月に一度、私は『スミ』になる。
そうやって彼の恋人の名前を着る。
本当の名前は——。
とても、今の私には似合わない。
朝、一人で目を覚ます。
椅子にかけられたバスローブ、からになったグラス、サイドテーブルに置かれたホテル代。
だるさの残る身体を起こして、彼の痕跡をベッドから見つめる。寂しいのに、虚しいのに、涙は出ない。
そうだ、彼の連絡先を削除しよう。
そうやって好意を切り離していこう。
0425、彼と出会った日。ロック画面を解除するための四桁を打ち込む。
——新から一件の新着メッセージ
その通知に『削除』を押す指先が止まった。
私はこのままじゃ、彼との関係を断ち切れない。
友達以上、浮気相手未満。
そんな関係は昨晩の行為で終わりを迎えたのに。
◆◆
「結婚することになった、会うのは今日が最後になる」
気持ちのこもっていないごめんねを添えて彼が言った。
二十三時。話したいことがあるから遠回りしよう、と誘われ人気のない路地を歩いている途中。なんでこのタイミング? と疑ってしまうほど突然。
「結婚したら異性の友達と会えなくなるものなの?」
「友達ではないだろ、俺たち」
「友達だよ、だって恋人じゃないんだもん」
「それなら今、心から『結婚おめでとう』って言える?」
心の内側を見透かされた問いが、冷たい口調もあいまって私に刺さる。
おめでとう、なんて言えるわけがない。
そんな私自身に情けなくなって小さく一度だけ、横に首をふる。そして——。
「結婚するほど好きになってもらえるなんて羨ましい」
そんな未練がましいことを独り言のようにつぶやいて、彼を困らせた。
数歩先を歩いていた彼は私の思惑通り、足を止めて振り向いてくれた。そんな彼の眉間には、少しだけ皺がよっている。
綺麗に整った顔は表情が歪んでも美しいまま。街灯の下だから、それがよく見える。鋭い切れ長の目と通った鼻筋、薄い唇に色っぽさのあるフェイスライン。彼は極端な主張のない、奇妙に整った顔をしている。
近寄って、足を動かす素振りのない私の手に触れる。その指を手繰り寄せるように彼の手を握った。少しだけ、口角を上げてみせる。
私の言動に彼は苛立った表情で口を開く。
「それを言うのは、違うじゃん。だって——」
「わかってるよ、私の役目くらいわかってる。私もそれを望んでる」
「それじゃあどうして」
「わかってても、好きなものは好きだから」
呆れたようにため息を吐く彼には、三年前から交際している恋人がいる。
あまり詳しく聞いたことはないけれど同業者として知り合った人らしい。その女性の写真を彼から一度だけ見せてもらったことがある。悔しいけれど、容姿端麗な彼の隣を歩く人だ。それはもう、同性の私でも見惚れてしまうほどの美人だった。
ただそんな彼女と彼の間には一つ、埋まらないズレがあった。
「新の話し相手になる。私と会う理由は本来それだけだったんだから」
吹っ切れた口調で言ってみると、彼は言葉を詰まらせながら俯いた。
それがなによりの肯定の合図。
家事や炊事を完璧にこなし、仕事では彼に劣らない優秀な成績を収め、それでいて常に彼を尊重する。彼女は家庭的で賢く寛容、という恋人として欠点のない性格の持ち主。
ただ言葉の通り『欠点がない』そんな人。
「別れる理由はない、ただ刺激もない。最初に会った時、酔ってた新は私にそう言ってたよ」
「それは酔ってて言葉が大きくなっただけだよ」
「でもだからこその本心なんじゃない? 恋人がいるのに夜遅く一人で居酒屋に来てカウンター席でたまたま隣に居合わせた異性に声をかけるって、不満がないとしないよ」
頷くことしかできなくなっていく彼を責め立てているように思えて、少しだけ胸が痛む。
思っていたよりも鋭い言葉を並べてしまった。
それだけ私自身、彼の恋人の『不足』を埋める役であることが悔しかったのだろう。
彼が『足りない』と感じたもの、それは心を通わせることだった。
なんでも完璧にこなしてしまう彼女との生活は不自由さを抱かない反面、共に悩むことや補い合う場面がないことへの寂しさが積もるものだったのだそう。
