「私……その、フィーナさん、って人の気持ち、ちょっとわかっちゃったりします」
アデルが落ち着いた頃合いに、アーシャがぽそりと言った。
「わかるって、どういう意味だ?」
アデルは隣り合わせになって、ベッドに腰掛けているアーシャに訊いた。
今では頭痛も収まり、起き上がる事も問題なかった。アデルがベッドに腰掛けると、アーシャが隣に座ってきたのだ。
王女に気を遣っているのか、或いは部屋への立ち入りを禁じられているのかはわからないが、アデルが目覚めてからこれまで、誰かがここに入ってくる事はなかった。
「はい。その……もし、私がフィーナさんの立場で、アデルが生きている事を知らなくて……それで、その悲しみから逃れる為に別の男性に抱かれていたら。ましてやそれで子を宿してしまっていて、その後にアデルの生存を知ってしまったら……きっと、耐えられません」
「アーシャ……」
「その方もアデルの事が大好きだったんだと思います。大好きだから、辛くて、逃げたくて、でも忘れたくもなくて……どうしていいかわからなくて、ずっと苦しんでいたんじゃないでしょうか」
「……かもしれないな」
アーシャの言葉に、アデルは同意した。
思えば、以前ランカールの町に一度帰って、オルテガとフィーナのまぐわいを見てしまった時も、フィーナはアデルにずっと謝っていた。
それは、本当はこんな事はしたくないけれど、薬と快楽に逃げなければ耐えられない程の悲しみに襲われていて、罪悪感と悲しみの狭間で苦しみ続けていたのではないだろうか。
あの時はアデル自身にも余裕がなかったからそこまで頭が回らなかった。しかし、今になって思えば、あの謝罪の意図はそういう事だったのかもしれない。
「本当のところは、私には難し過ぎてわかりません。でも、きっと……同じ立場だったら、私も同じ事を考えた気がします」
アーシャは誰に言うでもなく、独り言の様に言った。
大地母神フーラの教えでは自害は禁忌とされている。そして、彼女は大地母神フーラの敬虔な信者だ。『同じ事を考えた』と言葉を濁しているが、彼女の口から自害を仄めかす言葉が出てきた事はかなり重い。
もしフィーナが本当にオルテガを愛せていたら、結末は変わっていたのかもしれない。その子を産もうと思えたのだろう。
しかし、オルテガは彼女の最愛の人を殺そうとしていて、剰えその暗殺は自分を得る為だった。まんまとそれに騙され、悲痛から逃れる為に体を明け渡してしまっていたと知った時のフィーナの絶望は計り知れない。
フィーナの自害は、アデルからすれば悲劇に他ならない。しかし、彼女にとってはあれが一番の救済だったのではないだろうか。
オルテガが死んだから良し、というわけでもない。その子を産めば、オルテガの面影と共に生き続ける事になる。自らの裏切りの証として、彼の子が残るのだ。
自らの子を見る度自分の裏切りを自覚し、自分の幸せを奪った憎き男の姿を思い出す。そして失ってしまった恋人と幸せについても思い出してしまう。その子を愛せるのかというと、それは彼女にとっては難しい。
無論、それでも子を産んで愛するのが母としてはそれが正しいのかもしれない。だが、フィーナの性格を鑑みれば、そんな自分を彼女が許せるはずがないのだ。きっとあのまま生きていれば、彼女はずっとその苦しみを背負って後悔と共に生きていただろう。
そうまでして生きろとは誰も言えない。言葉を濁してはいるものの、アーシャもきっと心の中ではそう思っているのだ。
ここで『敬虔な信者なら自害などすべきではない』等と模範的な聖職者の様な綺麗事を持ち出さないのは、彼女が思慮深く賢明であるが故である。彼女は宗教が持つ矛盾をもしっかりと理解した上で、聖女の立場に身を置いているのだ。
「バカだな。アーシャがあいつの事で苦しむ必要なんてないんだ。オルテガの事も、フィーナの事も、全部俺の問題だろ? そこまで背負う必要なんてない」
「違います。必要とか、不要とか、そういう話じゃありません」
アーシャはアデルをじっと見据えた。
その浅葱色の瞳はキラキラしていて、吸い込まれそうな程に綺麗で、その瞳を見ているだけで傷付いた心が少し癒されていっている気がした。
「私が背負いたいんです。アデルの辛かった事も、苦しかった事も、悲しかった事も、もちろん嬉しかった事も……全部一緒に背負って、一緒に歩いて行きたいんです」
「アーシャ……」
「だから、アデルを一人でなんて苦しませません。アデルが苦しいのなら、その苦しみを取り除いてあげられないなら、せめて私も一緒に苦しみます。私にできる事なんて、それくらいしかありませんから……」
その切なげで献身的な態度にアデルは再び胸がぐっと熱くなって、思わずアーシャの肩を抱き寄せて、感謝の気持ちを述べた。しかし、彼女は「御礼なんて要りません」と首を横に振った。
「でも、その代わり……約束して欲しい事があります」
アデルから少し身体を離して、再度彼の瞳をじっと見上げた。
