❁


 初恋は叶わない。
 なんてよく言うけれど、わたしは運が良かったらしい。


 初めて好きになった人と過ごした時間は、一生忘れられないくらい幸せだった。


 ──だけど、もう。
 いい加減忘れないといけないね。


 五年前の花火大会の日。わたしに何も言わずに姿を消した君のことを、まだ許せないの。


 胸に残り続ける未練を捨てられる日は、一体いつ訪れるのだろう──。


 〈はなびside〉


 ヒュ~~~、ッドォーーン‼

 夜の空に大輪の花が咲く。


 あらゆるところから歓声が上がる。
 沢山の人たちに囲まれて、わたしは一人寂しく空を見上げた。


 一拍遅れた後に見る花火は、何だか歪んだ形に見えた。
 それはきっと、一人が憂鬱だからに違いない。


「君可愛いね! 一人?」

「うわまじじゃん。超かわええ」


 下品な笑みを浮かべてわたしに声をかけてきた男二人組。その人たちの顔を見て、思わずため息が零れた。


「……見て分かりませんか」


 自分の口から出た低い声に少し驚いてしまう。だけどすぐに仕方ないかと思い直す。


 ──だって、今日は。

 終わらない哀しみに存分に沈める日なんだから。


「あ、あーそうだね」


 相手の男は気まずそうに目を泳がせて、もう一人の男に耳打ちした。
 それからすぐに二人は背を向け去って行った。


 そんな二人の背中をぼんやりと眺める。


 ──もし、今わたしに声をかけてきた人が〝あいつ〟だったら良かったのにな。


「……っなに、馬鹿なこと考えてんのよ」


 ふと思い浮かんだ叶わぬ願いに、嫌気が差した。


 自分の頭を強く叩いて、重い腰を上げる。

 ……もうこれ以上、ここにはいられない。


 人の波を縫って、ふらふらと来た道を戻る。花火大会から帰る途中でドリンクを売る屋台に寄った。


 ビール缶を開けると、プシュウッと夏らしい音がした。そのままビールを豪快に流しいれる。喉が焼けるように熱い。

 だけど今は、その痛さが心地いい。


「お嬢ちゃん、あんま無理すんなよー」

「えーいっ!」


 屋台のおじちゃんの言葉に酔っ払い気味に返事をする。


 振り返りもせず、片手だけ上げてふらふらと歩く姿はなんて滑稽なのだろう。


 すぐ酔っ払う体質だと知りながらも呑むのをやめられないのは、きっと。


「ただいま、はなび」


 あんたのせいだ───。


 ◇


 ……あれ、わたし、何してたんだっけ。

 ぼーっとした頭で考えを巡らす。


 花火大会に行って、楽しそうに笑う周りのカップルに過去の傷をえぐられて、挙句呑んだくれて。

 そこまでは覚えているのに、その後の記憶が完全に消えている。


 眠っていたベッドから体を起こして辺りを見回すと、そこは私の部屋だった。


「はなび」


 聞こえないはずの声がすぐ近くで響いた。

 わたしの頭は真っ白になって、恐る恐る首を横に動かす。


「はなび、大丈夫?」


 ……っなんで。

 どうしてあんたが、ここにいるの。
 わたしの部屋に、……目の前に。


「……っかお、る?」


 目から一筋の涙がこぼれる。

 自分で制御なんてできなくて、次から次に溢れ出す。


「うん、そうだよ」


 薫は平然とした顔で頷いた。

 そんな薫を見て、どこからともなく怒りの感情が湧いてくる。


「ばか、馬鹿! 今まで何一つ連絡もしなかったくせに、どうして今になって……っ」


