アデルとオルテガの一騎討ちが終わった。もはや戦闘の意思があるものはおらず、解放戦争絡みの全ての戦いがここに終結した。
 アデルは振り下ろした剣から血を振り払うと、膝を突いた。

「アデルさん⁉」
「大丈夫か!」

 カロンとルーカス、アモットが慌てて駆け寄るが、アデルは大丈夫だと手で制す。
 この数十分間、常に死と隣合わせで、当たれば即死の攻撃を紙一重で避け続けていたのだ。オルテガだけでなく、アデルもとうに体の限界は超えていたのである。
 勝利を分けたもの、それは──

(……お前は心の何処かで、もう死にたがってたんだな)

 地面に転がったオルテガの死体を見てから、視線を逸らす。
 勝利を分けたものは、生への執着。アデルは生きる為に戦った。生きて、アーシャと過ごす未来の為に戦った。
 しかし、オルテガにそれはなかった。
 最後のやり取りから鑑みる限り、彼は自らの選択──アデルを裏切り闇討ちした事──に関して、後悔していたのだろう。嫉妬や自らの欲望の為にした行動は、結局のところ彼には何も(もたら)さなかったのだ。いや、それをした事で、失ったものの方が多かったのだろう。
 嫉妬と羨望に狂い、オルテガはアデル暗殺を目論んだ。そして、自らの望んだ通りにフィーナを手に入れた。
 しかし……彼が本当に欲しかったものは、手に入らなかったのだ。闇討ちして、嘘をついて手に入れた偽りの関係に、彼は嫌気が指したのだろう。それは、彼が欲したフィーナとの関係ではなかったのである。
 オルテガには、常にアデルへの敗北が付き纏っていた。どれだけ彼女を抱いても、子を孕ませても、その気持ちは拭えなかったのだろう。
 そして、一度の裏切りから転げ落ちていく自分を見て、彼は何処かで死に場所を探していたのではないか──最後の一振りからは、そんな彼の本音を垣間見た気がした。
 アデルは剣に縋る様にして立ち上がると、座り込んだままのフィーナのもとに歩み寄った。

「アデル……」

 フィーナは元恋人の名前を呟いて、彼を近くで見るや否や、涙を零した。
 アデルも一年ぶりに見る元恋人に対して、何も感じなかったわけではない。思わず目頭が熱くなった。

「大丈夫か、フィーナ」

 アデルは平静を装って屈み、彼女の肩に手を触れようとした。その時──

「やめて!」

 アデルに対して強い拒絶の言葉を発せられた。

「今の私は……あなたに触れられて良い女じゃないの。あなたが愛していたフィーナとは全くの別人……もう(けが)れ切ってしまった女なのよ」
「いや、でも、それはオルテガの嘘で──」
「違うのよ!」

 フィーナは碧眼の瞳から涙を零しながら、アデルを見上げた。

「私……オルテガに薬を盛られてたのには早い段階で気付いていたわ」
「薬?」
「ええ……気が狂うくらい男が欲しくなってしまう、悪魔みたいな薬よ」
「媚薬か……」

 フィーナは頷いた。
 アデルは彼女の善がり狂っていた様を思い出して、その言葉に納得した。恋人の死を聞いた直後だというのに狂った様に男を求めていたのも、それならば理解できる。
 オルテガは闇市によく出入りしていたし、そこで怪しい薬を手に入れたのだろう。

「あまりにも気がおかしくなったんだもの……疑うわよね。そしたら、あいつ……私の飲み物に、変な薬を入れていたの。それを飲んだら、いつも気が狂うほどあいつを求めてたから、確実だと思う」

 アデルはもう一度ちらりとオルテガの亡骸を見た。

『だまし討ちして以降、真っ向勝負をするのが怖くなっちまった』

 彼の先程の言葉が蘇ってくる。
 彼は愛していた女に対しても、正面から挑めず、薬という禁じ手を使って身を落とさせたのだ。おそらく、彼の後悔はそれからも来ていたのだろう。

「でもね……私はそれを知ってて見てみぬふりをしてたのよ」
「見て見ぬふりを?」

 フィーナは頷いてから続けた。

「私、あなたが死んだって聞いて……悲しくて寂しくて、本当に気が狂いそうだった」
「フィーナ……」
「それでも……その薬を飲まされて、あいつに抱かれてる間だけは、あなたを失った悲しみを忘れられたの。あいつに抱かれてる自分に嫌悪感を抱きながらも、あなたがいない現実を忘れられるからって、それを受け入れてたのよ……ずっとずっと、この一年間、何度も何度も……何度も何度も何度も!」

