると、梨央奈が私にスマホの画面を見せてきた。

「ポテトの無料クーポンをゲット。帰りにちょっと寄ってかない?」

「あーごめん。ちょっと約束があるんだ」

「約束?」

約束をしたわけじゃないけれど、きっと碧人は旧校舎に行くはず。

「碧人って覚えてる?」

「え? それ誰のこと?」

スマホに目を落としたまま梨央奈が尋ねた。

「スポーツ科にいる幼なじみ。前に梨央奈にも紹介したことあるじゃん。同じマンションに住んでるから、今でもたまに会ってるんだよね」

「へえ」

テンションを落とす梨央奈に「違うよ」と、慌てて言う。

「そういう関係じゃないから」

「別に疑ってないよ。ただの幼なじみなんでしょ?」

梨央奈がひょいと席を立った。

「クーポン五月末までだから、中間テストが終わったら行こうよ。ただし、ふたりきりでね。男子って苦手だから」

「もちろん」

「じゃあ、またね」

梨央奈が教室から出ていくのを見送った。

ヘンな雰囲気にならなくてよかった。誰かと話をするたびに相手の顔色ばかり(うかが)ってしまう。自分を変えたいと思うけれど、どうやって変えていいのかわからない。

学校でも勉強ばかりじゃなく、そういうことを教えてくれればいいのに。福祉の授業で『コミュニケーション技術』とかはあるけれど、どれも高齢者に対しての接し方についてばかりだし。

荷物をまとめ、旧校舎へ向かうことにした。

階段をおりていると、

「よう」

と、うしろから声がかかった。

ふり向かなくても誰かわかる。碧人がかろやかに階段をおりてくる。

「碧人も見えてるんだよね?」

「六時間目くらいからどんどん青くなってる。ついに来たか、ってテンションあがりまくり」

昇降口へ向かいながら、やっぱり胸がドキドキしてしまう。

前回、旧校舎へ行ってからは学校でも話しかけてくれることが増えた。とはいえ、碧人のクラスメイトがいない場所でのみだけど。それでも、気づかないフリをされる より何倍もマシだ。