 わたしのベッドに腰かけた薫の胸をポカポカと殴る。
 涙でかすんだ視界の先で、薫が少し苦しそうに眉をしかめているのが分かる。


「……泣くなよ、はなび」


 だけどすぐに、薫は困ったような笑顔を浮かべた。


「っ、うるさいー」


 声は情けなく震えている。

 薫が手を伸ばしてきたから反射的によけた。


 ……っ、どうしてあんたが傷ついた顔するのよ。
 そんな顔していいのはわたしだけなのに。


「はなび、俺、」

「いい。聞きたくない。あんたの言い訳なんて」


 私は薫を強く睨みつけた。薫は悔しそうに唇を噛む。


「っそれでも、俺、はなびに謝んなきゃいけないことがあって」


 その言葉を聞いた瞬間、わたしの心が強い拒否反応を起こした。


「やめて! もう何も言わないでっ!」


 聞きたくない、聞きたくない。

 その先に続く言葉を知っているから。


「はなび……」


 自然消滅して途切れたわたしたちの関係に、薫はきっと終止符を打ちに来たんだ。

 そうじゃなきゃ、今さら元カノの元になんか帰ってこないでしょ。


 乱暴に涙をぬぐって、ベッドから降りる。

 すぐに寝室から出ようとしたのに、強い力で薫の手に掴まれた。


「……薫、手離して」


 視線だけを薫に向ける。薫は深く俯いていて、今どんな顔をしているのかは分からない。


 わたしの手首を掴む手に力が入り、思わず眉をしかめた。

 ……痛い。全部全部痛くて、嫌になる。


「……はなびが俺を許せないのはちゃんと分かってる。だからこそ、ちゃんと謝りたくて」


 弱弱しく、それでいてどこかまっすぐな瞳と目が合った。


「っ、知ったような口利かないで。ちゃんとちゃんとって、……ほんと何様?」


 薫は驚いたように目を見開いた。

 まさか、わたしがこんなにも反発する女だとは思わなかったのだろう。


「はな、び」


 わたしを呼ぶ声が震えている。


「ごめん、本当にごめん。俺、何も言わずにいなくなっちゃって……」


 薫はぶつぶつと何かを呟いている。


 わたしの鬱憤は収まるどころか爆発寸前にまで迫っている。


 五年前のこの日、薫は何も言わずにどこかに消えてしまった。
 だけど、わたしが怒っているのはそんなことではなくて……。

 姿を消した後、何の連絡も寄越さなかったことに怒っているんだ。


「……わたし、何度も何度も薫に連絡した。電話だって何回もかけた。だけど、薫は出なかった。あんたのこと、本当に心配してたのに。……っ、大好き、だったのに」


 また涙が溢れ出す。呼吸が上手くできなくて、凄く苦しい。


 こんな情けない姿を薫になんか見せたくなくて、勢いよく薫の手を振り放した。


 そのまま寝室の扉へと歩いていく。

 部屋から出る前にわたしは吐き捨てるように言った。


「もう帰って」

「……それ、本気で言ってる?」


 背後から低い声が聞こえる。わたしは息を整えて、頷いた。


「うん、本気だよ」


 涙は未だに流れている。薫に背を向けたまま、こっそりと最後の一滴を拭った。


 リビングへ行き、台所の上に置かれていたペットボトルの水をごくりと喉に流し込む。


 冷蔵庫にも入れていなかったのになぜかひんやりと冷たくて、酔いが回っていた頭を冷ましてくれるようだった。


「あ、それ俺の」


 寝室から出てきた薫がそう言った。