そして結婚を考え始めた頃、彼女が多忙になったことも重なりその寂しさはより強いものとなったらしい。
そこで出会ったのが私だった。
立ち寄った居酒屋にいた年の近い異性、偶然にも波長が合って話が弾んだ相手。
そして彼が吐き捨てた一言——。
「あの時、私に『結局寂しいだけなんですよね』って言ったから。だから私は、新の話し相手になりたいって思ったんだよ」
彼が彼女に対する惚気や愚痴を零す姿は確かに情けなかった。恋人に欠点がないことが寂しいなんて、ないものねだりなだけのようにも感じた。
ただ話を聞くたびに私は、その彼女を羨ましいと思ってしまった。
大した理由なんてない。
私自身にある恋人がいない寂しさと、彼の異様な容姿の綺麗さが重なっただけ。
ぼんやり、好きだな、と感じた。
だから私は、彼の寂しさに漬け込むように『話し相手』という役を掴んだ。
「最初は俺だって、ただの話し相手が欲しかっただけなんだよ。異性としてじゃなくて、人として、友達みたいなそういう——」
「それは私が一方的に好きになったことがよくなかったって言いたいの?」
「よくなかったなんて突き放した言い方はしてない。ただ俺は、純粋に話し相手としての付き合いでいたかったんだ」
「それじゃあどうして、私の名前を恋人と同じ呼び方に揃えたの?」
彼は再び俯いて口を籠らせる。
彼からの『結婚する』という告白から私たちは一歩も進まずに、街頭の下で足を止めている。片方は俯いて、手を触れ合っている男女。傍から見たら奇妙、というより歪だろう。
そんなことも構わず、私たちの間には静かな空気が流れ続ける。
私が『スミ』と呼ばれている理由、それは彼の恋人の名前が『澄』だから。
彼と二度目に会った日。彼女へ呼び間違えないようにと頼まれ、私はそれを受け入れた。
偶然だった。だって私の本当の名前は——、あまり違和感がない。
それより同じ呼び方をされていることから彼の恋人を擬似体験している感覚に陥り、私はより彼に惚れ込んでいった。
話し相手、という境界線は『スミ』になった瞬間に私の中で崩れた。
「呼び方を揃えたのは、異性としてスミのことを意識してたから」
「その『スミ』は私に向けたことだって受け取っていい?」
彼は嘘みたいに目を泳がせながら頷く。
そして確信する。私たちは互いに異性としての好意を寄せていた、と。
それでも恋人と婚約していた彼は私との境界線を守り続けた。
月に一度、話しながら食事をするだけ。
私と彼は本当にそれだけだった。
「私が新のこと好きって、気づいてた?」
「気づいてた、だから俺の頭の中にもスミがいた。いつ名前を間違えても不思議じゃないくらいにね」
わかってた、それが嫌だった。
私の一方的な恋心で終われたらよかったのに。
浮気の基準、という曖昧な指標がある。
捉え方によって、私は十分彼の浮気相手になってしまう。ただ彼の中で違うだけ。
「新の浮気の基準って、どこから」
「急だね。浮気か、体の関係を持ってから、かな」
私は友達でも、浮気相手でも、きっともうただの話し相手でもない。
そんな関係性を保留にされたような状態が苦しかった。
彼は私の機嫌を探るような口調で『スミは浮気相手なんかじゃないから大丈夫』と言ってみせた。大丈夫なことなんて、私の中には一つもないのに。
伝えるべきことが込み上げて、急かされるように沈黙に殴られる。
そんな私の頭に彼の手が触れて、柔らかく、優しく撫でられる。
その感触に私の中の理性が切れた。
もう、彼には会えない。
今夜で、この恋の全てが終わる。それならもう——。
「ねぇ、新。もし新の恋人より私が早く新と出会ってたら、私たち恋人同士になれてたのかな」
「そんな『もしも』の話なんてわからないよ」
「途中で恋人と別れてたら、新は私と結ばれてた?」
「だから『もしも』なんてわからないよ、それにもう過ぎたことだ。もっとわからない」
冗談まじりに彼は私の問いをはぐらかす。
