「アデル……」

 王都解放戦争中、シャイナの隣で〝ヴェイユの聖女〟ことアーシャ=ヴェイユが唐突に男の名を呟いた。それは悲痛さすら感じさせる程、辛そうな表情だった。
 アデル=クライン……アーシャ王女の想い人で、今どこかで苛烈な戦闘の中に身を置いている男の名だ。アーシャ達解放軍が何の問題もなく王都を攻められているのは、彼の御蔭であると言って良い。
 だが、アーシャはアデルがどこで何をしているかといったところまでは把握していない。彼女が知っている事とは、どこかで危険な事に身を置き、解放軍を陰ながら支援している、という事くらいなのだ。
 一方のシャイナは、今アデルが誰と戦っているのかについては知っていた。ルベルーズに発つ前夜、アモットが教えてくれたのだ。無論、王女には絶対に言うなよ、という条件つきではあるが。

「どうかなさいましたか? アーシャ様」

 シャイナは敢えて声をかけた。
 彼女がアデルを心配するのはわかっていたが、それでも今は他の事を考えていて良い状況ではない。何しろ今は交戦中なのである。彼女達は戦場の後方にいるが、それでもどこから襲われるかわからない。この場にいない男の事を心配していて良い場合ではないのだ。

「いえ……何でもありません」

 アーシャはシャイナに心配かけまいと、笑顔を作って首を横に振った。
 彼女の嘘はわかりやすい。眉根を寄せて無理に笑っている時は、大抵何かを我慢している時だ。それは彼女を幼き頃から見ていたシャイナであれば、すぐに見抜ける事だった。

「そうですか。では、アーシャ様は暫くここでお待ち願えますか?」

 そんな王女を見ていられなくなって、シャイナは一つ、決意する。
 シャイナはアーシャの護衛が任務であるが、ここには他の兵もいる。自分が離れたところで、さして影響はないだろう。

「シャイナ、どこに行くんですか?」

 細剣と弩を持つシャイナを見て、戦場へ向かう事を悟ったのだろう。アーシャは心配そうに彼女に訊いた。

「クルス王子にお伝えしておかなければならない話がありますので、彼の所へ行って参ります」
「すぐ戻ってきますよね?」
「もちろんです。暫しここでお待ち下さい」

 シャイナは弩に矢を装着し頷くと、そのまま戦場の前線へと走った。単独行動は許されていないが、やむなしだ。
 戦場の前線にはクルス王子がいる。彼女は王子にある事を伝えなければならなかった。今この瞬間で、この島のどこかでもう一つの戦いがある事を知っているのはシャイナだけだ。それがどこで行われているのかはわからない。
 しかし、その男だけは救わなければならない──シャイナはその様にも考えていた。なぜなら、その男とは彼女の主君が愛している男である。彼にもしもの事があれば、王女はこの解放戦争を起こした事そのものを悔やむだろう。それだけはあってはならないとシャイナは思うのだった。
 王都の攻略は順調だった。街の人々も建物の二階からグスタフ兵に向けて瓶や鉢植えを投げつけたり、解放軍を家の中に通してやり、グスタフ兵の背後から攻撃を仕掛けたりできる様協力的なのもあるのだろう。シャイナは敵兵に遭遇する事なく、前線へとたどり着く事ができた。
 前線に到着してからしばらく走っていると、亜麻色の髪の青年が見えた。解放軍の実質的なリーダー・亡国の王子ことクルス=アッカードだ。

「クルス様、失礼致します!」

 シャイナはクルスを見つけるや否や、彼の前に跪く。

「シャイナ……? 君がどうしてここにいるんだ。君はアーシャの護衛だろう? こんな前線まで出てきてどうする」

 アーシャの事を心配してそう言ったのか、自分の事を心配して言ってくれたのかは定かでは無いが、シャイナの頭上に叱責の声が飛んでくる。

「申し訳ありません、王子。しかし、お伝えしなければいけない事があります」

 シャイナは荒立った息を整えながら言った。

「まさか、後方で何かあったのか⁉」
「いえ、そうではありません。実は──」

 シャイナは知っている事を全て話した。
 アデル=クラインという男の事、そして彼が今この瞬間、ゾール教国の援軍を相手にたった一人で戦っている事。
 今解放軍がこうして順調に戦えているのはアデルの御蔭である事も含めて。