 わたしは思わずせき込みそうになり、慌ててペットボトルを口から離した。


「っは⁉ これ、薫がもう飲んだやつだったの⁉」

「うん、そうだけど」


 平然と答える薫に、わたしは目を剥いた。


「何、今さら間接キスしたこと気にしてんの?」


 薫がからかうように訊いてくるから、わたしは咳払いをして気持ちを落ち着けた。


「……そりゃあ、気にするよ。わたしたち、もう付き合ってないんだから」


 薫は一拍置いて、傷ついた表情で言った。


「ははっ、意外とはっきり言うんだな」


 わたしはそんな薫を一瞥し、構わずに自転車の鍵を持ち玄関へ向かった。


 ドアを開けようとしたタイミングで薫が駆け寄って来る足音がした。


「どこ行くの? もう夜だし、危ねえよ」

「……、別にわたしがどこに行こうと薫には関係ないんじゃないかな」


 薫の優しさも今は素直に受け取れない。


「……ごめん。迷惑だよな」

「……うん」


 お互い気まずさを抱えたまま、短く言葉を交わす。


 付き合っていた頃と今では、あまりにも違う距離感。


 わたしは薫から逃げるようにドアを開けて外に出た。

 夏の夜風が頬を撫でる。
 荒れた心に寄り添うようにまとわりついてくるしっとりとした温度が、ただ不快でたまらない。


 古びたアパートの階段を下りて駐輪場に向かう。


 後ろから薫が付いてきている足音がするけれど、わたしは気にせず自転車のロックを外し、またがった。

 ──その時。


 自転車の荷台に人一人分の体重が加わるのを感じた。
 振り返ると、にっと笑みをたたえた薫が荷台にまたがって座っていた。


「……降りて」

「嫌だね」


 薫はいたずらっ子のように右の口角を上げた。

 急な薫のキャラ変に付いていけなくて、盛大なため息を吐き出す。


「ねえ、はなび。俺に少しだけ、はなびとの時間をくれない?」


 澄んだ瞳がわたしを見つめる。

 逃げ出したいという気持ちと、ちゃんと向き合わなければという真逆の気持ちがせめぎ合う。


 自分が後悔しないための選択は何か。
 わたしは、もういい加減踏み出さないといけないんじゃないか。

 そんな思いがわたしの背中を後押しした。


「……本当に少しだけだからね」


 不愛想なわたしの言葉に、薫は馬鹿みたいに目を輝かした。

 薫を荷台に乗せたまま、海岸沿いを自転車で走る。


 潮風が腫れた瞼に当たる。

 この五年のうちにたくましくなった薫の腕がわたしの腰に回っている。


 肌と肌が触れ合うほど近い距離にいるのに、お互いの心はもう繋ぎ止められないくらいに遠くなってしまった。

 そのことを少し寂しく思いながらも、わたしは笑顔を浮かべた。


「やっふーーーー‼」


 全速力でペダルを漕ぐ。

 街灯が照らす静まり返った夜の街を、思いのままに走り抜ける。


「あはははっ。はなび、はっちゃけすぎ」


 後ろで薫が楽しそうに笑った。


 ◇


 いつの間にかこの街の人気スポットである小さなビーチまで来ていた。


 自転車を止め、薫と目配せした。そしてどちらからともなく自転車を降りて、海に向かって駆け出した。


 白いスニーカーを履いていたことなんかすっかり忘れて、砂浜を蹴る。
 子供時代に戻ったみたいに、わたしと薫は砂浜を走る。気づいたら鬼ごっこが始まっていて、わたしは笑いながら薫から逃げた。