そして宥めるように再び私の頭を撫でた。
「それなら新」
もしもの話がわからないのなら、私は今の話をするしかない。
「最後に抱いて。って言ったら、新は私をどうする?」
頭を撫でる手が止まって、間抜けた声が彼から漏れた。
私の頭に置かれていた手が離れて落ちていく、その手を取り指を絡めるように握る。
引かれてもいい、苛立たれてもいい、彼の恋人にバレてもいい。
私にとって、この夜が彼へ恋できる最後の瞬間だから。
◆
彼と唇を重ねた、ベッドの上。
私に覆い被さるように彼の身体がある。
互いの肌が直に触れ合う。
「スミ」
最後の瞬間も、私は『スミ』のままらしい。
でもそれでいいような気がした。
彼にまっすぐ見つめられている、初めての感覚だった。
会うためだけに巻いた髪が指で撫でるように解かれて、新調した服を丁寧に脱がされて、メイクはきっと数時間後には彼に剥がされている。
彼の中に初めて、異性としての私だけがいる。
「新」
「ん?」
目があった。
彼へこの言葉を告げる。
「好き」
その言葉の後、数秒前より強く抱きしめられた。
そして——。
「好き」
そう耳元で返された。
同じ言葉なのにどうしてだろう。
私には彼しかいないのに、彼には別の『好き』の対象がいることに寂しさを感じる。
互いの身体は同じくらい熱っているのに、言葉の温度を揃えることって難しい。
——頭上にある彼のスマートフォンから通知音が鳴った。
ちょっとごめんね、と彼が手に取った画面が目に入る。
帰りが朝になることを伝えたのだろうか、可愛らしい絵文字付きで『気をつけて帰ってきてね』と届いていた。
結婚直前の恋人が朝帰り。なんて、きっと状況を察されていてもおかしくないのに。
そのメッセージから彼女には敵わないと痛感した、私が恋人に選ばれなかった本当の理由を突きつけられた。
「スミ、なんで泣いてるの」
「通知くらい、切っててよ」
そんなことしか言えなかった。
そのメッセージを返したら、きっと私と彼の時間が始まる。
「新」
「なに?」
「明日の朝、私のこと待たずにホテルを出てほしい。一人で目覚めたいの」
そうしないと私は彼のことを追いかけてしまう。
私の頼みを受け入れた彼はスマートフォンを投げ出し、もう一度私の唇に触れた。
恋の終わりへ、私たちは体温を交えながら夜を明かしていく。
◆◆
『削除』を押す指が止まっている。
新着メッセージに触れてしまう、彼に対して『既読』を残すことに抵抗している私がいる。
それでも最後に知りたい、彼との恋を終わらせるために。
◇
読んでくれたら連絡先を消してほしい。
澄恋《スミレ》、綺麗な名前なのにちゃんと呼んであげられなくてごめん。
澄んだ恋って名前が似合う素敵な恋をして幸せになってね。
俺との恋を切ない恋にしてごめん。
◇
呼ばれちゃった、本当の名前。
私にとっての『スミ』は恋人ごっこができる魔法みたいなものだったのに。
今の私に一番似合わない名前を、彼から呼ばれてしまった。
どうせならもう少し早く、彼の声で呼んでほしかった。
「それに私、澄んだ恋なんて望んでないよ」
彼を好きになった時から、綺麗な恋なんて求めていなかった。
月に一度しか会えなくてもいい。
隠しながらの関係でもいい。
まっすぐな幸せじゃなくてもいい。
切ない恋なんて言葉、聞きたくなかった。
初めて気づいた、私はただ彼と——。
——切れない恋がしたかったんだ。
それでも終わった、私の中の彼への恋の全てが終わった。
今頃恋人からの『おかえり』という幸せに包まれている彼を想像して息が詰まる。
私はまだ彼のことが好きだけど、苦しさを抱えてまで好きでいたいとは思えない。
「好きだったよ『スミ』でいた頃の私はね」
呟いて、私の中で言葉が消えていくのを待つ。
彼のメッセージへ返信はしない。
——選択したアカウントを削除しますか?
止まっていた指先が画面に触れる、迷いはない。
連絡先からひとつ、名前が消えた。
そして今から、彼の中での私を削除する。
——登録したアカウント名を変更しますか?
