「わからないって、何がだい? 君はとても賢い女の子だ。僕の言っている事がわからないなんて事は、ないと思うんだけど……」
「はい、それはわかっています。クルス様の行っている事の偉大さも、そして正しさも、私自身もそこに参加すべきだという事もわかっています。でも……私には、どうすればいいのか、わからないんです」
「そこまで分かっていて迷う事の意味が僕にはわからないんだけど……」

 アーシャの言葉に、王子は益々困惑の色を顔中に広めていく。
 彼女の意図するところが全く読めないのだろう。それは王女自身でさえも自身の心理を理解できていないのだから、仕方の無い事だった。

「僕と一緒にアンゼルム大陸に渡ってゾール教国と戦っていれば、行方不明中の御父上とも会える可能性もある。ロレンス王がご健在であれば、僕らの名前に反応するはずだ。君は、御父上の生死が気にならないのかい?」

 クルスの言葉に、アーシャは首を振る。
 その瞳には、じんわりと涙が浮かんでいた。

「そうじゃないんです。お父様を探しに行きたいという気持ちもあります。でも同時に……私は、その同盟に参加すべきではないとも感じていて、それをどう伝えればいいのかがわからないんです」

 クルス王子は王女の言葉に首を傾げる。
 先程から、アーシャが何を言いたいのか、彼にはさっぱりわからなかったのだ。

「……? 何か、ここを去りたくない別の理由があるって事かい?」

 クルス王子の問いに、アーシャはこくりと頷いた。

「私の為に……命を懸けて戦ってくれている人がいます」
「それなら、ここにいる兵士だってそうだろ?」
「違うんです。そうじゃなくて……私と一緒にこれからを過ごす為に、命を懸けてくれてる人がいて……私は、自分の役目や役割よりも、その人と一緒にこれから先を過ごしたいって、思ってしまっています」

 アーシャの脳裏に、一人の男が浮かんでいた。
 大きな剣を持つ冒険者上がりの男だ。たまに汚い言葉を使うけれど、誰よりも彼女を大切にしてくれている男性で、そして、彼女が誰よりも大切に想っている男性でもある。

「なるほど……君は、その人に恋をしてるんだね?」

 クルスの問いに、アーシャははっとした。
 自分の中でもやもやしていた気持ちが、今の問いにより明確になっていく。そして、その感情に辿り着いた時、彼女は首を()()()()()

「いいえ、違います」

 それからゆっくりと顔を上げると、王子をじっと見据えた。『恋をしている』と王子から言われて、初めて自分の本心に気付かされたのだ。

「彼を……愛して、いるんです」

 迷っていた浅葱色の瞳を、決意が覆っていく。
 彼女はこれまで、どうして自分がクルス王子の話に前向きになれなかったのか、その理由がわからなかった。
 一国の王女としても、聖女としても、同盟軍に加わりクルスと共に戦う方が正しいのは明らかだ。しかし、彼女はそれに対してどこか気持ちが入らなかった。いや、拒絶すらしていたのだ。
 その理由が今わかった。それは、アデルを愛していて、アデルを愛しているからこそ、彼の傍を離れたくなかったのである。

「なるほど、愛してる、か!」

 クルス王子は膝を叩いてもう一度「なるほど!」と声を上げて笑った。

「それなら仕方ないね。愛ってのは理屈ではないと聞く。僕はそこまでの感情で誰かを好きになった事がないし、ましてや愛した事もなかったから、その気持ちはわからないけれど……でも、愛するっていうのは、そういう事なのかもしれないね」

 亡国の王子は頬を掻きながら、少し恥ずかしそうにして続けた。

「もしかすると、君に対してそんな気持ちを抱くんじゃないかとも思っていたんだけれど……うん、実はもう結構抱いてたりする」
「え、ええ……ッ⁉ 私にですか⁉」

 クルスの予想外の言葉に、アーシャが目を白黒とさせる。まさか亡国の王子こと若き英雄クルス=アッカードが自分に好意を持つなど、考えもしなかったのだ。

「そりゃそうだろう。僕は国も父も仲間も失って、心身へとへとなところに、綺麗になった幼馴染と再会したんだ。惹かれるなっていう方が無理だよ」

 いきなりの告白にどう返して良いかわからず、アーシャは顔を赤くして俯く。
 兵士達の中で、アーシャ王女とクルス王子はお似合いだ、二人が婚姻すればミュンゼル王国とヴェイユ王国で国交が生まれて確固とした絆となる、という声が上がっているのは彼女も知っていた。しかし、それはあくまでも兵士達の与太話で、本当に起こり得る話になるとも思っていなかったのだ。
 しかし、彼女には心に決めた人がいる。その気持ちには応えられない。それを伝えるべく、アーシャは深呼吸をしてから、クルス王子の方へと向き直った。