 まるで付き合っていた頃に戻れたような感覚だった。

 だけどわたしは、夢のような時間もいつかは終わると知っている。


 中学三年の冬、わたしは生まれて初めて恋に落ちた。


 毎日サッカーに打ち込む姿を見て、素敵だなと思った。誰かが困っていたらすぐに手を差し伸べられるところに尊敬して、いつの間にか恋に落ちていた。


 クラスの人気者だった薫に勇気を出して告白した。


 まさかオッケーがもらえるなんて思っていなかったからあの頃は信じられない気持ちでいっぱいだったな。


 昔のことを思い出して、切なさで胸がいっぱいになる。


 お互い走り疲れて、砂浜に寝転がった。

 隣から薫の呼吸音が聞こえる。わたしはゆっくりと目を閉じた。


 薫と再会するまでは言いたいことやぶつけたいことが山のようにあった。それなのに、そんな怒りの炎が何の前触れもなく鎮火したように、今は何の感情も湧かない。


 ただ、心地いいという想いで満たされている。


「……もう、連絡を待つ必要がなくなったなあ」


 ふと思ったことを口にした時、その言葉がやけに腑に落ちた。


 それは諦めではなく、一歩進むためのもの。

 ようやく、長い間心に残り続けていた未練とお別れができそうだ。


「え……?」


 薫がわたしに視線を向ける。顔を薫の方に向け、ちらりと目を合わせると、その瞳は不安そうに揺れていた。


「あ、ううん。ひとりごと」


 わたしはごまかすように愛想笑いを浮かべた。

 貼り付けた笑顔の裏で、わたしは悟る。


 わたしたちはもう二度と、元には戻れないのだと。
 彼氏彼女という幸せな関係とは無縁で、程遠い場所まで来てしまっているのだと。


「……ねえ、はなび」

「ん?」


 薫がぽつりと呟く。

 そして、ズボンのポケットから何かを取り出した。


「最後にさ、一緒に線香花火しない?」


 それは、少し傷ついた、切ない笑顔だった。


 線香花火はパチパチと燃え、火花が夜の風に吹かれては消えていく。


 ───まるでわたしたちみたい。


 最初は静かに、そして燃え盛り、細かな火花を飛ばしながらいのちの終わりを知らせ、最後はあっけなくぼとりと地面に落ちる。


 どれだけ仲が良くても、お互いを好きだという気持ちがあっても。

 人の心は移り変わり、色褪せていく。


 永遠なんてない。
 あると信じたいけれど、そんなものはどこにもないんだ。


 ◇


 ビーチを背後に自転車を押し、薫と肩を並べて歩く。


 こんなことも今日で最後なんだと思うと少し寂しくなるけれど、もう覚悟はできている。


「……ここまででいいよ」


 アパートからいくぶん離れた場所で立ち止まる。

 薫の横顔は夜の闇に溶けてあまり見えない。


「……うん」


 しばらく無言が続く。その沈黙を先に破ったのは薫だった。


「……五年前に、俺が姿を消した理由、訊かないの?」


 そんな質問を聞いて、どこまでも勝手な人だな、と思った。


「うん、訊かない」

「……なんで?」

「だって、もしその理由が別れが惜しくなるようなものだったらたまったもんじゃないからさ」


 わたしは笑って言った。薫も笑っていた。

 別れの時が近づく。


「……ねえ、はなび」

「なに?」


 薫は何か言おうと迷っている感じだった。
 だけどすぐに思い直したようにほっと息をつき、笑みをたたえた。


「やっぱ何でもない」