彼と二度目に会った日に着せられた魔法。
私の手で解いて、脱ぎ捨てる。
——アカウント名を『スミ』から『澄恋』へ変更しました
さよなら、私の恋人ごっこ。
そうやって彼の恋人の名前を着る。
本当の名前は——。
とても、今の私には似合わない。
朝、一人で目を覚ます。
椅子にかけられたバスローブ、からになったグラス、サイドテーブルに置かれたホテル代。
だるさの残る身体を起こして、彼の痕跡をベッドから見つめる。寂しいのに、虚しいのに、涙は出ない。
そうだ、彼の連絡先を削除しよう。
そうやって好意を切り離していこう。
0425、彼と出会った日。ロック画面を解除するための四桁を打ち込む。
——新から一件の新着メッセージ
その通知に『削除』を押す指先が止まった。
私はこのままじゃ、彼との関係を断ち切れない。
友達以上、浮気相手未満。
そんな関係は昨晩の行為で終わりを迎えたのに。
◆◆
「結婚することになった、会うのは今日が最後になる」
気持ちのこもっていないごめんねを添えて彼が言った。
二十三時。話したいことがあるから遠回りしよう、と誘われ人気のない路地を歩いている途中。なんでこのタイミング? と疑ってしまうほど突然。
「結婚したら異性の友達と会えなくなるものなの?」
「友達ではないだろ、俺たち」
「友達だよ、だって恋人じゃないんだもん」
「それなら今、心から『結婚おめでとう』って言える?」
心の内側を見透かされた問いが、冷たい口調もあいまって私に刺さる。
おめでとう、なんて言えるわけがない。
そんな私自身に情けなくなって小さく一度だけ、横に首をふる。そして——。
「結婚するほど好きになってもらえるなんて羨ましい」
そんな未練がましいことを独り言のようにつぶやいて、彼を困らせた。
数歩先を歩いていた彼は私の思惑通り、足を止めて振り向いてくれた。そんな彼の眉間には、少しだけ皺がよっている。
綺麗に整った顔は表情が歪んでも美しいまま。街灯の下だから、それがよく見える。鋭い切れ長の目と通った鼻筋、薄い唇に色っぽさのあるフェイスライン。彼は極端な主張のない、奇妙に整った顔をしている。
近寄って、足を動かす素振りのない私の手に触れる。その指を手繰り寄せるように彼の手を握った。少しだけ、口角を上げてみせる。
私の言動に彼は苛立った表情で口を開く。
「それを言うのは、違うじゃん。だって——」
「わかってるよ、私の役目くらいわかってる。私もそれを望んでる」
「それじゃあどうして」
「わかってても、好きなものは好きだから」
呆れたようにため息を吐く彼には、三年前から交際している恋人がいる。
あまり詳しく聞いたことはないけれど同業者として知り合った人らしい。その女性の写真を彼から一度だけ見せてもらったことがある。悔しいけれど、容姿端麗な彼の隣を歩く人だ。それはもう、同性の私でも見惚れてしまうほどの美人だった。
ただそんな彼女と彼の間には一つ、埋まらないズレがあった。
「新の話し相手になる。私と会う理由は本来それだけだったんだから」
吹っ切れた口調で言ってみると、彼は言葉を詰まらせながら俯いた。
それがなによりの肯定の合図。
家事や炊事を完璧にこなし、仕事では彼に劣らない優秀な成績を収め、それでいて常に彼を尊重する。彼女は家庭的で賢く寛容、という恋人として欠点のない性格の持ち主。
ただ言葉の通り『欠点がない』そんな人。
「別れる理由はない、ただ刺激もない。最初に会った時、酔ってた新は私にそう言ってたよ」
「それは酔ってて言葉が大きくなっただけだよ」
「でもだからこその本心なんじゃない? 恋人がいるのに夜遅く一人で居酒屋に来てカウンター席でたまたま隣に居合わせた異性に声をかけるって、不満がないとしないよ」
頷くことしかできなくなっていく彼を責め立てているように思えて、少しだけ胸が痛む。
思っていたよりも鋭い言葉を並べてしまった。
それだけ私自身、彼の恋人の『不足』を埋める役であることが悔しかったのだろう。
彼が『足りない』と感じたもの、それは心を通わせることだった。