私も自分の気持ちを――といっても、好きな気持ち以外は伝えるようにしている。

「不思議だよね。なんで私と碧人だけ、青い月が見えてるんだろう?」

「伝説について知ってるのが俺たちだけだから。信じている人にしか見えない、みたいな?」

「それはあるかもね。梨央奈は見えないみたいだし。でも、ちょっと怖い。前のときは……大変だったから」

「たしかに幽霊に会うのって怖いよなあ。まあ、いざとなれば逃げればいい。それにこれ」

と、碧人がパンツの裾をめくった。

「実月がくれたミサンガが守ってくれるはず」

「ミサンガは願いごとをするためのもの。()()けじゃないんだからね」

「似たようなもんだろ」

碧人は気楽な性格。つい考えこんでしまう性格の私からすればうらやましい限りだ。

旧校舎が近づくと、『立ち入り禁止』の看板の前に誰かが立っているのが見えた。

「碧人、誰かいる」

足を止めてそう言うが、

「幽霊がお迎えに来てんのかな?」

碧人はむしろ早足に進んでいってしまう。

看板の文字を眺めていた女子生徒が、ハッとふり向いた。

その顔を見て葉菜さんだと気づく。うつむいていることが多いから、ちゃんと顔を見るのは久々だった。

黒髪をひとつに結び、意志を感じる瞳にキュっと引き締まった唇。白い肌が、月の光のせいで青白くも見える。

そういえば、あの黒猫は葉菜さんの席の前で鳴いたよね……。

「あれが幽霊なのかな?」

「ちょっと、失礼でしょ!」

幸い、葉菜さんには聞こえなかったらしく、むしろ私を見て驚いている。

碧人は「そっか」と平然とした顔をしている。

「幽霊は旧校舎から出られないんだっけ?」

いや、失礼なのはそこじゃない。葉菜さんのもとへ向かうと、おびえた瞳であとずさりをされてしまった。

「あの……」

声をかけるのと同時に、葉菜さんは走り去ってしまった。

「なんだあれ」

呆れた顔で見送る碧人に、

「同じクラスの持田葉菜さん。ここでなにをしてたんだろう」

そう尋ねるが「さあ」と肩をすくめている。

「今度聞いてみれば? それより暗くなる前に入ろうぜ」

葉菜さんとは一度も話したことがないし、そもそも聞く勇気なんて出ない。

裏手に回ると、桜の木が緑の葉を茂らせていた。碧人は開いている裏口から、さっさとなかに入ってしまった。

私も入ろうとしたけれど、やっぱり勇気が出ない。

でも今回は碧人が一緒だし、使者として呼ばれたわけではないかもしれない。

深呼吸をして、校舎に足を踏み入れようとしたときだった。

「こら! そこっ!」

突然の大声に飛びあがりそうになる。見ると、芳賀先生が大股で歩いてくる。

「空野さんじゃないの。ここは立ち入り禁止でしょ」

「あ、すみません」

謝りながら裏口を見ると、碧人が顔だけ覗かせていた。どうやら私だけ見つかってしまったらしい。

「こんなところでなにしてるの? ひょっとしてデートとか?」

自分で聞いておいて、「ガハハ」と芳賀先生は豪快に笑った。

「そんなわけないか」

「失礼じゃないですか。私だってそういうことがあるかもしれないし」

「あるかもしれないってことは、今はないってことだね」

こういうところが芳賀先生のおもしろいところだ。また大声で笑ったあと、芳賀先生は目を細めて旧校舎を見た。

碧人がサッと隠れるのが見えた。

「この校舎に去年までいたなんて不思議ね」

「芳賀先生はこの学校、長いんですよね?」

「教師になってからずっとだからね。それこそ二十代のピチピチのときからだし。でもさ……」

と、芳賀先生は声のトーンを落とした。

「夏休みの間に解体しちゃうんだってさ。さみしい気もするけど、これも時代の流れってやつだね」

たった一年しか過ごさなかった私よりも、芳賀先生のほうがたくさんの思い出をこの校舎に残している 。

「そういえば、さっき葉菜さんと一緒にいなかった?」

芳賀先生は葉菜が立ち去ったほうへ目をやった。

「入れ替わりに帰ったみたいです」

逃げられた、とは言えずにごまかした。

「葉菜さんにたまに話しかけてあげてくれる? あの子もいろいろ悩んでるからさ」

「なにを悩んでいるんですか?」

私の質問に、芳賀先生は「ふふ」と小さく口のなかで笑った。

「そういうのは自分で聞かなくちゃ」

「でも……ほとんど話をしたことがなくって」

「空野さんは卒業したら介護の世界に入るのよね? いろんな高齢者の方や家族の方の悩みを聞くことになるんだから、対人援助技術を――って、ごめん。余計なことだわ」

「いえ。先生の言うとおりです。私、なかなか自分から話しかけられなくて……。相手を理解することが得意じゃありません」

芳賀先生は軽くうなずくと右手の指を三本立てた。

「大事なのは『受容』と『共感』と『傾聴』よ」

『受容』は相手をそのまま受け入れること。『共感』は文字どおり、相手に共感すること。『傾聴』は、耳を傾けて相手の話を聞くこと。高齢者のなかには、自分の言いたいことを伝えられない人もいるので『声なき声』を()み取る必要がある、と授業で習った。