 この一年間を思い出しているのだろう。
 怒りや苦しみ、自己嫌悪に悲しみ……そこには彼女がこの一年間で味わっていた感情が滲み出ていた。

「心の中であなたに謝りながら、でも辛い気持ちをひとときでも忘れたくて、あいつを受け入れてた! あなた以外に触れて欲しくないのに、あいつに自由にさせてたの!」

 それは悲痛な叫びだった。
 その媚薬は、おそらくまともな薬ではない。人を狂わす魔術か、或いは精神を司り快楽に依存する成分が入っていたに違いない。
 もしそうであれば、精神的に不安定になっていたフィーナがオルテガやその薬に依存してしまうのは、無理もない様な気がした。
 人は誰しもが苦しみから逃げたいと思い、逃避先を探す。それが宗教であるか、快楽であるか、薬であるか、方法論にそれぞれ違いがあるだけだ。彼女はそのうちの一つを選んだに過ぎない。

「挙句に、あいつの子供まで身籠って。アデルの子が欲しいって、ずっと思ってたのに、あいつの子が出来てて……でも、もうアデルはいないから前を向かないとってようやく思えてきて……それなのに、あなたは生きていて! それも、あいつに裏切られて殺されそうになってたのに……この一年間、あなたを裏切っていたのは、私も同じじゃない! こんな穢れ切った私に、触れて欲しくない!」

 フィーナは自らの腹をぎゅっと握り締めた。
 まだ妊娠が発覚して間もないのだろう。そのお腹は以前の彼女と殆ど違いがない様なものだった。
 彼女は突っ伏して涙した。アデルは彼女に触れる事もできず、ただそうして涙するのを見守るしかなかった。
 暫く泣いた後、フィーナはふと顔を上げて、アデルをじっと見た。そして、何かに気付いたようにはっとしてから、諦観の笑みを浮かべた。

「そっか……あなたの中には、もう別の人がいるのね」
「あ? どういう事だよ?」
「いいえ、何でもないわ。それはそれで……私もちょっと安心だしね。あなたはずっと、孤独だったから」

 そう言うと、フィーナは目尻に涙を溜めて、柔和に微笑んだ。
 穏やかで、優しくて、思わず胸の柔らかい部分が痛くなるような笑顔だった。一年前まで毎日見ていて、いつも自分に向けてくれていて、彼が好きだったフィーナの笑顔である。

「フィーナ……?」

 一方のアデルは、唐突にその笑顔を向けられて、どうしようもなく嫌な予感がした。背筋を醜悪な肉塊で逆撫でされたかの様な不快感で、それは何か良くない事が起こる前触れ以外の何ものでもなかった。
 しかし、彼がそれを感じた時には、もう手遅れだった。

「アデル──さよなら」

 フィーナは笑顔のままそう呟くと、自らの腰に忍ばせた護身用の短剣(ダガー)を引き抜いて、自分の下腹部目掛けて──何の躊躇(ためら)いもなく、その刃を突き刺した。

「なッ──」

 アデルの頬に、赤い鮮血が飛び散る。
 その場にいた全員が、何が起こったのか、判断がつかなかった。ただ、彼女が自分の腹を刺した。あまりの唐突さ故に、そんな当たり前の情報でさえも頭が追い付かなかったのだ。
 そして、彼女は痛みに呻きながらも短剣(ダガー)を抜き、もう一度自らの腹へと振り下ろした。

「なっ……何やってんだお前はあああッ!」

 そこで意識がはっきりして、アデルがフィーナの手から短剣(ダガー)を奪い取る。
 しかし、時既に遅く、彼女の腹からは血が川の濁流の如く流れ出し、周囲は血の海となっていた。

「おい、フィーナ! バカが! 何やってんだよ!」

 アデルは彼女の腹を手で押さえるが、とてもではないが手で傷口を塞げるものではない。とめどなく彼女の腹からは血が流れ続けていた。

「おい、お前ら! お前らの中に回復術師は⁉」

 アデルは捕虜として捕縛されているライトリー騎士団に慌てて訊く。

「わ、我らの中に回復術師はフィーナ殿だけしか……」
「糞ッ……!」

 アデルは慌ててあたりを見回すが、ヴェイユの陣営の中にも回復術師は誰もいなかった。

「い、今アーシャ様もこっちに向かってます! 僕が連れてきますから!」
「僕も行く!」

 それを見たカロンとルーカスが馬に飛び乗って、慌てて後方へと駆けていく。
 アデルが大怪我をしている事を見越して、アーシャもこちらに向かってきてくれている様だ。ここにいるアモット達は、アデルの生死を確認する為の先遣隊でもあったのだろう。

