なんでこんなイカれたイベントに参加してしまったんだろう。
川崎方面から多摩川を渡り、ついに神奈川県から都内に足を踏み入れたわけだけど、溢れてきたのは感慨ではなく何度目になるかもわからないため息だった。
夜空を見上げると、半分に欠けた月が東の空から昇っているところだった。少し前に日付は変わってしまっている。
朝八時に小田原をスタートし、東京までの100kmの道のりを二十七時間以内に歩く。
冷静だったら絶対に参加しなかったはずのイベントだ。つまり、イベントに申し込んだ二か月前、私は冷静じゃなかった。
その時の私は、もうすぐ付き合ってから五年目となるはずだった恋人の光佑に「愛梨は一人で生きていけそうだから」なんて言われてあっさりフラれていた。三十歳が現実的に近づき、明確に結婚を意識していたくらいだったから、青天の霹靂だった。二歳年下の光佑の手前、しっかりしなきゃと思って頑張ってきたけど、その時点からすれ違っていたらしい。
仕事と恋人の二つに社会人生活をつぎ込んできた私のことを心配してくれる友人はいたけど、人前では平静を装った。一方で、いつまでもポッカリと空いた穴のように存在し続ける光佑を忘れるきっかけを探していた。そんな時に見つけたのがこのイベントだった。
光佑の存在を忘れるためにはそれくらい無茶が必要だと思った。大学までは陸上部だったし、過去の同じイベントでは八割くらいの人が完歩しているらしい。傷心旅行代わりにちょうどいいイベントだと思っていた。
その時は。
「足、痛い……」
どうにか歩いてきたけど足も体も限界を訴えていて、ルートから少し外れたところにあったマンションの花壇の淵に座り込む。
十月の秋晴れの下、小田原を歩き出したときはよかった。湘南の海沿いをサーフィンをしている人たちを見ながら歩くのも新鮮だった。だけど、40kmを過ぎて、箱根駅伝でも有名な遊行寺の坂を超えたあたりから徐々に疲労感が大きくなっていった。
そして、二時間ほど前にみなとみらいの辺りを歩いていると、キラキラとした街の下を歩いていく人々が嫌でも目に入った。手をつないだり腕を組んだりしながら行き交う人たち。二か月前までは私もそっち側だったはずなのに、今は一人寂しく100km歩くなんて苦行みたいなことに身を投じている。
何してるんだろうと思ったとたん、一気に体が重くなった。ゴールまではまだあと20km近くある。リタイアしようにも自力で帰らなければいけなしい、既に終電はなくなっている。
「寒いよ……」
途方に暮れながら吐き出したい気が白い。昼間は少し歩くだけで汗ばむような気温だったのに、日が暮れると長袖を着ていても震えるほど冷え込んできた。
こんな時間じゃ吐き出した息も声も見ている人はいなくて、首都高の下の国道15号線を車が行き交っているだけだった。寒さと心細さに膝を抱くようにして体を丸める。だけど身も心もちっとも温まらなかった。
これからどうなるんだろう。疲労のせいか考えもまとまらなくなっていって、時折吹き抜けていく冷たい夜風に身を震わせながらただただ自分を抱いて座り込む。
「大丈夫ですか?」
不意に聞こえてきた声に顔をあげる。暗くてよくわからないけど、少し年上の男性が心配そうに私を見下ろしていた。胸にゼッケンをつけているから、同じイベントの参加者なのだろう。
「ちょっと疲れて休憩してただけです」
嘘だ。とっくに限界だったのに、いつもの癖で強がってしまう。昔からそうだった。弱っているところを人に見られたくなくて反射的に平気なふりをしてしまう。
私に声をかけてくれた男の人も少し眉を八の字に下げてから、歩いて行ってしまった。一人に戻っただけなのに、さっきよりも心細さが増していた。このままずっと一人なのかな。思考がどんどん落ち込んでいく。
「今夜は冷えるから、休憩するならこの先のチェックポイントの方がいいですよ」
もう一度声がする。目の前にはさっきの男の人が立っていて、私に「はちみつしょうがゆず」のペットボトルを差し出していた。
「大丈夫ですから」
「そういわれても、僕、ショウガ苦手なんで」
男の人は苦笑いを浮かべると私の手を取ってペットボトルを握らせる。熱いくらいの温もりが気持ちいい。断るつもりだったのに、ぎゅっとペットボトルを握り締めてしまう。
目の前では男の人が自分の腰に巻いていたウィンドブレーカーの上着をほどいていた。そして、躊躇なく今度はそれを差し出してくる。
「体、冷え切ってるじゃないですか。あ、それまだ洗い立てから使ってないので心配しないでください」
「でも、私がそれを着ちゃったら……」
「僕は大丈夫です。前半少しのんびりしすぎて急いできたんで、体ほっかほかなんで」
言葉の通り男の人の背中からは湯気が立っている。ショウガが苦手という題目付きでショウガ入りのホットドリンクを買ってきたり、受け取るまで引き下がりそうにない。上着を受け取って羽織ると風をしっかり防いでくれて寒さが和らぐ。
でも、この上着、どこで返せばいいのだろう。次のチェックポイントまでどうにか歩いて、そこでスタッフの人に渡せば届けてくれるだろうか。
「まずはあと5km、大森のチェックポイントまで頑張りましょう」
そう言って男の人はぐっと右腕に力こぶをつくって見せる。男の人が歩き出してから私も再開するつもりだったけど、ニコニコと笑顔を浮かべたまま動く気配がない。
まさか、ここから一緒に歩くつもりなの。たった今知り合ったばかりの私と。
「あ、そうだ。僕、城所篤人っていいます」
「六川愛梨、です」
無邪気に名乗る男の人――城所さんにつられるように、私はペコリと頭を下げていた。