でも、実践するとなれば話は別。どうやっていいのかわからない。

難しい顔をしていたのだろう、芳賀先生が「ガハハ」とまた笑った。

「習うより慣れろって言うじゃない? 思い切って話しかけてみるのがいちばん。興味半分じゃなく、寄り添いたいっていう気持ちでね」

ウインクしたあと芳賀先生が「あ!」と声をあげた。

「いけない。職員会議がはじまっちゃう! 空野さんも早く帰ること!」
 
風のように去っていく芳賀先生を見送っていると、

「あぶねー。まさかガハ子が来るなんて」

碧人が顔を出した。

「ガハ子じゃなくて、芳賀先生でしょ」

旧校舎に入ると、そこはまるで海のなか。窓から差しこむ青い光が、廊下を照らしている。

「こんな青いのに、誰も見えないなんて不思議だよね」

「俺たちふたりだけの特権ってこと」

ふたりだけ、という言葉に胸がジンと熱くなった。気づかれないように平気な顔であたりを見回した。

いつか、好きだと言える日が来ればいいな。ずっと、そんな日が来なければいいな。

相反する気持ちのまま階段のほうへ目を向けると、あの黒猫が座っていた。私と目が合うと、前回と同じように階段をのぼっていく。

「君、授業中に来るのは反則だからね」

文句を言う私に、

「へ? こいつ教室まで来たの?」

碧人がうしろから尋ねてきた。

「ゴールデンウィークのあとに青い月が出たことがあったよね? そのときに行かなかったから、今回は迎えに来たみたい」

「あの日は俺も用事があったからなあ」

青い月を見た翌日、マンションの前で碧人に報告したところ、同じことを言っていた。その日は親戚の人が来ていたらしく、急いで帰らなくてはならなかったそうだ。

黒猫は三階の踊り場を越え、さらに上にのぼっていく。先を行く碧人の足首から、ミサンガがチラチラ見えていて、それがうれしい。
 
四階も通り過ぎた黒猫。どうやら屋上へ向かっているらしい。

「屋上に行くの? だったら靴を持ってくればよかった」

黒猫は答えることもなく、鉄製のドアの前へ進む。

「屋上なんて、めっちゃテンションあがるわ」

ワクワクを隠しきれない碧人が興奮したように小鼻をふくらませている。

「碧人は来たことあるの?」

「ないよ。ここはカギ閉まってたし」

黒猫はドアの前で、ちょこんと座っている。まるで人間の言葉を理解しているみたいな顔に見えた。

「行く前に質問してもいい?」

膝を曲げて黒猫と目を合わせる。

「『黒猫がふたりを使者のもとへと導く。青い光のなかで手を握り合えば、永遠のしあわせがふたりに訪れる』っていう伝説は本当のことなんだよね?」

黒猫は、褐色の瞳で私を見つめ返すだけ。

「今回も私は――私たちは『使者』ってこと?」

ダメだ。なにも答えてくれない。

どちらにしてもこのドアの向こうに誰かがいる。それが幽霊だった場合は、私たちは『使者』になり、相手が『使者』だった場合は私たちに永遠のしあわせが訪れる。

扉にはカギがかかっていなかった。想像以上に重いドアを押すと、悲鳴のような音を立てて開いた。

「わあ……」 

思わず声が出てしまった。

屋上が、まるでプールみたいに真っ青に染まっている。頭上で光る月は、さっきよりも濃い青色の光をふらせていた。

「すげえな。プールのなかにいるみたい」

碧人が私と同じように感じてくれていることにうれしくなった。

――キーンコーン。

チャイムの音が青い世界に響く。これも聞こえているのは私と碧人だけなのだろう。

歩きだす黒猫についていく。私の手も青色に光っていて、まるで夢のなかにいるみたい。

「あそこ見て」

碧人が指さす先に、ひとりの女子生徒が立っていた。

手すりに手を置く横顔。長い髪が風の形を教えるようになびいている。

黒猫がやって来たことに気づいても、女子生徒はチラッと見ただけですぐに顔をもとの位置に戻してしまった。

碧人は、と横を見るといつの間にか数歩うしろに下がってしまっている。

「碧人?」

「え? あ、うん。俺はいいから実月だけ行って」

碧人は昔から、幽霊とかUFOとかのオカルトものが好きだった。みんなで集まったときにそういう話題を出して くることも多かった。

『三丁目の空き家に幽霊が出るらしい』とか、『駅裏の神社で火の玉を見た人がいるんだって』とか。なのに、実際に行くとなると、誰よりも先に離脱した。

「忘れてた。碧人、幽霊が苦手だったね」

「べ、別に怖くない。なんだろう、足が動かなくなった。これはたぶん、事故の後遺症だな」

完全に怖がっている。

ひとりで話しかけるしかないってことか……。

不思議と怖い気持ちはなかった。ここで逃げて帰ったら、あの黒猫がまた呼びにくるかもしれないし……。

心のなかで『受容』『共感』『傾聴』の三つの言葉を唱える。

ゆっくり近づくにつれて、女子生徒の顔に見覚えがないことがわかった。旧校舎にいる時点で一年生ではなさそうだから、おそらく三年生だろう。ノーメイク の横顔には、前回と同じように悲しみの感情があふれている。

身長も高く、モデルになれそうなほど美しい人。腰までの長い髪が、月のせいで青い艶を放っている。

彼女が、私に気づき顔を向けた。遅れて髪が弧を描くように宙に舞った。その瞳に輝きはなく、黒目は平面に見えるほど真っ黒な色をしている。

もう、わかる。彼女は幽霊だ。今回も私は『使者』なのだろう。

小さく深呼吸してから頭を下げる。笑顔になっていないことに気づき、あとづけでぎこちなくほほ笑む。

「突然すみません。空野実月といいます。この子に呼ばれてきました」

黒猫を見るが、もう役目は終わったとばかりにその場で横になっている。

「……の?」

ボソッと彼女がなにか言ったので、視線を戻すと同時に固まってしまう。彼女の表情は、どう見ても怒っていたから。

「あの……私――」

「なんで話しかけてくるの、って聞いてるんだけど」

鋭い言葉にギュッと口をつぐんだ。

さっきまで黒かった瞳が、赤色に変わっている。燃えるような瞳は、彼女の怒りを表わしている。

ここで逃げちゃダメ。前回と同じように、彼女もきっと助けを求めているはず。

「なにか、私にできることはありますか? どうしてここにいるのか教えてもらえれば、役に立てるかもしれません」

どんな内容でも受容し、共感する。話していることをしっかりと傾聴する。そうすることできっと――。

「なんで初対面のあなたに教えなくちゃいけないわけ? 何様のつもりよ」

たくさんのヘビが頭をもたげるように、彼女の髪がゆらりと広がる。理解したいという気持ちはあっけなく打ち砕かれ、もうあとかたもない。

(こう)(ちゃく)状態が続くなか、彼女は背を向けた。

「帰ってよ。二度とここへは来ないで」

拒絶の言葉が、私と彼女の間に大きな壁を作った。