「そっか」


 わたしは視線を地面に落とす。
 大きく息を吸い込み、吐き出した後にまた顔を上げた。

 ──よし、覚悟はできた。


 言うんだ、言わなきゃ。
 そうしないと、わたしは前に進めない。


「薫、今日は会いに来てくれてありがとう。さようなら」


 これでもう、本当に最後だ。

 わたしは一度も振り返らずにアパートの道のりを歩き始めた。


 〈薫side〉


 彼女に会える保証なんてない。

 もう何年も連絡を取っていないから、もしかしたらもう引っ越しているかもしれない。


 それでもここまでやって来たのには理由がある。


 少し離れた所から、ドーンドーンと花火が上がる音が聞こえてくる。


 希望は薄かったけれど、もしかしたらそこに彼女がいるかもしれないと思い、花火大会に向かった。


 屋台がちらほらと見えてくる。

 花火大会の会場に近づくにつれ、過去の傷がえぐられるみたいだ。


 ……五年前の今日。俺は何も言わずに恋人の前から姿を消したのだ。
 一緒に花火観に行こうねと約束していたのに。


 彼女とは中三の冬に付き合って、高二で自然消滅して別れた。


 それから五年が経つのだから、彼女は俺の記憶の中よりも大人びた女性になっているだろう。

 そんなことを思っていると、前からふらふらと足元が危なっかしい女性が歩いてきた。


 目を凝らしてよく見てみると、すぐに彼女だと分かった。


 心臓がドクドクと早まる。五年ぶりの再会に、俺の心臓は情けないくらい早鐘を打っていた。

 だけど、彼女の前だけは格好いい自分でいたかったから、余裕のある風を出した。


「ただいま、はなび」

 
 ◇


 完全に酔っ払っていたはなびを家まで送り届けることはほぼ困難に近かったけれど、何とか住所を聞きだしてたどり着けた。


「はなび、鍵ちょうだい」


 はなびをおんぶして結構な距離を歩いたから、正直体がもたない。


「んー、」


 はなびはうなるだけで鍵を差し出してくれない。


「ごめん、これは鍵を取るためだから……」


 一度断りを入れてからはなびのショートパンツのポケットに手を忍ばせると、鍵の触感がした。


 ……やっぱりな。ズボンのポケットによく家の鍵を入れるところは昔と変わってない。

 ドアの施錠を解き、はなびの部屋にお邪魔する。


 廊下を進み、リビングダイニングに入る。

 寝室はどこだろうと辺りを見回すと、扉が空いている部屋からベッドが見えた。


 俺はすぐにその部屋に入り、ベッドにはなびを寝かせる。
 はなびに布団をかけて、寝室から出る。


 これからどうしようかと考えていると、どうしようもない喉の渇きを覚えて、財布を手にコンビニへ向かった。


 はなびが住むアパートに近いコンビニで天然水を買い、急いで戻った。
 遠慮気味にドアを開け、中に入る。

 これ、普通に考えたら不法侵入だよな……。はなびに訴えられなきゃいいけど。
 少し心配しつつ、台所に半分以上飲み干したペットボトルを置いた。


 寝室からうなり声が聞こえたから、すぐに向かう。


 寝室に入り、他に座るところもなかったから恐る恐るはなびのベッドに腰かけた。

 それからすぐにはなびが眠そうに目を擦りながら起き上がったから、口から心臓が飛び出るんじゃないかと思うほど緊張した。
 はなびの視線が俺を捉えた時、ただでさえ大きな彼女の瞳がさらに見開いた。