川崎方面から多摩川を渡り、ついに神奈川県から都内に足を踏み入れたわけだけど、溢れてきたのは感慨ではなく何度目になるかもわからないため息だった。
夜空を見上げると、半分に欠けた月が東の空から昇っているところだった。少し前に日付は変わってしまっている。
朝八時に小田原をスタートし、東京までの100kmの道のりを二十七時間以内に歩く。
冷静だったら絶対に参加しなかったはずのイベントだ。つまり、イベントに申し込んだ二か月前、私は冷静じゃなかった。
その時の私は、もうすぐ付き合ってから五年目となるはずだった恋人の光佑に「愛梨は一人で生きていけそうだから」なんて言われてあっさりフラれていた。三十歳が現実的に近づき、明確に結婚を意識していたくらいだったから、青天の霹靂だった。二歳年下の光佑の手前、しっかりしなきゃと思って頑張ってきたけど、その時点からすれ違っていたらしい。
仕事と恋人の二つに社会人生活をつぎ込んできた私のことを心配してくれる友人はいたけど、人前では平静を装った。一方で、いつまでもポッカリと空いた穴のように存在し続ける光佑を忘れるきっかけを探していた。そんな時に見つけたのがこのイベントだった。
光佑の存在を忘れるためにはそれくらい無茶が必要だと思った。大学までは陸上部だったし、過去の同じイベントでは八割くらいの人が完歩しているらしい。傷心旅行代わりにちょうどいいイベントだと思っていた。
その時は。
「足、痛い……」
どうにか歩いてきたけど足も体も限界を訴えていて、ルートから少し外れたところにあったマンションの花壇の淵に座り込む。
十月の秋晴れの下、小田原を歩き出したときはよかった。湘南の海沿いをサーフィンをしている人たちを見ながら歩くのも新鮮だった。だけど、40kmを過ぎて、箱根駅伝でも有名な遊行寺の坂を超えたあたりから徐々に疲労感が大きくなっていった。
そして、二時間ほど前にみなとみらいの辺りを歩いていると、キラキラとした街の下を歩いていく人々が嫌でも目に入った。手をつないだり腕を組んだりしながら行き交う人たち。二か月前までは私もそっち側だったはずなのに、今は一人寂しく100km歩くなんて苦行みたいなことに身を投じている。
何してるんだろうと思ったとたん、一気に体が重くなった。ゴールまではまだあと20km近くある。リタイアしようにも自力で帰らなければいけなしい、既に終電はなくなっている。
「寒いよ……」
途方に暮れながら吐き出したい気が白い。昼間は少し歩くだけで汗ばむような気温だったのに、日が暮れると長袖を着ていても震えるほど冷え込んできた。
こんな時間じゃ吐き出した息も声も見ている人はいなくて、首都高の下の国道15号線を車が行き交っているだけだった。寒さと心細さに膝を抱くようにして体を丸める。だけど身も心もちっとも温まらなかった。
これからどうなるんだろう。疲労のせいか考えもまとまらなくなっていって、時折吹き抜けていく冷たい夜風に身を震わせながらただただ自分を抱いて座り込む。
「大丈夫ですか?」
不意に聞こえてきた声に顔をあげる。暗くてよくわからないけど、少し年上の男性が心配そうに私を見下ろしていた。胸にゼッケンをつけているから、同じイベントの参加者なのだろう。
「ちょっと疲れて休憩してただけです」
嘘だ。とっくに限界だったのに、いつもの癖で強がってしまう。昔からそうだった。弱っているところを人に見られたくなくて反射的に平気なふりをしてしまう。
私に声をかけてくれた男の人も少し眉を八の字に下げてから、歩いて行ってしまった。一人に戻っただけなのに、さっきよりも心細さが増していた。このままずっと一人なのかな。思考がどんどん落ち込んでいく。
「今夜は冷えるから、休憩するならこの先のチェックポイントの方がいいですよ」
もう一度声がする。目の前にはさっきの男の人が立っていて、私に「はちみつしょうがゆず」のペットボトルを差し出していた。
「大丈夫ですから」
「そういわれても、僕、ショウガ苦手なんで」
男の人は苦笑いを浮かべると私の手を取ってペットボトルを握らせる。熱いくらいの温もりが気持ちいい。断るつもりだったのに、ぎゅっとペットボトルを握り締めてしまう。
目の前では男の人が自分の腰に巻いていたウィンドブレーカーの上着をほどいていた。そして、躊躇なく今度はそれを差し出してくる。
「体、冷え切ってるじゃないですか。あ、それまだ洗い立てから使ってないので心配しないでください」
「でも、私がそれを着ちゃったら……」
「僕は大丈夫です。前半少しのんびりしすぎて急いできたんで、体ほっかほかなんで」
言葉の通り男の人の背中からは湯気が立っている。ショウガが苦手という題目付きでショウガ入りのホットドリンクを買ってきたり、受け取るまで引き下がりそうにない。上着を受け取って羽織ると風をしっかり防いでくれて寒さが和らぐ。
でも、この上着、どこで返せばいいのだろう。次のチェックポイントまでどうにか歩いて、そこでスタッフの人に渡せば届けてくれるだろうか。
「まずはあと5km、大森のチェックポイントまで頑張りましょう」
そう言って男の人はぐっと右腕に力こぶをつくって見せる。男の人が歩き出してから私も再開するつもりだったけど、ニコニコと笑顔を浮かべたまま動く気配がない。
まさか、ここから一緒に歩くつもりなの。たった今知り合ったばかりの私と。
「あ、そうだ。僕、城所篤人っていいます」
「六川愛梨、です」
無邪気に名乗る男の人――城所さんにつられるように、私はペコリと頭を下げていた。