「なあ、紗菜は今も“源紗菜”なの?」
 翔に突然質問される。翔は先ほどあの日のことは全部覚えていると言った。ならば、期待してもいいんだろうか。
「源紗菜だよ! ほら!」
 財布から免許証と保険証とマイナンバーカードを取り出して翔に見せる。ダメ押しとばかりにパスポートを開いて、自分の苗字が変わっていないことを証明した。
「ねえ、約束ってまだ有効?」
 翔はその質問には答えなかった。
「紗菜、焦りすぎ。逆に怪しいんだけど」
 軽い口調だがかすかに声が震えていた。
「まだしてない! 結婚も婚約も、本当にしてないの! 私、嘘なんてつかないもん!」
 私は大声で捲し立てた。疑われて悲しかった。
「知ってるよ。昔から紗菜、嘘はつかなかったもんな。隠し事はしても」
 遮るように私は叫んだ。
「私の好きな人は翔だよ! ずっと好きだったんだよ」
 一世一代の告白。翔と結ばれる未来を夢見ていた。だから待った。この気持ちだけは嘘じゃない。
「紗菜は昔から、隠し事下手すぎるんだよ。隠し事されるの、結構悲しいんだけどな」
 翔が意を決したように言う。冷や汗が首筋を伝った。
「俺がもう結婚してるって言ったら紗菜も本当のこと言ってくれる?」
 頭をバットで殴られたような衝撃が走った。息が苦しい。いやだ、信じたくない。
「家業立て直すためにって、今時お見合いで政略結婚だよ。平成通りこして昭和かよって思ったけど、本当に恋愛と結婚って違うんだなって。結局、しがらみ抜け出せなかった」
 翔は多くを語らなかったが、私には想像もつかないほど大変なことがあったことは容易に分かった。
「本当に、人生うまくいかないよな。政略結婚して、仕事も忙しくて、昔の思い出に浸ってる暇なんてないはずなんだよ……普通は」
 私も翔と同じだ。翔と離れて、私の人生からは色が消えた。
 アメリカでも帰国後も特別嫌な思いをしたわけではない。だからと言って、深い付き合いの友達ができたわけではない。生涯で親友と呼べるのは最強四天王のメンバーだけだ。
 コロナ禍の就活はうまくいかず、非正規雇用で実家暮らしをしていた。昭和の価値観を持った両親に「女は二十五までに結婚するもの」と言われ婚活をした。アプリでの婚活は上手くいかず、結局父が親戚のつてでお見合いをセッティングした。
 相手はいい人だった。交際は順調で、一週間前に正式な婚約を持ちかけられた。両家は乗り気であとは私が了承するだけ。返事は待ってもらった。
「私も、お見合いはしたけど、返事はまだしてないもん。だから……」
 その続きの言葉が言えない。まだ婚約はしていないと信じてほしいだけなのか、それとも奥さんと別れて私と一緒になってほしいと言うつもりなのか自分でもわからない。ただただ涙があふれて止まらなかった。
「その人のことは嫌い?」
「嫌いじゃないけど、好きじゃない。好きなのは翔だけ」
「その人は悪い人?」
「どんなにいい人でもダメなの。私は翔がいい」
 まるで子どものわがままだ。でも諦めきれなかった。十四年と、それ以上前からずっと好きだったから。
「全部捨てるつもりでここに来たんだよ」
 もし、あの日の約束が有効だったなら全部捨てるつもりでここに来た。家を捨てて二人で駆け落ちするつもりだった。そのための大荷物だ。生まれて初めて、親に逆らおうと思った。
「ははっ……俺も」
 翔が足元の荷物を指さした。
「家も仕事も全部捨てて、平成に忘れてきた初恋を取り戻しに来たつもりだった」
 ああ、翔も同じ気持ちでいてくれた。その言葉を信じて、翔の手を取ろうとする。しかし、その手は制止された。
「でも、ダメなんだよ。俺じゃ紗菜を幸せにできない」
「嫌だ、翔がいないと幸せになれない。私にとって、翔は道しるべなんだよ」
「俺は周りに流されて、好きじゃない人と結婚した卑怯な奴なんだ。紗菜のことを裏切ったんだ」
