海が二人の男女の視界の前に広がっていた。大剣を背負う剣士の男と、長い白銀色の髪が印象的な、聖衣を纏った少女の二人組だ。
 二人は身を寄せ合いながら、船からその海をぼんやりと見ていた。視線の先にはうっすらと陸地と港が見えてきていて、航路の終わりを告げている。
 アンゼルム大陸最西の港・ライトリー王国のイーザイツ港だ。
 現在このイーザイツ港は、先に上陸したミュンゼル=ヴェイユ連合軍によって解放されており、ゾール教国軍は全て追い出されている。
 また、ミュンゼル=ヴェイユ連合軍が上陸したと同時に、敗戦後に雲隠れしていたライトリー国王や諸侯達が一斉に蜂起。一度ゾール教国軍によって奪われた領土の半分以上を奪い返し、ライトリー王国の名を取り戻したのである。
 また、ライトリー王国も連合軍に加わり、連合軍はミュンゼル王国王子クルス=アッカードを盟主とする『フーラ連盟』へと新たに名を変えた。
 フーラ連盟はみるみるうちにライトリー王国の領土にいるゾール教国軍を蹴散らし、その勢いのまま東へと進軍。今は自由都市アイゼンでゾール教国軍との戦闘を繰り広げている。

「凄いな、クルス王子の奴。上手くやってるみたいだ」

〝漆黒の魔剣士〟ことアデル=クラインは、イーザイツ港に降り立つと、感嘆の息を漏らした。
 港は一度敵国に占領されたはずなのに、占領前とさほど変わらぬ程栄えていたのだ。

「クルス様はとても優秀な方ですから。きっと、ゾール教国の脅威からこのアンゼルム大陸を救ってくれると思います」

 海風に揺らされる白銀の髪を押さえて、〝ヴェイユの聖女〟ことアーシャは恋人の言葉に応えた。

「よく言うよ。そんな英雄の誘いを断っておいて」
「それは、言いっこなしです」

 アーシャは悪戯げに微笑むと、アデルの腕に自らの腕を絡ませた。
 アデルはクルス=アッカードと祝賀会で顔を合わせて、挨拶を交わしている。その際、クルスからはアデルにも連合軍に入って欲しいと頼まれていた。アデルさえいればアーシャも連合軍に入ると踏んだそうだ。
 クルスにとって、〝ヴェイユの聖女〟に同盟軍に参加してもらう事の恩恵はかなり大きい。聖魔法の能力の高さもそうだが、〝大地母神フーラの生まれ変わり〟との異名を持つ彼女が軍に参加していれば、それだけで兵士達の士気も上がる。彼としては何としても従軍して欲しかったのだろう。
 しかし、そこにアーシャの意思はない。アデルは彼女の意思を尊重したいとクルスに伝え、その誘いを断った。
 ただ、ロレンス王を探す為、アデル達も大陸に渡る旨は伝えてある。目的が合致した際には、惜しみなく連合軍に協力するつもりだ。クルス王子の方も、ロレンス王の生存が確認できたならば、連盟の声としてその生存を大々的に報告すると約束してくれた。
 クルス=アッカードが国を背負うに値する優れた人格者である事に間違いはない。彼を見ていると、やはり自分は国を背負う立場ではないな、とアデルは改めて実感するのであった。

「さて、それではアデル。私達はどこに行きましょうか?」

 アーシャが少し前を歩いてから、くるりとこちらを振り向いた。
 彼女は初めての船旅と、初めての大陸で普段よりも少し高揚している様だ。頬が紅潮していて、いつもよりその浅葱色の瞳を輝かせている。
 彼女は生まれてこの方、初めてヴェイユ島を出たのだそうだ。今も新しいものばかりが目の前に広がっているので、好奇心を抑え切れないのだろう。
 彼女の笑顔を見ていると、それだけでどこか心が暖まった気がしてくる。こうして彼女と接しているだけで、ヴェイユで負った傷が少しずつ癒えていっている気がするから不思議だ。

「そうだな……特にアテもないし、まずは俺が住んでいたランカールの町にでも行ってみようか」

 アデルの住んでいたランカールの町も、一度はゾール教国の支配を受けたそうだ。しかし、フーラ連盟が攻め込んできたと同時に隠れて勝機を待っていた冒険者達が一斉に蜂起し、ゾール教国軍を殲滅(せんめつ)。今はライトリー王国の領地に戻っているのだという。

「ランカールの町には顔見知りも多いし、情報も引き出しやすい。その中にロレンス王に関するものがあるかもしれない」
「はい、アデル! 質問ですっ」

 アーシャは余程気分を高揚させているのか、何故か生徒の様にぴっと手を上げて発言の許可を得ようとしている。

「どうかしたか?」
「お父様の情報も大事ですが、アデル達の住んでいた町も見て見たいです」

 アーシャは挙げた手を降ろすと、そう言った。
 笑顔を保ってはいるものの、どこかその表情には緊張が伺える。

(俺達、か……なるほどな)

