空は青く晴れ渡っていた。
 王宮近くから海を見渡せる高台には、ひとりの少女が立っている。白銀色の髪と、浅葱色の瞳を持つ美しい少女だ。
 彼女の名は、アーシャ=ヴェイユ。この国の王女にして〝ヴェイユの聖女〟の異名を持っている。
 彼女の目前にはヴェイユ島と海が広がっていて、今日は天気が良い事からうっすらと水平線まで見る事ができた。
 波は穏やかで風も心地良く、僅かな潮の香りが彼女の鼻を擽る。空の上を鳥達が気持ち良さそうに羽ばたいていて、つい数週間前までこの島で内戦があった事など、全く信じられなかった。
 しかし、その内戦の跡は未だ色濃く残っており、眼下に見える王都からは建物を修繕する音が未だ響いている。家族や大切な人を失った多くの人々は未だ悲しみに暮れていて、それは彼女の恋人も例外ではなかった。

「……こんにちは、フィーナさん」

 アーシャが柔和に微笑んでそう語り掛けると、それに応える様に柔らかな風が吹いた。まるで風の妖精が優しく語り掛ける様な風が、彼女()を優しく包む。

「ヴェイユの眺めは如何(いかが)ですか? ここ、私のお気に入りの場所なんです」

 フィーナさんにも気に入って頂けていると良いのですが、と王女は付け足して、小さく息を吐いた。
 しおれてしまった花を花瓶から引き抜くと、古くなってしまった水を取り替える。それから新しく町で買ってきた花束を立てて、そっと彼女の前に添え直した。

「フィーナさんは紫色のお花が好きだったと伺いましたので、色も紫で統一してみました。あと、焼き菓子も作ってきたので、よかったら食べて下さいね」

 アーシャは花瓶の横に自作の焼き菓子を並べ、その石にそっと触れて瞑目する。
 そこには、『フィーナ=メルクーリ』と名が刻まれていた。彼女は未だ話した事のない女性の事を想いながら、小さく彼女が信仰する神の御名を呟く。
 ここは、アデルの元恋人・フィーナが眠る場所だ。
 この墓はアーシャが特別に作らせたものだった。しっかりと墓石が積まれていて墓標もあり、簡易的ではあるが墓の体裁は保っている。
 今回のヴェイユ解放戦争では、多くの死者が出た。その多くがアーシャを始めとした大地母神フーラに仕える神官達によって清められ、弔われている。
 だが、国を二分するほどの内戦だ。死者の数は多く、その全てに墓を作る事は不可能だった。その為、戦没者達は同じヴェイユの民として墓苑を作り、共に供養されている。それはアデルによって葬られたライトリー王国の者達も同じだ。
 その中で、このフィーナ=メルクーリの墓だけが唯一個人として弔われている。
 これは、アーシャの我儘だった。もともとフィーナは内戦に加担しているわけではなかったし、不幸に次ぐ不幸の中、絶望の果てに自ら死を選んだ。そんな彼女だからこそ、アーシャはしっかりと自らの手で弔い、そして供養したいと考えたのだ。

「前回から日を空けてしまってすみません。王女としての務めが思ったより残っていて、忙しかったんです。怒らないで下さいね」

 アーシャは嘆息すると、彼女の横に腰掛けた。
 先程『王女としての務め』と自身では言ったが、彼女は自身をもう王女だとは思っていない。無論、形式上はこれまでと変わりなく王女なので、そう接されてしまうのは仕方のない事ではあるのだが、王女だった者と自分では思っている。今は、愛する男と共に過ごす為、その身分を捨てた女だ。

「代わりと言っては何ですが、良い知らせを持ってきました。クルス様がライトリー王国を解放したそうです。まだ全ての領土を取り戻したわけではないそうですけど、お二人が住んでいたランカールも、今頃解放されているのではないでしょうか」

