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「おかえりなさいませ!」
六角宮から伸びる雲の端を渡って戻ると、玄関からチコが飛び出してきた。扉の所には鯉黒が控えている。
「チコ、鯉黒、留守をご苦労だった。何事もなかったか?」
「はい、ミツハさま! 本日もつつがなく仕事を終え、今、お食事のお支度を整えたところでございます!」
チコの言葉を聞き、頷いたミツハは、玄関を上がる前にそこを逸れ、宮の外壁を辿った。食事の支度が整っているのに宮に入らないミツハを、チコと鯉黒が疑問顔で見る。
「まあ来なさい。君たちに土産があるんだ。新菜が設えてくれた」
ミツハは新菜を従えたままチコと鯉黒を呼び、庭の奥池へいざなった。日の暮れた宮奥でも新菜の下げている鱗珠は光っており、四人の視界を照らしていた。
「下界で、新菜が私に美しいものを見せてくれたんだ。君たちにも是非見て欲しい」
そう言い、ゆるりとミツハがその場で腕を振るうと、鱗珠の光が消え、代わりにあの湖で飛び交う蛍の様子が奥池の水面に映し出された。
輝く光の飛び交う様に、チコは声を上げて驚き、そして身を乗り出して興奮した。池の面(おもて)から飛び出てくる蛍を捕まえようとチコが池の傍から腕を伸ばすから、新菜が慌ててチコの体を支えなければならなかった。鯉黒は蛍を見たことがあったのか、懐かしいな、と穏やかに呟いている。
「これは……、記憶の共有ですね!?」
チコが興奮気味にミツハに問う。ミツハが満足げに頷くと、新菜もチコが理由に思い至ったことに微笑んだ。
ミツハは蛍の命を尊重することと、新菜がチコたちに蛍を見せてやりたいという希望を同時に叶える方法として、彼らと記憶の共有を仕掛けたのだ。ミツハが見た情景は、ミツハの神力から創られたチコと、毎日ミツハの神力を食べている鯉黒には、網膜に映るような感覚で脳裏に蘇らせることが出来る。ミツハは彼らを驚かせるために、湖から帰って来るまでの間、記憶を閉じた。そして今、チコたちを前に、記憶を共有したのだ。
「ほたる、というのですね!? お月さまの欠片が沢山飛んでいるみたいです! とても綺麗!」
「下界に居た頃は、散った蛍の命を頂いたこともあったが……、こうして水の上から見る蛍というものは、確かに幻想的で、少し地上の生き物が羨ましくなってしまうな」
二人のそれぞれの感想を聞けて、新菜は満足だった。そして新菜の希望を叶えてくれたミツハに礼を言う。
「ミツハさま、気をまわして頂き、ありがとうございました。確かに宮奥に蛍を連れてくるよりも、こうやってみんなで見た方が、蛍は帰るべきところに帰れるし、良かったです」
「新菜、礼を言うのは私の方だよ。今日は一日楽しかったし、最後にチコたちに土産まで持ってくることが出来た。私たちだけ楽しんで帰ってきたら、チコに恨まれるところだった。君が気の利く妻で良かった」
妻、と言われて、改めて左の薬指に嵌っている指輪に手を添える。指で辿ると硬質な感触が指の腹に何とも言えない質量を訴えていて、新菜は頬を朱にして黙り込んでしまった。それをおや、とチコが目ざとく見つける。
「それは逆鱗の珠ですか? 新菜さまとミツハさまは本当に一対となられたのですね……」
蛍を見るのとは違う目の煌めかせ方をするチコが言うのに、鯉黒も新菜の手元を見る。ほう、と目を瞠った鯉黒の視線は、流石に耐えきれなかった。
「チ、チコさん、鯉黒さん、お食事の支度が出来ていたのですよね? ミツハさまは今日一日下界にいらっしゃって、きっとお疲れですから、はやく食事にしましょう」
慌てて二人の背中を押して宮に戻ろうとする新菜を、ミツハが笑って見ている。宮に消えていく新菜の背中に、ミツハがいとおしさを籠めて呟いた。
「私の対なる蝶。早く私に溺れておくれ。もう待たないと言ったじゃないか」
口元に浮かぶのは、微笑み。ため息は零れて。それでも。
「仕方ない。結に、誓ってしまったからね」
五百歳(いおとせ)、千歳、幾星霜。
二人の行く先は限りなく長いから。
神が民に寄り添うように、民が神に寄り添うように、彼女にもありったけの想いを籠めて寄り添おうじゃないか。
とこしえを超えて巡り合えた奇跡をこれからも離さないために。
「ミツハさま!」
ミツハは返事をして、宮に戻る。
銀の指輪に願いを託して。