「アデ……ル……」

 フィーナがアデルの頬に手を伸ばして、そっと親指で撫でた。
 これが彼女の癖だった。いつもこうして、アデルの頬を愛しそうに撫でていたのだ。
 撫でる指は当時と何も変わっていなかった。違いがあるとすれば、その指は彼女自身の血で濡れており、ひどく弱々しいだけだ。

「バカ、喋るな! もうすぐカロン達がアーシャを連れてきてくれっから、大人しく待ってろ! 安心しろ、〝ヴェイユの聖女〟の力は本物だ。俺だって死にかけてたのに救われたんだ。だから、しっかり気を保てよ!」

 フィーナは諦め様としない元恋人に対して、唇を震わせながら「もういいの」と首を小さく横に振る。

「よくねえよ! なんだってこんな事してんだよ!」
「アデル……聞いて」
「喋るなって言ってんだろ、バカ!」

 アデルの瞳からも涙が流れていた。
 思い出したくもないのに、アデルの頭の中ではフィーナとの想い出が溢れ返っていた。
 彼女と初めて会った時、二人で初めて出掛けた時、そして結ばれた時……こんな時だというのに、何故か彼女との幸せな想い出ばかりが走馬灯の様に流れていき、涙がとめどなく溢れてくる。
 フィーナはそんなアデルを見て、優しく微笑んでいた。

「おい、誰か……止血を! カロンがアーシャを連れてくるまででいいから!」

 アデルがシャイナやアモット達を見るが、彼らは気まずそうに視線を逸らして、首を横に振った。誰の目から見ても、彼女が助からない事は明白だったのだ。

「何を……何を諦めてんだよ!」
「ねえ、アデル……?」
「だから黙ってろって──」

 フィーナと目が合ったその刹那、一瞬だけ時が停まった気がした。
 アデルはフィーナのその碧眼の瞳に引き込まれそうになった。もう、何も言葉すら出てこない。これが彼女の最期だというのが、彼にもわかってしまったのだ。

「こんな女で、ごめんね……? 最後に会えて、良かった……あなたは、幸せに、なっ──」

 最後の言葉を言い切る前に、アデルの頬を撫でていたフィーナの手が、ぼとりと地面に落ちた。

「フィー……ナ……?」

 落ちた手を取ってもう一度握り締めるも、フィーナの腕は力なく地面に落ちる。
 彼女を支えるアデルの腕にも、ずっしりと重みが加わっていた。まるで、完全に脱力してしまっているかの様に。

「おい……何、寝てんだよ。もうすぐアーシャが来てくれるんだよ。あいつが来れば、こんな傷かすり傷と同じなんだ。だから、目ぇ開けろよ·····なぁ」

 アデルは乾いた笑みを浮かべたまま、フィーナの肩を揺すった。きっと、血が流れ過ぎて意識が遠のいているだけだ。いや、そうだと信じたかった。
 しかし、フィーナはゆらりゆらりと揺れるだけで、何も反応はしない。閉じられた瞳が開く事もなかった。

「アデル……もう、やめなさい」

 シャイナが見ていられないといった様子で声を掛けた。

「やめるって、何をやめるってんだよ」
「その子は、もう……」

 そう言って、彼女は辛そうにして顔を背けた。
 アモットや〝亡命騎士〟エトムートに、〝聖騎士〟ロスペールも気まずそうに視線を逸らす。

「何を……言ってるんだよ。だって、こいつはまだ生きて──」

 言いながら、アデルは彼女の首筋に指を当てた。
 本来であれば、そこから血の流れを感じられるはずだ。しかし今は──もう何の振動も感じられなかった。フィーナの身体からは熱が抜けていき、まるで人形のように動かなくなってしまっている。

「おい、フィーナ……? 冗談はやめろよ、おい」

 アデルの呼び掛けに、もちろんフィーナは応えない。
 あたりは血の海と化していて、悲惨な状況だ。
 だが、そんな悲惨さを感じさせないほど、フィーナの表情はとても穏やかだった。最後の最後で愛する人に会えた事を心から喜んでいるかの様に、安らかな寝顔だ。

「あ、ああ……ああああああああぁぁぁ!」

 アデルの絶望に満ちた叫び声が、サイユの森に響き渡った。