「はなび」


 ずっと会いたかった彼女の名前を呼ぶ。


 ぼんやりとした様子で何も言わずに俺を見つめるはなび。
 心配になって顔色をうかがった。


「はなび、大丈夫?」

「……っかおる?」


 少しの沈黙の後、はなびは泣き出した。

 俺は内心どうしたらいいか分からなかったけれど、何とか頷いた。


「うん、そうだよ」


 はなびは眉をしかめ、唇を強く噛んだ。


「ばか、馬鹿! 今まで何一つ連絡もしなかったくせに、どうして今になって……っ」


 はなびの言っていることはもっともだ。俺は何も言い返せない。

 はなびが拳で俺の胸をポカポカと殴る。これが結構痛かったりする。


「……泣くなよ、はなび」


 結局そんなことしか言えなかった。
 ほんと、口下手すぎて笑える。


「っうるさいー」


 頬を流れる涙を拭おうと伸ばした手は、はなびに避けられて宙を切った。

 それだけのことにこんなにも胸が締め付けられる。


「はなび、俺、」

「いい。聞きたくない。あんたの言い訳なんて」


 どしんと背中にのしかかるはなびからの言葉。


「っそれでも、俺、はなびに謝んなきゃいけないことがあって」


 どれだけ拒否されたっていい。
 俺がはなびにしたことは、それ以上に酷いことだから。

 今さら後悔したって、もう遅いよな……。


 目の前には立派な社会人になったはなびがいる。
 昔と変わらず強くて、正直で。

 俺はもう、はなびに追いつくことはできないだろう。


 自分の弱さに勝てなかった俺は、もうはなびと一緒にいる資格なんてどこにもないのだろう。


 五年前の花火大会の日。

 俺がはなびとの待ち合わせ場所に来れなかった理由。


 それはあまりに情けなく、泣きたくなってくる。


「やめて! もう何も言わないでっ!」

「はなび……」


 縋るように彼女の名前を呼んでしまう。

 はなびがベッドから降りて、寝室から出て行こうとしたから思わずその手首を掴んだ。


 行って欲しくなかった。
 ただ、それだけ。


「……薫、手離して」

「……はなびが俺を許せないのはちゃんと分かってる。だからこそ、ちゃんと謝りたくて」


 話を聞いてもらえる自信なんてどこにもなくて、だけど気持ちだけは強く持ち、はなびの目を射抜いた。


「っ、知ったような口利かないで。ちゃんとちゃんとって、……ほんと何様?」

「はな、び」


 はなびを呼ぶ声が震える。
 頭は真っ白で、何も考えられなくなっていた。


「ごめん、本当にごめん。俺、何も言わずにいなくなっちゃって……」


「……わたし、何度も何度も薫に連絡した。電話だって何回もかけた。だけど、薫は出なかった。あんたのこと、本当に心配してたのに。……っ、大好き、だったのに」


 はなびの悲痛な声がすぐ耳元でして、苦しいほどにその気持ちが伝わってきた。

 罪悪感で心が苛まれる。


 はなびが俺の手を勢いよく振り放した。

 俺の手はあっけなく彼女の手首から離れ、力なく垂れ下がる。


 その手をぼんやりと見つめていると、さらに俺の心を締め付ける鋭い言葉が投げられた。


「もう帰って」

「……それ、本気で言ってる?」

「うん、本気だよ」


 俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。

 だけどすぐに思い至って、寝室から出る。
 すると、俺のペットボトルに口をつけるはなびの姿が視界の端に映った。


「あ、それ俺の」


 何も考えずに反射的に言った。


「っは⁉ これ、薫がもう飲んだやつだったの⁉」

「うん、そうだけど」


 慌てるはなびが何だかかわいくて、俺は少し気分が上がった。


「何、今さら間接キスしたこと気にしてんの?」


 からかうように言うと、はなびは唇を尖らせて言った。


「……そりゃあ、気にするよ。わたしたち、もう付き合ってないんだから」

「ははっ、意外とはっきり言うんだな」


 乾いた声で笑う俺を一瞥した後、はなびは鍵を持って玄関へ向かった。
 俺はすぐにその後を追った。


「どこ行くの? もう夜だし、危ねえよ」


 もう真夜中なのにはなびが外に出ようとしていたから、俺はどの立場から言っているのかも分からずにそんな心配をした。


「……、別にわたしがどこに行こうと薫には関係ないんじゃないかな」


 はなびからの鋭い指摘に、そうだよなと素直に思う。


「……ごめん。迷惑だよな」

「……うん」


 はなびは小さく頷いてから、俺に構わず外に出た。

 俺は慌てて靴を履いてその後に続く。


 階段を降り、駐輪場に行くとはなびが自転車を出しているところだった。

 その時に俺の中で良い考えが閃いた。


「……降りて」

「嫌だね」


 はなびの自転車の荷台に乗った俺は、いたずらっ子のように口角を上げてそう言った。


「ねえ、はなび。俺に少しだけ、はなびとの時間をくれない?」


 ダメ元での誘いだった。だけど俺は、どこか期待していた。

 はなびなら、俺の願いを聞き入れてくれるだろうと。


「……本当に少しだけだからね」


 その返事を聞いた時、信じられないくらい胸が熱くなった。目から涙が溢れ出そうになる。