なんでも完璧にこなしてしまう彼女との生活は不自由さを抱かない反面、共に悩むことや補い合う場面がないことへの寂しさが積もるものだったのだそう。
そして結婚を考え始めた頃、彼女が多忙になったことも重なりその寂しさはより強いものとなったらしい。
そこで出会ったのが私だった。
立ち寄った居酒屋にいた年の近い異性、偶然にも波長が合って話が弾んだ相手。
そして彼が吐き捨てた一言——。
「あの時、私に『結局寂しいだけなんですよね』って言ったから。だから私は、新の話し相手になりたいって思ったんだよ」
彼が彼女に対する惚気や愚痴を零す姿は確かに情けなかった。恋人に欠点がないことが寂しいなんて、ないものねだりなだけのようにも感じた。
ただ話を聞くたびに私は、その彼女を羨ましいと思ってしまった。
大した理由なんてない。
私自身にある恋人がいない寂しさと、彼の異様な容姿の綺麗さが重なっただけ。
ぼんやり、好きだな、と感じた。
だから私は、彼の寂しさに漬け込むように『話し相手』という役を掴んだ。
「最初は俺だって、ただの話し相手が欲しかっただけなんだよ。異性としてじゃなくて、人として、友達みたいなそういう——」
「それは私が一方的に好きになったことがよくなかったって言いたいの?」
「よくなかったなんて突き放した言い方はしてない。ただ俺は、純粋に話し相手としての付き合いでいたかったんだ」
「それじゃあどうして、私の名前を恋人と同じ呼び方に揃えたの?」
彼は再び俯いて口を籠らせる。
彼からの『結婚する』という告白から私たちは一歩も進まずに、街頭の下で足を止めている。片方は俯いて、手を触れ合っている男女。傍から見たら奇妙、というより歪だろう。
そんなことも構わず、私たちの間には静かな空気が流れ続ける。
私が『スミ』と呼ばれている理由、それは彼の恋人の名前が『澄』だから。
彼と二度目に会った日。彼女へ呼び間違えないようにと頼まれ、私はそれを受け入れた。
偶然だった。だって私の本当の名前は——、あまり違和感がない。
それより同じ呼び方をされていることから彼の恋人を擬似体験している感覚に陥り、私はより彼に惚れ込んでいった。
話し相手、という境界線は『スミ』になった瞬間に私の中で崩れた。
「呼び方を揃えたのは、異性としてスミのことを意識してたから」
「その『スミ』は私に向けたことだって受け取っていい?」
彼は嘘みたいに目を泳がせながら頷く。
そして確信する。私たちは互いに異性としての好意を寄せていた、と。
それでも恋人と婚約していた彼は私との境界線を守り続けた。
月に一度、話しながら食事をするだけ。
私と彼は本当にそれだけだった。
「私が新のこと好きって、気づいてた?」
「気づいてた、だから俺の頭の中にもスミがいた。いつ名前を間違えても不思議じゃないくらいにね」
わかってた、それが嫌だった。
私の一方的な恋心で終われたらよかったのに。
浮気の基準、という曖昧な指標がある。
捉え方によって、私は十分彼の浮気相手になってしまう。ただ彼の中で違うだけ。
「新の浮気の基準って、どこから」
「急だね。浮気か、体の関係を持ってから、かな」
私は友達でも、浮気相手でも、きっともうただの話し相手でもない。
そんな関係性を保留にされたような状態が苦しかった。
彼は私の機嫌を探るような口調で『スミは浮気相手なんかじゃないから大丈夫』と言ってみせた。大丈夫なことなんて、私の中には一つもないのに。
伝えるべきことが込み上げて、急かされるように沈黙に殴られる。
そんな私の頭に彼の手が触れて、柔らかく、優しく撫でられる。
その感触に私の中の理性が切れた。
もう、彼には会えない。
今夜で、この恋の全てが終わる。それならもう——。
「ねぇ、新。もし新の恋人より私が早く新と出会ってたら、私たち恋人同士になれてたのかな」
「そんな『もしも』の話なんてわからないよ」
「途中で恋人と別れてたら、新は私と結ばれてた?」
「だから『もしも』なんてわからないよ、それにもう過ぎたことだ。もっとわからない」
冗談まじりに彼は私の問いをはぐらかす。
そして宥めるように再び私の頭を撫でた。
「それなら新」