 アーシャは独り言の様に、状況を説明した。
 ミュンゼル王国の王子・クルス=アッカードに率いられた〝ミュンゼル=ヴェイユ連合軍〟は、ライトリー王国に上陸するや否やゾール教国軍を駆逐し、当該王国を解放した。
 伝書鳩だけの情報なので詳しい戦況はわかっていないが、これから彼はこのアンゼルム大陸に覆う闇を払う英雄となるであろう。それは、共に解放戦争を戦ったアーシャがよくわかっている。
 本来であれば、〝ヴェイユの聖女〟として彼女もクルスと共に戦うべきだった。だが、彼女は別の道を選んだのである。

「それで……私達も大陸への上陸が可能となったので、明日ここを発つ事になりました。暫く寂しい想いをさせてしまうかもしれませんが、ちゃんと侍女にお墓の世話はする様に伝えておきましたので」

 安心して下さいね、とアーシャは付け足して瞳をゆっくりと開いた。
 目の前には先程と変わらぬ青空が広がっている。波も空も、島も、そして王都から漏れてくる修繕の音も、変わっていない。
 彼女は先程よりも大きな溜め息を吐いて、恋人・アデル=クラインを思い浮かべた。
 解放戦争以降、アデルの表情は暗い。王宮の応接室で再会した頃よりも更に暗く、陰鬱な表情となっていた。
 その原因は、この墓石の下で眠るフィーナ=メルクーリだ。
 今回アデルが負った傷は重く、未だ回復の兆しはない。無論、身体の方は何ともないのだが、問題なのは心の方の傷である。
 アーシャの前では元気に振舞っているが、少し目を離せば表情を沈ませて、どこか遠くを眺めている。元恋人(フィーナ)の死についての自責の念を、未だ拭いきれていないのだ。
 その為か、アデルは未だこの場所を訪れていない。今日も一緒に行かないかと誘ったのだが、力なく笑って首を横に振っただけだった。

「本当の事を言うと……私、あなたには結構怒ってるんですよ?」

 アーシャは不機嫌さを隠さず、咎める様な口調で続けた。

「あんなの……アデルが可哀想じゃないですか。これからもずっと苦しんで、責任を感じて……呪いみたいに過去に縛られて。あなたはアデルにそんな未来を歩いて欲しかったんですか? ずっと縛り付けて、それで満足なんですか? そんなの、あんまりです……卑怯ですよ」

 アーシャは膝を抱え込み、抱えた膝に額を押し付けた。
 この墓石の下で眠る女性は、元恋人(アデル)の前で腹を切って自害した。それによってアデルが負った傷の深さは計り知れない。
 元恋人とは言え、正確な別れが訪れたわけでもなく、ただ第三者に引き裂かれた関係だった。自分の選択次第では助けられたかもしれない命だった事もあり、彼は今もそれを悔やんでいるのだ。
 これではアデルはずっと自身の選択を悔やみ続けて生きなければならなくなる。もっと他にやりようがなかったのか、とアーシャは内心怒りを覚えたものだった。
 聖女と讃えられるアーシャだが、そんな彼女にとっても最も治療が困難なのが、この心の傷だ。
 どんな聖魔法を用いても心までは届かない。心の傷だけはその傷が癒えるまで共に寄り添い、本人がその傷を受け入れるまで待つしかないのである。
 アデルには、一緒にその傷も背負いたいと伝えた。ただ、果たして本当に背負えるのかというと、自信はない。
 だが、自信はなくても絶対に背負わなければならない──アーシャはそう心に強く決意していた。
 本来であれば死んでいたはずのアデルを治療し、この国に導いたのは他ならぬアーシャだ。フィーナの結末に自分が全く関わっていないかというと、そうではない。彼女が別の言葉をアデルに掛けていれば、結末は変わっていたのかもしれないのである。
 しかし、今更それを言ったところでどうしようもない。過去は変えられず、そしてアーシャはアデルに傍にいてほしいという願いを叶えてしまったのだから。
 この結末がわかっていても、自分は同じ事を彼に伝えていただろうと思う。それほどまでに、彼女にとってもアデルはかけがえのない存在だったのだ。

「あなたが苦しかったのも、そうせざるを得なかったのもわかります。でも……その傷を癒す私の身にもなって下さい。聖女だなんだと謂われても、簡単に治せない傷だってあるんですよ……?」

