〝漆黒の魔剣士〟が王妃から()()を受けた日から、一週間が経過した。アデルは()()()()()()()()の為に、夜の王都を出て郊外に出ていた。
 寮で謹慎を命じられている身なので、本来はまずい事である。しかし、寮にいる兵士でアデルを咎める者などいないし、むしろ謂われもない罪で謹慎させられて憐れだと思われているので、彼を止める者など誰もいない。
 王宮兵団にグスタフ派の兵士はおらず、アデルがこの一年どれだけ国に貢献しているかも兵士達は知っている。そんなアデルを咎める者など、この兵団にはいなかったのだ。

(月が綺麗だな……)

 アデルが空を眺めてそんな事を考えていると、後ろから二つの足音が聞こえた。
 振り返ると、そこには〝ヴェイユの聖女〟ことアーシャ王女と近衛騎士シャイナの姿があった。シャイナは「私はあちらで待っていますので」と言って、少し先のところまで進んでいった。どうやら、二人だけで会話をさせてくれるらしい。

「忘れ物してないだろうな? 密書とか」

 何となく気恥ずかしい気持ちになり、アデルはそんな軽口を言った。

「もう。そんな大事なものを忘れるわけないじゃないですか」

 アデルの問いに、アーシャが少し頬を膨らませて答えると同時に、二人が噴き出した。
 今日は、アーシャが命令書を携えてルベルーズ領に向かう日だ。彼女がルベルーズ領に辿り着き、ダニエタン伯爵に命令書が渡った時点で内戦が勃発する。
 王宮兵団から兵士が流れ着いている事からも、ダニエタン伯爵はその意図に気付いているだろう。おそらくその準備を水面下で行っているはずだ。

「本当は俺が行ってあげたいんだけどな」

 そう言うと、アーシャは首を振る。

「アデルには、アデルの役割があるんでしょう? ただ移動するだけなら、私達だけでできますから」
「そっか。まあ、そうだよな」

 夜の草原に沈黙が走る。
 元冒険者の男と銀髪の王女が月夜を背景に、ただ見つめ合っていた。

「あの、アデル……?」
「ん?」
「アデルはお母様から何を任されているんですか?」

 銀髪の聖女は心配そうに想い人を見つめながら、意を決した様子で訊いた。

「……必要な事、さ。アーシャとこの国を守る為にな」
「そうですか……それは、とても危険な事、なんですよね?」

 少女は男をじっと見据えていた。
 その浅葱色の瞳からは逃れる事ができなくて、アデルもただその瞳をじっと見つめる。そして、こくりと頷いた。
 彼女が賢い娘である事はもう既知である。今更隠しても遅いだろう。

「俺にしかできない事なんだ。俺がやらなきゃ、アーシャ達の努力が、決意が無駄になってしまう。でも、安心してくれ。俺が命に代えてでも、必ず──」
「そんな事、言わないで下さい!」

 夜の草原に、アーシャの悲痛な叫び声が響いた。

「命に代えてでも、とか、そんな事を簡単に言わないで下さい。例えアデルの命と引き換えにヴェイユが平和になったとしても、アデルが死んでしまっては私にとってそれは敗北に他なりません。私の為だとか国の為だとかの為に、喜んで死にに行く様な事を言わないで下さい」
「アーシャ……」
「危なくなったら逃げて下さい。これは、私からの命令です。わかりましたか?」

 切なげに、そして涙を堪えながら、アーシャがこちらを見る。
 アデルはその命令に対して、首を()()()()()()()()

「えっ……アデル? どうして、ですか?」

 アーシャの顔に、絶望の色が広がっていった。自分の命令が拒絶されるなど、考えてもいなかったのだろう。
 しかしアデルは、そんな彼女に対して優しく微笑み掛けてみせる。

「今回の事はさ、王宮兵団としての任務じゃないんだ。だから、俺にはアーシャの命令に従う義務がない」
「任務じゃない……? どういう事ですか?」
「これはな、アーシャ。リーン王妃が俺に冒険者として依頼して、冒険者として報酬を貰う事を約束して依頼を受けたんだ」

 アデルは不安で泣きそうなアーシャの頬に手を当てて、その柔らかな頬を撫でる。

「そして……その報酬。それは、お前なんだよ、アーシャ」
「え……!?」

 そのアデルの言葉に、アーシャが驚いて顔を上げる。

「この国の騎士となって地位を確立してアーシャと婚姻するもよし、それが嫌ならアーシャを連れ去るもよし……俺がこの依頼を達成できれば、そのどちらもが可能になる。お前がこの前に望んでいた事が叶えられるんだ」
「そんな……ッ!」
「お前の望みを叶える為にも、いや、俺の望みを叶える為にも、俺は逃げるわけにはいかないんだ。だから、お前の命令でも従えない。ごめ──」
「アデル!」

 アデルが謝罪の言葉を言い終える前に、アーシャが彼の胸に飛びついてきた。

「あなたはバカです! どうして、そんな事の為にッ」
「そんな事、じゃない。俺にとっては大事だ。今の俺にとっては、何よりも大事な事なんだよ、アーシャ」
「でも、でも──ッ」
「アーシャ」

 アデルはアーシャの肩を優しく掴んで少しだけ屈んで彼女と目線を合わせると、優しく微笑み掛けた。

「アーシャ、俺はお前を愛している。お前を手に入れる為なら、何だってする。だから……お前はお前で、役目を果たせ。その後に待ってるのは、俺達が望んだ世界だ」

 アデルがそう言うと、彼女の浅葱色の瞳からぽろぽろと涙が零した。

「……それはずるいです、アデル。そんな事言われたら、私も頑張るしか、ないじゃないですか」
「知ってる。だから、頑張ろう。俺達の未来の為に」
「はい……わかりました」

 アーシャは頷くと、そっと瞼を閉じて、顎を少しだけ上げた。アデルは彼女のその頬に触れて、指で涙を拭ってから、そっと顔を寄せる。
 月夜の草原で、二人の唇が重なっていた。
 それは新たな誓約の口付けだった。
 互いの未来とこれからの為の誓約。そして、互いに与えられた役目を果たす為の誓約。
 二人はそれぞれの想いと誓いを互いに伝え合う為に、何度も口付けを交わした──。