もしもの話がわからないのなら、私は今の話をするしかない。
「最後に抱いて。って言ったら、新は私をどうする?」
頭を撫でる手が止まって、間抜けた声が彼から漏れた。
私の頭に置かれていた手が離れて落ちていく、その手を取り指を絡めるように握る。
引かれてもいい、苛立たれてもいい、彼の恋人にバレてもいい。
私にとって、この夜が彼へ恋できる最後の瞬間だから。
◆
彼と唇を重ねた、ベッドの上。
私に覆い被さるように彼の身体がある。
互いの肌が直に触れ合う。
「スミ」
最後の瞬間も、私は『スミ』のままらしい。
でもそれでいいような気がした。
彼にまっすぐ見つめられている、初めての感覚だった。
会うためだけに巻いた髪が指で撫でるように解かれて、新調した服を丁寧に脱がされて、メイクはきっと数時間後には彼に剥がされている。
彼の中に初めて、異性としての私だけがいる。
「新」
「ん?」
目があった。
彼へこの言葉を告げる。
「好き」
その言葉の後、数秒前より強く抱きしめられた。
そして——。
「好き」
そう耳元で返された。
同じ言葉なのにどうしてだろう。
私には彼しかいないのに、彼には別の『好き』の対象がいることに寂しさを感じる。
互いの身体は同じくらい熱っているのに、言葉の温度を揃えることって難しい。
——頭上にある彼のスマートフォンから通知音が鳴った。
ちょっとごめんね、と彼が手に取った画面が目に入る。
帰りが朝になることを伝えたのだろうか、可愛らしい絵文字付きで『気をつけて帰ってきてね』と届いていた。
結婚直前の恋人が朝帰り。なんて、きっと状況を察されていてもおかしくないのに。
そのメッセージから彼女には敵わないと痛感した、私が恋人に選ばれなかった本当の理由を突きつけられた。
「スミ、なんで泣いてるの」
「通知くらい、切っててよ」
そんなことしか言えなかった。
そのメッセージを返したら、きっと私と彼の時間が始まる。
「新」
「なに?」
「明日の朝、私のこと待たずにホテルを出てほしい。一人で目覚めたいの」
そうしないと私は彼のことを追いかけてしまう。
私の頼みを受け入れた彼はスマートフォンを投げ出し、もう一度私の唇に触れた。
恋の終わりへ、私たちは体温を交えながら夜を明かしていく。
◆◆
『削除』を押す指が止まっている。
新着メッセージに触れてしまう、彼に対して『既読』を残すことに抵抗している私がいる。
それでも最後に知りたい、彼との恋を終わらせるために。
◇
読んでくれたら連絡先を消してほしい。
澄恋《スミレ》、綺麗な名前なのにちゃんと呼んであげられなくてごめん。
澄んだ恋って名前が似合う素敵な恋をして幸せになってね。
俺との恋を切ない恋にしてごめん。
◇
呼ばれちゃった、本当の名前。
私にとっての『スミ』は恋人ごっこができる魔法みたいなものだったのに。
今の私に一番似合わない名前を、彼から呼ばれてしまった。
どうせならもう少し早く、彼の声で呼んでほしかった。
「それに私、澄んだ恋なんて望んでないよ」
彼を好きになった時から、綺麗な恋なんて求めていなかった。
月に一度しか会えなくてもいい。
隠しながらの関係でもいい。
まっすぐな幸せじゃなくてもいい。
切ない恋なんて言葉、聞きたくなかった。
初めて気づいた、私はただ彼と——。
——切れない恋がしたかったんだ。
それでも終わった、私の中の彼への恋の全てが終わった。
今頃恋人からの『おかえり』という幸せに包まれている彼を想像して息が詰まる。
私はまだ彼のことが好きだけど、苦しさを抱えてまで好きでいたいとは思えない。
「好きだったよ『スミ』でいた頃の私はね」
呟いて、私の中で言葉が消えていくのを待つ。
彼のメッセージへ返信はしない。
——選択したアカウントを削除しますか?
止まっていた指先が画面に触れる、迷いはない。
連絡先からひとつ、名前が消えた。
そして今から、彼の中での私を削除する。
——登録したアカウント名を変更しますか?
彼と二度目に会った日に着せられた魔法。
私の手で解いて、脱ぎ捨てる。
——アカウント名を『スミ』から『澄恋』へ変更しました
さよなら、私の恋人ごっこ。