*  *
「これ読んでみて」
 差し出した途端、建十字がちょっと引いたような感じになった。それでもページをめくると、顔をしかめた。
「読めないよ。難しい漢字がこんなにいっぱいあるのに」
「でも、読めなかったらプロになれないよ」
「なんで?」
「これ、プロ野球の球団と契約する時の書類」
「契約書?」
「そう、統一契約書」
 わたしは、仲良くなった図書館の司書さんに頼んで、ネットに掲載されている契約書のひな型を印刷してもらっていた。
大多仁(おおたに)選手みたいになりたいんでしょ」
「そうだけど」
 建十字は野球のセンス抜群で、将来は大多仁選手のように大リーグへ行って、ピッチャーと打者の二刀流で活躍することを夢見ていた。しかし、国語が大嫌いで、授業中居眠りばかりしていた。だから、漢字のテストは赤点ばかりだった。
「契約書読めなかったらプロへ行けないよ」
「うん……」
 彼は、そんなことわかってるよ、とでも言いたげな表情になったが、「でも、漢字の勉強嫌いだし」と投げやりに言った。本当に嫌そうだったので、これ以上無理強いしないことにした。
「わかった、無理して読まなくていいからね」
 引き取って書類をランドセルに仕舞うと、「せっかく持ってきてくれたのに悪いな」と言いながらほんの少しだけ頭を下げた。そして、「じゃあ」と言って背を向けた。
 その夜、色々考えて、作戦を変えることにした。彼が本当に興味のあること、思わず目を輝かせるようなものに絞ることにしたのだ。
 翌日の放課後、図書館へ直行してスポーツコーナーで探していると、ぴったりだと思うものを見つけることができた。これなら気に入ってくれると思うと嬉しくなってスキップを踏んで家に帰り、夢中になってそれを読んだ。
 その翌日、それを建十字に渡した。
「これ読んでみて」
 すると、題名を見るなり彼の目が輝いた。
「大多仁だ♪」
 渡したのは『大多仁選手の挑戦・大リーグへの道』という本だった。
「図書館で借りた本だから2週間後には返さなくてはいけないの。だから、その前に必ずわたしに返してね。それと、この本に何が書いてあったのか、このノートに書いて欲しいの」
「なんで?」
「わたしも知りたいの。大多仁選手のことが知りたいの」
 もう読んで内容は知ってはいたが、敢えて教えて欲しいとお願いした。すると、意外にも彼は嬉しそうな表情になった。
「貴真心も好きなのか。そうか~」
 ちょっとニヤニヤしながら本をランドセルに仕舞った。そして、「2週間後だな」と言ってくるりと後ろを向き、走って行った。
 
 約束通り2週間後に本とノートを返しに来た。
「面白かった?」
「うん。凄く」
 漢和辞典や国語辞典を引きながら一生懸命読んだのだと言った。
 わたしはその場でノートを開いた。平仮名だらけの文章だったけど、笑わないで真剣に読んだ。
「わたしにわかるように書いてくれてありがとう」 
「そうか?」
 彼はボリボリと頭を掻いたが、本当に嬉しそうだった。わたしはこのチャンスを逃さず、
「今度はこれ」と図書館で借りた別の本を渡した。『ベーブルースのすべて』。野球の神様と呼ばれている大スターの生涯について書かれた本だった。
 受け取った彼が「大多仁選手もこれを読んだのかな?」と興味深そうに表紙を見つめたので、「そうかも知れないわね」と返事してノートを渡すと、「2週間後な」と笑って本とノートをランドセルに仕舞った。
 その後もわたしは2週間ごとに新しい本と要約を書くためのノートを渡し、建十字はきっちり2週間後に本とノートを返しに来た。ノートに書かれている文字には漢字が増え、学校で習っていない漢字も書くようになった。それだけでなく、そんなに辞典を引かなくても読めるようになったと言った。もう、わたしがお節介を焼かなくてもいい頃かも知れなかった。実は、先日偶然にも彼が図書館に入るところを見かけたのだ。彼は強制されずに自分の意思で本を探し始めたようだった。
 そんなある日の放課後、建十字が横河原と奈々芽に本を渡しているところに偶然出くわした。
「これ読めよ」
『本多の新しい挑戦』という本を横河原のために、『ボルテの速さの秘密』という本を奈々芽のために、図書館で借りてきたようだった。
「お前らもプロや実業団を目指しているんだから、契約書に書いてある漢字を読めるようにならないとな」
 本を手にした横河原と奈々芽は、建十字が言っていることがよくわからないようだった。
「契約書?」
 2人は首を傾げた。
「いいから、とにかく読め!」
 建十字が2人の肩をドンと叩いた。