 そこで、アデルは先程から少しテンションが高めな王女の真意に気付いた。
 彼女はアデルに気を遣ってくれているのだ。そして、それは彼だけでなく、彼の元恋人(フィーナ)に対しても。
 わざわざ生徒の様に振舞って幼い少女を演じているのも、きっとそれが狙いだろう。アーシャは、アデルができるだけ明るくいれるように振舞っているのだ。

(全く……この王女様ときたら)

 アデルはその気遣いに感謝しつつ、小さく息を吐いて「わかったよ」と肩を竦めた。

「どの程度残ってるかわからないけど、見に行ってみるか。ボロボロでも文句言うなよ?」

 一年以上も経っている上に、ゾール教国軍の支配も受けていた町だ。まともな状態で残っているとは思えなかった。
 ただ、思い入れがある町でもある。どうなっているのか、知っている顔は無事なのか、気にはなっていた。

「それでもいいんです。アデルの住んでいた町、アデルがこれまで見てきた景色を、私も見てみたいですから。それに、もしその町の人達が困っているなら、まずはそこを救う事から始めたいなって……変でしょうか?」

 どうやらアーシャは自らの父君探しよりも、アデルの住んでいた町の復興の方を優先したいらしい。或いは、彼の過去やこれからを背負う為には、それが必要だと考えているのかもしれない。
 王女の真意は未だ読めないが、アデルの事を誰よりも想っている女である。きっと、これも彼女なりの意味があるのだろう。

「いや、アーシャが変人なのは最初からだ。気にする事ないさ」
「なんですか、それ。女の子に向かって変人だなんて、ひどいです」

 アーシャはそう言いながらも、アデルの腕へとまた飛びついてきて、太陽の様な笑顔をアデルに向けた。ひどいと言いながら、全く怒っている様子などなかった。
 その笑顔に、アデルは多大な幸福感を得ていた。いや、その幸福感を以てして過去の傷を癒している、という表現が正しいのかもしれない。
 彼は仲間に裏切られて殺されかけ、更には当時の恋人をその仲間に寝取られた。そして、その恋人はその事実を知って、彼の目の前で自害をした。この一連の出来事で彼が負った心の傷は大きい。
 だが、それでも……この太陽のごとき笑顔が傍にあるからこそ、彼は心を保ってられた。そして彼女の笑顔を守りたいと願うからこそ、今こうして前を向けているのである。
 出会ってからずっと、彼女には救われてばかりだ。

「……アデル?」

 アーシャは唐突に立ち止まったかと思うと、アデルの名を呼び、彼を見上げた。
 先程の高揚感はどこへやら、彼女の表情は憂色を帯びていた。

「アデルは以前、自分の人生を()()()()()()()()()()の上をごろごろ寝転がってる様なものだ、と例えていました。今もそれは変わってませんか?」

 お気に入りの汚い言葉を遣って茶化してはいるものの、その声色からは彼女の不安が感じられた。
 心優しい彼女の事だ。もしかすると、自分と出会った事で辛い道を歩ませてしまっているとどこかで感じているのかもしれない。

(ほんと、バカだな……そんなわけないのに)

 アデルは小さく嘆息してから、「懐かしい話をするな」と笑った。もし彼女がそう考えているのであれば、それだけは否定しなければならない。
 彼は少しだけ言葉を考えると、こう続けた。

「そうだな……()()()()()()()()()()の上を歩いてたら、変わった女神様が舞い降りてきてさ。そいつに会ったら最後、俺の人生そのものが変わってたよ」

 アデルはそう言って、()()()()()()()を見下ろした。
 アーシャはどこか安堵した様に笑みを浮かべると、彼の顔をじっと見上げてから少しだけ背伸びをして、瞳を閉じた。
 そのままアデルも顔を寄せて、二人の唇がそっと重なり合う。波の音と鴎の声、そして海風だけがそっと二人を祝福していた。
 唇を離すと、少女が幸せそうにはにかんでいる。その笑顔を見ていると、自然とアデルも笑みが漏れた。
 彼女が横にいる限り、その様な人生にはなり得ない──その笑顔を見ていると、自然とそう思えるのだった。
 アデルの心の傷は、未だ癒えてはいない。だが、その傷はきっと、彼女と過ごす日々の中で自然と癒えていくだろう。アーシャの笑顔には、そう確信させる何かがあった。
 二人は微笑み合って手のひらを重ね合わせると、港街へと進んでいく。
 〝漆黒の魔剣士〟アデルと〝ヴェイユの聖女〟アーシャの幸せへの物語は、ここから始まったのだ──