 その言葉に私は何も言えなくなった。
「そのうえ、今度は結婚相手も裏切ろうとしてたんだ。紗菜はそんな奴と一緒になっちゃいけない。きっと俺よりお見合い相手の人の方が誠実だよ」
「誠実じゃなくたっていい。悪いことだってわかってる。それでも、もう翔のこと失いたくないんだもん」
 平成二十三年の私は親に逆らって駆け落ちするにはあまりにも幼くて、翔との未来を一度失った。それを取り戻せるのならば、どんな犠牲を払ってもいいと思えた。
「好きじゃなくたって結婚できるってことは、結婚したっていつか相手を好きじゃなくなる日がくるかもしれないんだよ。結婚は永遠の保証じゃない」
 翔が私を諭す。どうしてそんな諦めたようなことを言うの。運命に立ち向かうリーダーはどこへ行ってしまったの。
「紗菜を幸せにしてくれる男がいないんだったら、俺はいくら不幸になってもよかったけど、紗菜に未来があるならそんな分の悪い賭けに巻き込めないよ。紗菜は幸せにならなくちゃいけないんだよ。俺が人生で唯一好きになった人だから。わかってほしい」
 その言葉を聞いて気づく。つまらない大人になってしまったのは私も同じだ。私はお見合いの返事を保留した。断らなかった。これから先の人生に保険を掛けた。好きじゃない人と付き合って、ずるい選択をする。どんなに少女ぶったって、私の心はとっくに汚れきっていたんだ。
「でも、逆に言えば結婚じゃない形の永遠だってあると思うんだ」
 震える声で翔が言う。
「俺たちの初恋は綺麗な思い出にしよう」
 私は頷くことしかできなかった。これが、最強じゃなくなった私たちの初恋の結末。

 この恋は思い出にすると決意したのだから、再び私たちはタイムカプセルを開けていく。
 翔が埋めていたのは手紙だった。私へのメッセージは「いつも楽しそうな紗菜の笑顔が大好きです。結婚してください」だった。本当に結婚出来たらどんなに良かっただろう。でも、今となってはそれは決して叶わない夢なんだ。
 涙をこらえて充電がたまった昔のガラケーの電源をつけた。画面の右上には圏外と表示されている。待ち受けは四人で撮ったプリクラにしていたけれど、ガラケーを開いた瞬間一瞬だけ表示される画像には翔とのツーショットを設定していた。
「この写真、俺もよく眺めてたよ」
 翔が呟く。これからするのは、私たちが平成に置いてきた初恋の答え合わせだ。
「翔からの着信はすぐわかるようにしてたの」
 翔からのメールだけ、着信音をラブソングに設定していた。着信ランプもピンク色にしてマナーモードでも一目でわかるようにしていた。
「俺も」
 メールボックスを開く。翔からのメールは全部保護していたが、途中で保存件数の上限を超えてしまったので泣く泣く一部を削除した。
「タイトルがRe:Re:ってずっと続いてすっごく長くなるの、嬉しくてドキドキしてたんだよ」
「俺も。タイトルの文字数上限超えた時ガッツポーズした」
 受信ボックスを見終えた後は、送信ボックスを開く。あの頃、メールではトランプの話題をわざと多めに出していた。
「明日は大富豪負けないからね」
 他愛もない話に、ハートの絵文字を組み込むために。ハートマークなんて恥ずかしくて送れなかったけれど、精一杯の勇気でスペードやダイヤに紛れ込ませた。
「今年の運動会、鉢巻黄色じゃなくて青だといいね」
 絵文字の候補にカラフルなハートマークがあるのをいいことに、黄色と青のハートの絵文字を入れてドキドキしながら送信ボタンを押した。メールは可愛くデコるものだから、という言い訳の予行練習をしながら。
「翔は気づいてた?」
 ハートの絵文字を指さして質問する。
「紗菜がわざとやってるのは気づかなかったけど、ハートマーク見るたびに舞い上がってたよ」
 照れた様子で翔が答えた。その後も、題名のRe:の数を数えたり、ハートの絵文字を探したりしながら数々の思い出を振り返る。