「何て事だ。ゾール教国の援軍が来ていたのか……!」

 クルスの顔に憎しみの色が広がっていく。
 彼から全てを奪い、その華麗な人生を狂わせた国の名だ。それも無理はなかった。

「僕とて今すぐ出向いてゾールの連中を叩いてやりたいが……シャイナは彼がどこで戦ってるかは知らないんだろう?」
「はい……申し訳ございません」
「それなら、どうしようもないな……誰が知ってるんだい?」
「リーン王妃の直属の部下であるアモットならば知っていると思うのですが、おそらく今は王宮の方の制圧に掛かっているかと」

 シャイナは目前にあるヴェイユ王宮を見る。
 おそらく今、城下町でクルス王子率いる解放軍が戦っている事を合図に、王宮内でも国王派の者達が立ち上がり、王宮内の制圧を行っているはずだ。
 その中心にいるのがアモットだ。彼は城兵に扮しているが、その実、リーン王妃の懐刀でもある。これを知っているのは、国王と王妃の近しい者だけだ。アモットは城兵という立場で、王妃の目と耳の役割を果たしているのだ。

「そのアモット氏がどこにいるのかさえわかれば良いですが、今は難しいでしょうなぁ」

 クルスの隣にいた老臣ガルロスが会話に入ってきた。

「それに、今は我らも猫の手を借りたい状況。そのアデル殿には気の毒ですが、耐えて頂くしかあるまい。それに〝漆黒の魔剣士〟アデルといえば、かなりの猛者と訊き及びます。恐らく大丈夫でしょう」

 ガルロスの言葉は、まるで他人事だった。
 実際に彼らにとってアデルの生死は他人事ではあるが、もし彼が抜かれれば解放軍の背を突かれる。この老臣は事の重大性がわかっていないのだ。

「猛者だから大丈夫だなんて……そんなわけがないでしょう⁉ それは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()が何故今この場にいるのか、その理由を考えたらすぐにわかるはずです!」

 シャイナは声を荒げて言った。
 老臣の言葉が正しければ、今この場にミュンゼル王国騎士団がいるはずがない。猛者であっても敗北したからこの国に逃げ込んできているのだ。猛者であれば大丈夫などという論理は通らない。

「むっ……シャイナ殿、それは聞捨てなりませんぞ! 我らミュンゼル王国騎士団とて何もせずゾール教国に敗れたわけでは──」
「だから! あなた達の様に強い騎士団ですら破れた相手を、彼はたった一人で相手にしているんです!」
「待て、シャイナもガルロスも落ち着くんだ。今はそんな事で揉めている場合じゃないだろう?」

 クルス=アッカードが慌てて仲裁に入る。
 ガルロスとて悪意があったわけではなく、シャイナを安心させる為に言った事はわかっていた。この老臣は言葉が上手くなく、よく相手に誤解を招く発言をしてしまいがちなのだ。
 クルスの仲裁に、二人は「申し訳ありません」と即座に頭を下げた。

「わかってくれれば良い。それに、シャイナ。これは僕の予想なんだが、そのアデルという人物は……アーシャの大切な人なんじゃないか?」

 クルス王子の予想外の言葉に、シャイナは目を見開いた。
 アーシャとクルス王子で何らかのやり取りがあった事を、彼女はこの時初めて知ったのだ。

「それは、間違いありません」

 シャイナは頭を下げたまま言った。もともと、彼女がここにいる理由もそれだ。アーシャにとって大切な人物だからこそ、彼女は救いたいと考えているのだ。

「あのアーシャ王女に、大義よりも()()()()()()を優先したい、と言わせた程の人物だ。そのアデルという人物とは、僕も会ってみたい」
「アーシャ様がその様な事を……」
「そのアモットという人物は僕の方でも探してみるし、部下にも指示しよう。その場所さえわかれば、すぐに増援に向かえる様に後方部隊から編成をしておいてくれ」
「御意」

 王子がそこまで言ってくれているのであれば、もう心配はない。シャイナはもう一度深々と頭を下げて、後方へと戻った。この事をいち早くアーシャに伝えてあげたかったのだ。