「もう二度と……自分の命を捨てる様な真似はしないで下さい」
アーシャの表情は真剣そのもので、その瞳からは拒絶は絶対に許さないという強い意志を感じさせられた。
「アデルがゾール教国軍の援軍の足止めを一人でしていると聞いて、私、泣いてしまいました。いくらアデルが強いと言っても、絶対に助からないって……もう二度とアデルと会えないって、思いました。あんな悲しい想いをするのは、もう嫌です。絶対、嫌なんです……ッ!」
最後の方は涙声になっていて、先程乾いたはずの涙がまた彼女の瞳から溢れ出す。
「ごめん、もうしない。それは約束する」
アデルは彼女の涙を拭うと、強く抱き締めてそう誓った。
アーシャがフィーナの気持ちがわかると先程言った理由が、少しだけわかった気がした。
彼女もまた、アデルの死を予感したのだ。五〇人の正規軍相手に単騎で生き残るなど、普通は不可能に近い。
今回アデルが生き残れたのも、ただただ運が良かっただけである。敵軍が元ライトリー王国の兵士でなければ、ゾール教に洗脳されていて、それらを操る司教が同行していれば、或いは元ライトリー王国軍の士気が高く、オルテガと一緒になって襲い掛かってこられていたならば……アデルは間違いなく死んでいた。
アデルの死を一度はアーシャも考えたからこそ、アデルの死によって絶望したフィーナの気持ちも想像できたのではないだろうか。
「アデルの言葉は信用できません」
アーシャは鼻を啜ると、少し拗ねた様に口を尖らせた。
「そんな事言われても……もうしないって」
「じゃあ……誓って下さい」
「誓う?」
「はい。ここに、誓って欲しいです」
アーシャはそう言って瞳を閉じると、少しだけ顎を上げた。
いつぞやの様に、唇に誓え、という事らしい。
「ああ……わかった。誓うよ」
アデルはそう言ってから、アーシャの方に顔を寄せて──唇を重ねた。
彼女の吐息と、柔らかい唇、そして薄い唇から伝わってくる僅かな熱を彼女から感じ取って、その瞬間アデルは初めて、自分が生還した事を実感した。
そのまま何度も何度も、その誓いは絶対だと言わんばかり、そして今自分は生きているんだと実感したいが為に、唇を重ね合った。
アーシャは相変わらず涙を流したまま、アデルの首根っこを掴んでは一生懸命にその口付けに答えた。舌を絡ませ、見つめ合い、そしてまた口付けて、舌を吸い出し、絡め合う。それは、アデルの生存を口付けを通して確かる様でもあった。
二人はそれから時間の許す限り、新たな誓いを重ね続けた。
アデルが落ち着いた頃合いに、アーシャがぽそりと言った。
「わかるって、どういう意味だ?」
アデルは隣り合わせになって、ベッドに腰掛けているアーシャに訊いた。
今では頭痛も収まり、起き上がる事も問題なかった。アデルがベッドに腰掛けると、アーシャが隣に座ってきたのだ。
王女に気を遣っているのか、或いは部屋への立ち入りを禁じられているのかはわからないが、アデルが目覚めてからこれまで、誰かがここに入ってくる事はなかった。
「はい。その……もし、私がフィーナさんの立場で、アデルが生きている事を知らなくて……それで、その悲しみから逃れる為に別の男性に抱かれていたら。ましてやそれで子を宿してしまっていて、その後にアデルの生存を知ってしまったら……きっと、耐えられません」
「アーシャ……」
「その方もアデルの事が大好きだったんだと思います。大好きだから、辛くて、逃げたくて、でも忘れたくもなくて……どうしていいかわからなくて、ずっと苦しんでいたんじゃないでしょうか」
「……かもしれないな」
アーシャの言葉に、アデルは同意した。
思えば、以前ランカールの町に一度帰って、オルテガとフィーナのまぐわいを見てしまった時も、フィーナはアデルにずっと謝っていた。
それは、本当はこんな事はしたくないけれど、薬と快楽に逃げなければ耐えられない程の悲しみに襲われていて、罪悪感と悲しみの狭間で苦しみ続けていたのではないだろうか。
あの時はアデル自身にも余裕がなかったからそこまで頭が回らなかった。しかし、今になって思えば、あの謝罪の意図はそういう事だったのかもしれない。
「本当のところは、私には難し過ぎてわかりません。でも、きっと……同じ立場だったら、私も同じ事を考えた気がします」
アーシャは誰に言うでもなく、独り言の様に言った。
大地母神フーラの教えでは自害は禁忌とされている。そして、彼女は大地母神フーラの敬虔な信者だ。『同じ事を考えた』と言葉を濁しているが、彼女の口から自害を仄めかす言葉が出てきた事はかなり重い。
もしフィーナが本当にオルテガを愛せていたら、結末は変わっていたのかもしれない。その子を産もうと思えたのだろう。
しかし、オルテガは彼女の最愛の人を殺そうとしていて、剰えその暗殺は自分を得る為だった。まんまとそれに騙され、悲痛から逃れる為に体を明け渡してしまっていたと知った時のフィーナの絶望は計り知れない。