「俺が先に好きだったのにな」
 翔がぽつりと呟いた。もしあの頃、お互いあとほんの少しずつでも勇気を出していたら今とは違う未来があったんだろうか。でも、そんなもしもの話をしたって遅いんだ。そう思うと、どうしてもこらえきれなかった。
「私が先に好きだったのに」
 どうして他の女の人と結婚しちゃったの。お互い人のことなんていえないくせに、空に向かって呪詛を吐く。どちらの罪が重いか、どちらがより傷ついたかなんて知らない。
 お見合い相手と出会うずっと前から私たちは両思いだった。でも、きっと私の方がずっと好きだったし、先に好きになった。でもそれは証明できない。
 本当に好きなのに、どうして思い出せないんだろう。私はいつから翔のことが好きだったのか。どうして翔のことを好きになったのか。どうして、思い出が少しずつ消えていってしまうんだろう。どうして一番大切なことから忘れてしまうんだろう。
 平成に忘れてきた初恋の残像が少しずつ薄まっていくなんて認めたくなかった。大人になる過程で恋心が掌から零れ落ちていったなんて思いたくなかった。なのに、事実として翔と再会した瞬間、私は泣けなかった。
「好きだよ、翔」
 自分に言い聞かせるかのように、私は呟く。
「今でも好きだよ」
 何度だって言う。
「本当に好きだったんだよ」
 たとえ十四年間で初恋が色あせてしまったとしても、あの頃の私は人生全部かけてもいいくらい翔のことが好きだったのは本当だから。泣きじゃくる私を翔が抱きしめて言う。
「俺も、好き」
 翔はその感情が現在進行形であるか過去形であるか明言しなかった。

 夜が更けていく。一通り思い出に浸った私たちは、再びタイムカプセルを埋めなおした。これは初恋を埋葬する儀式だ。私たちが生きた平成という時代とともに。
「思いたくないよな。健と萌は今が充実してるから忘れてて、俺らは今がつまらないから昔の約束覚えてた、なんて」
 元通りに土をかぶせた後、翔が呟いた。
「あいつらだってさ、忘れてたわけじゃないんだよ。きっと、二人でこっそり連絡とってたんだよ。紗菜と翔を二人っきりにしてやろうって、無駄な気を利かせやがったんだ」
 これはきっと私のための優しい嘘だ。
「だからさ、次会うときに言ってやろうぜ。余計なおせっかいすんなよって」
 翔は吹っ切れたように笑った。笑い方は小学生の時と全く変わっていなかった。
「次に会うときは、俺が絶対健と萌のこと引きずってでも連れて来る。って、今更信じてもらえないかもしれないけどさ」
「信じるよ」
 私は即答した。根拠なんてない。それでも、信じたいから信じることにした。
「そのためにも俺たちは幸せにならないといけないんだよ。それで証明するんだ。誰より幸せになったって、それでもあの頃の思い出も約束も大切にできるって」
 決意に満ちた顔で翔が言う。
「だから、笑って生きろよ。紗菜」
 私は笑顔で頷く。そして令和という時代を笑って生きていく。たとえ苗字が変わっても、翔が好きになってくれた源紗菜であり続けるために。

 私たちは駅までの道を振り返らずに歩き続けた。手は繋がない。もう泣かない。連絡先は交換しない。
 ホームでの別れ際、私は次に会う日を確認する。
「次は、平成百年の夏かな?」
 わざわざ日付を言うなんて野暮だ。
「その時俺ら九十歳だぞ。さすがにそこまで待てねーわ。令和三十七年、今からちょうど三十年後」
「了解。萌と健に連絡よろしくね」
「OK.またな」
 それだけ言って、私たちは反対方面の新幹線に乗った。電車の発車寸前、窓の外を見るとトンボが一匹裏山の方向に飛んで行った。
 九月一日、暦の上ではもう秋だ。ここ数年は九月に入ってすぐ冷え込むようになったから、きっと今年もそうなのだろう。もうすぐ平成三十七年の夏が終わる。そして、令和七年の秋が来る。