 誰にも吐いた事のない弱音を、聖女はこっそりと吐露して大きな溜め息を吐く。
 無論、フィーナの行動の動機についても、アーシャは理解しているつもりだった。自害は大地母神フーラの教えでは禁忌とされていて、決して許される行為ではない。しかし、それでもこのフィーナの歩んだ生は、あまりに過酷で憐れだった。
 仲間だと思っていた男に恋人の命を狙われ、(あまつさ)えその男の口車に騙されて身体を明け渡してしまい、子まで身籠ってしまったのだ。彼女の立場を想えば、それだけで心が張り裂けそうになる。
 まだアデルの生存を知らなければ、別の生き方があったかもしれない。再会しなければ、真実を知らなければ、お腹の子と生きようと思えたかもしれない。それはそれで、彼女に母としての喜びを与えて、新たな生きる糧となっただろう。
 しかし、再会してしまった。真実を知ってしまった。それらを経てしまえば、自分という存在をとことん嫌悪し、自害の道を選ぶ気持ちもわかってしまうのだ。
 アーシャ自身は敬虔な大地母神フーラの信者の身なので、自決には否定的である。しかし、それでもフィーナの気持ちを理解できてしまうのだ。それはきっと、同じ男を好きになってしまった者だからこそである。
 アデルは純粋で優しい人間だ。だからこそ、自身がとてつもなく穢れてしまった様に思えて、そんな自分に耐えられなくなってしまったのだろう。ましてや、彼の瞳の中に別の女性がいれば尚更だ。
 そして、そこまで絶望してしまったならば……きっと、愛した男の腕に抱かれて最期を迎える事が、そしてその男の記憶に残る事が、彼女にとっての唯一の救いである事だと理解できてしまうのだ。それが絶望の中を一年ほど歩いてきて、最後に辿り着いた彼女の幸せだったのである。

「すみません、少し愚痴ってしまいました。こんな事ではダメですね……先が思い遣られます」

 アーシャは嘆息して苦笑いを浮かべると、聖衣の裾を押さえて立ち上がった。
 青い空に向かって大きく伸びをして、深呼吸をする。

「ちょっと弱音を吐いてしまいましたけど……アデルの事は私に任せて下さい。まだまだ力不足なところもありますけど、私がアデルを支えます。そう、誓いましたから」

 それがアデルをこの国に導いた自分の責務だと思っていた。いや、彼を愛し、愛しているが故に、自分がそれを成し遂げなければならないのだ。それは神への信仰以上に強い信念だった。
 どれだけ時間が掛かろうとも、どれだけ彼の苦しみが重くとも、共に背負って、共にその重みを分かち合って、支えたい──それがアーシャの信念だった。

「全てを終えてヴェイユに戻ってきたら、また来ますね。その時にはきっと、アデルも一緒にここに来れると思いますから」

 アーシャはそう言って、もう一度墓標を撫でた。
 彼女はフィーナとはもちろん面識はない。ここまでする義理も義務もない。だが、同じ男を愛した身として、どうにも彼女を他人とは思えなかったのだ。
 もし可能であれば、話したいと思う。自分が知らないアデルの事を聞いてみたかった。だが、それを聞いたらきっと嫉妬して八つ当たりしてしまいそうだ。女心とは実に複雑なのである。

「それまで……私達を見守っていて下さいね」

 何度か墓標を撫でると、最後にもう一度だけ大地母神(フーラ)の名を呟いてから、踵を返した。
 その時である──
 少しだけ強い風が吹いた。アーシャは咄嗟に目を瞑って、髪と聖衣の裾を手で押さえる。
 その際、風に乗って背後から女の声が聞こえてきた気がした。

『手間ばかり掛けさせてごめんね。アデルの事……あなたに任せたから』

 アーシャははっとして後ろを振り返った。
 そこには先程と変わらぬ墓石と、フィーナの名が刻まれた墓標があるだけだ。だが、その横に金髪碧眼の美しい女が立っている──様な気がした。
 アーシャは柔らかく微笑むと、小さくお辞儀をして、こう返した。

「はい、任せて下さい。アデルは私にとっても、大切な人ですから」