フィーナの自害は、アデルからすれば悲劇に他ならない。しかし、彼女にとってはあれが一番の救済だったのではないだろうか。
オルテガが死んだから良し、というわけでもない。その子を産めば、オルテガの面影と共に生き続ける事になる。自らの裏切りの証として、彼の子が残るのだ。
自らの子を見る度自分の裏切りを自覚し、自分の幸せを奪った憎き男の姿を思い出す。そして失ってしまった恋人と幸せについても思い出してしまう。その子を愛せるのかというと、それは彼女にとっては難しい。
無論、それでも子を産んで愛するのが母としてはそれが正しいのかもしれない。だが、フィーナの性格を鑑みれば、そんな自分を彼女が許せるはずがないのだ。きっとあのまま生きていれば、彼女はずっとその苦しみを背負って後悔と共に生きていただろう。
そうまでして生きろとは誰も言えない。言葉を濁してはいるものの、アーシャもきっと心の中ではそう思っているのだ。
ここで『敬虔な信者なら自害などすべきではない』等と模範的な聖職者の様な綺麗事を持ち出さないのは、彼女が思慮深く賢明であるが故である。彼女は宗教が持つ矛盾をもしっかりと理解した上で、聖女の立場に身を置いているのだ。
「バカだな。アーシャがあいつの事で苦しむ必要なんてないんだ。オルテガの事も、フィーナの事も、全部俺の問題だろ? そこまで背負う必要なんてない」
「違います。必要とか、不要とか、そういう話じゃありません」
アーシャはアデルをじっと見据えた。
その浅葱色の瞳はキラキラしていて、吸い込まれそうな程に綺麗で、その瞳を見ているだけで傷付いた心が少し癒されていっている気がした。
「私が背負いたいんです。アデルの辛かった事も、苦しかった事も、悲しかった事も、もちろん嬉しかった事も……全部一緒に背負って、一緒に歩いて行きたいんです」
「アーシャ……」
「だから、アデルを一人でなんて苦しませません。アデルが苦しいのなら、その苦しみを取り除いてあげられないなら、せめて私も一緒に苦しみます。私にできる事なんて、それくらいしかありませんから……」
その切なげで献身的な態度にアデルは再び胸がぐっと熱くなって、思わずアーシャの肩を抱き寄せて、感謝の気持ちを述べた。しかし、彼女は「御礼なんて要りません」と首を横に振った。
「でも、その代わり……約束して欲しい事があります」
アデルから少し身体を離して、再度彼の瞳をじっと見上げた。
「もう二度と……自分の命を捨てる様な真似はしないで下さい」
アーシャの表情は真剣そのもので、その瞳からは拒絶は絶対に許さないという強い意志を感じさせられた。
「アデルがゾール教国軍の援軍の足止めを一人でしていると聞いて、私、泣いてしまいました。いくらアデルが強いと言っても、絶対に助からないって……もう二度とアデルと会えないって、思いました。あんな悲しい想いをするのは、もう嫌です。絶対、嫌なんです……ッ!」
最後の方は涙声になっていて、先程乾いたはずの涙がまた彼女の瞳から溢れ出す。
「ごめん、もうしない。それは約束する」
アデルは彼女の涙を拭うと、強く抱き締めてそう誓った。
アーシャがフィーナの気持ちがわかると先程言った理由が、少しだけわかった気がした。
彼女もまた、アデルの死を予感したのだ。五〇人の正規軍相手に単騎で生き残るなど、普通は不可能に近い。
今回アデルが生き残れたのも、ただただ運が良かっただけである。敵軍が元ライトリー王国の兵士でなければ、ゾール教に洗脳されていて、それらを操る司教が同行していれば、或いは元ライトリー王国軍の士気が高く、オルテガと一緒になって襲い掛かってこられていたならば……アデルは間違いなく死んでいた。
アデルの死を一度はアーシャも考えたからこそ、アデルの死によって絶望したフィーナの気持ちも想像できたのではないだろうか。
「アデルの言葉は信用できません」
アーシャは鼻を啜ると、少し拗ねた様に口を尖らせた。
「そんな事言われても……もうしないって」
「じゃあ……誓って下さい」
「誓う?」
「はい。ここに、誓って欲しいです」
アーシャはそう言って瞳を閉じると、少しだけ顎を上げた。
いつぞやの様に、唇に誓え、という事らしい。
「ああ……わかった。誓うよ」
アデルはそう言ってから、アーシャの方に顔を寄せて──唇を重ねた。
彼女の吐息と、柔らかい唇、そして薄い唇から伝わってくる僅かな熱を彼女から感じ取って、その瞬間アデルは初めて、自分が生還した事を実感した。
そのまま何度も何度も、その誓いは絶対だと言わんばかり、そして今自分は生きているんだと実感したいが為に、唇を重ね合った。
アーシャは相変わらず涙を流したまま、アデルの首根っこを掴んでは一生懸命にその口付けに答えた。舌を絡ませ、見つめ合い、そしてまた口付けて、舌を吸い出し、絡め合う。それは、アデルの生存を口付けを通して確かる様でもあった。
二人はそれから時間の許す限り、新たな誓いを重ね続けた。