アーシャとシャイナがルベルーズ領に向かっていた頃──一隻の船が東の海を渡って、ヴェイユ島へと向かっていた。
 その船に乗っている男は、ミュンゼル王国の王子・クルス=アッカード。大陸の未来を担う、勇者である。
 クルス=アッカードは亜麻色の髪を揺らして、海をぼんやりと見ながらこれまでの戦いを思い出していた。
 彼はミュンゼル王国滅亡後に同盟国バルムスに逃げ込み、大陸六英雄〝海賊王〟バハヌスと共に、ゾール教国に対して徹底抗戦した。およそ一年もの間、ゾール教国と戦い続けたのだ。
 しかし、その努力虚しく、遂に戦線は崩壊。敗走するに至った。ゾール教国は大陸内で勢力を広め続け、そして新たな兵力を補給して、数でバルムス王国の戦線を突破したのである。
 大陸六英雄にして〝海賊王〟バハヌスは『お前がこの大陸を救え』とクルスに伝え、彼を逃す為に最後までバルムス王国に留まってゾール教国の侵攻を食い止めた。結果、クルス=アッカードの脱出は成功したが、〝海賊王〟バハヌスは戦死したとされている。
 そして、クルス達は今、海を渡って父王の盟友でもあったヴェイユ王国を頼り、グドレアン港に向かっていた。ミュンゼル王国の騎士団は壊滅し、今や若い騎士が百人程度。クルス王子達は僅かな生き残りのミュンゼル王国兵と共に、ヴェイユ王国の戦力を借りて、再度大陸をゾール教国から奪還しようと考えていたのだ。

「クルス様、こんなところにいらっしゃいましたか。どうかなさいましたか?」

 老騎士ガルロスが甲板に立っていたクルス=アッカードに話し掛けた。
 ガルロスはクルス王子の子守り役として幼き頃から彼に仕え、面倒を見てきた老騎士だ。ミュンゼル王国滅亡時、クルスや若い騎士達を生かせる為に無理に無理を重ねて、今や剣を握る事もできない体となってしまっていた。

「ガルロスか……いや、少し考え事をしていただけだ」
「考え事ですか。それはどのようなもので?」
「僕は父を失い、国を失い、そして父の親友であるバハヌスまで犠牲にしてこうして生き残りはしているけれど……果たして僕なんかが生きていて良かったのだろうか? もう自信が無くなってしまってね」

 クルスは船の柵に手を置き、大きく息を吐いた。
 彼は六英雄の父アルセイム=アッカードの血を引き、その才覚は父をも超えると謳われる優秀な王子だった。しかし、ゾール教国に攻め入られてからは敗戦に次ぐ敗戦。死なせてしまった仲間の数は、もはや数えきれなかった。彼はそんな自分が嫌になっていたのだ。

「なりませんぞ、クルス様。〝海賊王〟バハヌス様は自らの信念に従ってあなたを生かしたのです。それは私も同じですぞ。もう剣すら握れないこの体ですが、それはクルス様や若い衆に未来を託したからなのです」

 ガルロスは痙攣する右手をじっと見て言う。
 もはやまともに物も持てない程の握力しかない手、そして走る事のできぬ足……ガルロスは辛うじて日常生活ができる程度の体だ。しかし、それでも老騎士に後悔はないのだという。

「なればこそ、バハヌス様の意思を継いで打倒ゾール教国を目指すのがクルス様の使命。もしバハヌス様に対して申し訳ないと思うのでしたら、ゾール教国を打ち倒し、バルムス王国を取り戻す事でしょう」
「そうだな、ガルロス……ありがとう」

 クルス王子が弱々しく微笑むと、ガルロスががっはっはと大きく笑った。

「らしくありませんな、クルス様! もともと何でもできた王子です。今でもそれは変わらないと信じていますぞ!」
「ふふ……昔は何でもできると思ってたのに、できない事がこうも増えてくると、うんざりしてくるよ。でも、そうだな……僕は皆の無念を背負っているからこそ、諦めるわけにはいかないわけだ」
「その意気ですぞ、クルス王子!」

 王子と老騎士が話す中、遠くにヴェイユ島が見えてきた。
 彼が十歳の頃、父と共に訪れた島だ。ヴェイユ王国は治世が安定していて、治安も良い素晴らしい国だった。こんな国を目指すんだぞ、よく見ておけ、と父から言われたのをよく覚えている。
 王宮では小さな王女と遊んだのも、微かに記憶の中に残っている。彼女が健やかに育っていれば、十代半ば。どんな娘になっているだろうか、と少しそれが楽しみでもあった。

(とりあえず、戦争からは少し距離を置けるかな)

 そう考え始めると、クルスは少し気が休まる想いだった。
 彼はミュンゼル王国が攻め入られてからのこの一年半以上もの間、常にゾール教国と戦ってきた。気の休まった時等一度もない。
 しかし、大国ヴェイユは平和の象徴の国でもある。この国は今もゾール教国からの侵攻を受けたという話は聞いていないし、少しは英気を養えるだろう。

「なあ、ガルロス。ヴェイユ王国は僕らと共に戦ってくれるだろうか?」

 近付いてくる島を眺めながら、クルス王子が訊いた。

「ふむ……先のヘブリニッジ戦役でロレンス王は行方不明になり、その時に主力騎士団も壊滅したと聞き及びます。如何にゾール教国の脅威を訴えたとしても、説得は困難を極めるでしょうな」
「なるほど。まずはこの国の状況を把握するところから始めないといけないな」

 こうして、運が良いのか悪いのか、クルス王子は内戦へと入ろうとしているヴェイユ王国へと入ろうとしていた。
 そして彼はこの少し後に、ヴェイユの騎士達に追われているひとりの少女と女性騎士と出会う事になる。
 その時保護した少女こそが、彼が幼き頃に遊んでやったこの国の姫君で、今は〝ヴェイユの聖女〟と呼ばれているアーシャ王女その人であった。
 ヴェイユ解放戦争は彼ら二人の思わぬ再会によって、更に加速していくのだった──。