 はなびに気づかれまいと俯き、その細い腰に腕を回した。


 はなびは歩道に出て、自転車を勢いよく漕ぎ出した。

 はなびの服も俺の服もバタバタと潮風に吹かれる。


 こんなにも近い距離にいるのに、この五年の年月の間に離れてしまったはなびの心にはもう触れられない。


 それが少し寂しくて、だけど自業自得だから現実を受け入れるしか他に選択肢はなかった。


「やっふーーーー‼」


 暗く落ちていた時に、そんな愉快な叫び声が聞こえて、自然と笑顔になれた。


「あはははっ。はなび、はっちゃけすぎ」


 はなびは俺を振り返って、目を細めて笑った。


 いつの間にかビーチに着いていて、どちらからともなく自転車を降りて全速力で砂浜を駆けた。


 すぐに息が苦しくなったけれど、楽しそうに俺から逃げるはなびを見ていたくて、暴れる心臓を必死になだめて走り続けた。


 中学三年の冬、俺たちは付き合い始めた。

 顔を真っ赤にしたはなびが俺に告白してきた時はさすがに驚いたけれど、ずっと気になっていた子だったからすぐにオッケーした。


 いつも姿勢良く授業を受け、誰かの悪口も言わず、自分を持っているところを好きになるのに時間はかからなかった。


 そして、高二の夏。
 自分の体に異変を感じ始めたのはこの時だったと思う。

 部活をしている時に、息切れすることが増えた。


 母親が俺を心配して病院に連れて行くと、そこで言われたのは信じがたい事実だった。


 ───『薫くん、もうサッカーをするのは辞めてください』

『あなたのお父様は、心臓病でしたよね。恐らく、お父様のご病気が薫くんにも遺伝したのだと思います』


 それが何を指すのかは分かりきっていた。

 つまり、俺は心臓病なのだと。


 突きつけられた事実はあまりに重くて、目の前が真っ暗になった。

 すぐに思い浮かんだのははなびの笑顔だった。


 俺はいつか、父親のように天国へ旅立つかもしれない。もしそうなれば、はなびはどんな思いをするだろう。


 想像するだけでも苦しくて、俺は沢山の葛藤の末決断した。


 はなびの目の前から忽然と姿を消すことを。
 遠い県の病院で治療を受け、療養しようと。


 そして、五年前の花火大会の日。
 はなびと約束していた待ち合わせ場所に向かう途中で、俺の心臓は暴れ出した。

 息ができなくて、前が見えなくて、ただ苦しかった。
 地面に横たわり、意識が朦朧としている時に思い出したのは、楽しそうに花火大会の計画を立てるはなびの横顔だった──。


 何も言わずに目の前から消えた男を、はなびはきっと恨むだろう。俺が病気になったことも知らないままでいたら、はなびが苦しむことはないだろうと。


 そう、思ったんだ。


「……もう、連絡を待つ必要がなくなったなあ」


 考え事をしていたら、横からそんな言葉が聞こえた。


「え……?」

「あ、ううん。ひとりごと」


 はなびはごまかすように愛想笑いを浮かべた。


「……ねえ、はなび」

「ん?」

「最後にさ、一緒に線香花火しない?」


 これは、俺の最後のわがまま。


 ◇


 線香花火はパチパチと燃え、火花が夜の風に吹かれては消えていく。


 どんなに明るく燃えようとも、いずれは消えて落ちる。それが線香花火だ。

 いつまでも続くと願いたいのに、現実はそう甘くいかない。


 はなびと肩を並べて帰り道を歩く。

 こんなことも今日で最後なんだと思うと、胸が張り裂けそうなくらい苦しい。

 だけど、これは俺への戒めだ。


 五年前、俺は弱くて、はなびから逃げた。

 だからもう、よりを戻したいなんて思う資格はない。


「……ここまででいいよ」

「……うん」


 はなびが立ち止まったから、俺も足を止めた。
 そして、訊くつもりはなかった質問をした。きっと、かすかな願望を抱いていたんだろう。


「……五年前に、俺が姿を消した理由、訊かないの?」


 ───俺が消えた理由を聞いたら、優しいはなびは同情してずっと側にいてくれるんじゃないか。

 ……って。


「うん、訊かない」


 はなびはまっすぐな目で俺を射抜いた。

 汚い願望を見透かされそうで、少し怖かった。


「……なんで?」

「だって、もしその理由が別れが惜しくなるようなものだったらたまったもんじゃないからさ」


「……ねえ、はなび」

「なに?」


 言おうか、言ってしまおうか。
 言えばきっと、はなびは───


「やっぱ何でもない」

「そっか」


 必死に抑えた自分の欲望。
 これは身勝手で、はなびを傷つけるものだ。

 ……だから、絶対に言っちゃいけないんだ。


「薫、今日は会いに来てくれてありがとう。さようなら」


 思い直せたことに安心し、去っていくはなびと後ろ姿に少し泣いた。
 遠ざかっていく小さな背中に、そっと呟く。


「はなび、本当にありがとう。俺、はなびとまた話せてよかった。……さようなら」


 この恋心だって、いつかは終わる。
 線香花火みたいに、煌めいて、最後は地に落ちる。


 だからもう少しだけ、好きという気持ちを心の中に大切にしまっておこう。



〔fin.〕