「ありがとうございます、クルス様。でも、それはきっと……気の迷いです」

 アーシャは優しい笑みを浮かべて、しかしはっきりと彼の気持ちを否定した。

「気の迷い? ひどいな。結構本気のつもりだったんだけどな」

 クルスも、ここまではっきりと否定されると思っていなかったのだろう。少し傷付いた表情をしていた。
 アーシャはそんな彼に対して続けた。

「きっと度重なる戦いと勝利に高揚しているだけで、それを恋と勘違いしてるんだと思います。でも、ちゃんと正気を取り戻す方法があるので、安心して下さい。知りたいですか?」
「そんな方法があるのか。それは、是非とも知りたいものだね」

 クルスも苦笑を浮かべている。先程、愛している人がいると聞かされたばかりなので、この後の流れをある程度予測しているのだろう。
 一方、アーシャは彼を見て悪戯げに笑っていた。王子が絶対に予想できないであろう言葉を彼女は用意していたのだ。

「はい。そういう時は……()()()()()()()()()()()みてはいかがでしょう? きっと体と共に頭も冷えて、冷静になれますよ?」

 アーシャのとんでもない言葉に、思わずクルスの顔がぽかんと固まっていた。
 一方のアーシャは、自分の言った言葉が面白かったので、くすくす笑っている。アデルやシャイナ以外の前で、初めて汚い言葉を口にしたのだ。しかも相手は一国の王子。彼女にとっても大冒険だったのである。

「えーっと……? 振られたのはわかるんだけど、まさか王女がそんな言葉を使うとは思わなかったよ」
「違いますよ、クルス様。私はクルス様を振ってなどいません。私はこうして汚い冗談を考えて一人で笑ってしまう残念な女なので、クルス様に相応しくないと言っているんです。女を見る目がありませんね?」
「なるほど、それで気の迷いか! 確かに、僕の女性を見る目はまだまだみたいだ」

 そうきたか、と言わんばかりに王子は膝を叩いて大笑いしていた。
 彼とて、こんな振られ方をするとは考えてもいなかったのだろう。汚い言葉を遣って自分を落としつつ、『振ってなどいない』と相手の自尊心をも気遣う断り文句を言う女など、そうそういるものではない。クルスとしては笑うしかなかったのだ。
 ひとしきり笑ってから王子が落ち着くと、アーシャは神妙な顔でクルスを見据えた。

「でも、本当にごめんなさい……。私は聖女である前に、国の王女である前に、一人の女だったんです。いいえ……きっと、女になってしまいました」
 
 ほんの数か月前のアーシャならば、大義の為に同盟に参加する道を選んでいただろう。いや、一か月前でさえも、そうだったのかもしれない。
 しかし、彼女は知ってしまった。どれほどの覚悟でアデルが自分を愛してくれていて、彼女の、いや、二人の望みを叶えようとしているのかを、知ってしまったのである。
 そうであれば、アーシャが採るべき選択肢は一つだ。
 それはもしかすると、〝王女〟や〝聖女〟としては誤りなのかもしれない。だが、少なくとも……アーシャにとっては正解だった。その確信が、彼女の中にはあったのだから。
 
「そっか、うん。わかったよ。そこまでその人を想ってるなら、僕には無理強いはできない」

 その代わり、とクルスは続けた。

「君がそこまで想う男性に興味がある。それに、君に汚い言葉を教えたであろう人にもね。よかったら、祝賀会で紹介してくれないか?」
「はい、もちろんです!」

 アーシャはクルス王子に笑顔で頷いて見せて、それから出発の日時の確認だけしてから別れた。
 銀髪の王女はヴェイユ王宮の方角を見ながら、大きく息を吐く。

(アデル……どうか無事でいて下さい)

 アーシャは心の中でそう呟き、胸に下げた大地母神フーラの十字架を強く握り締めた。