「義弟よ! 力貸してくれ!」
なんてな事を言って飛び込んできた賢哲さんに、良庵せんせは膠もなく言ってのけました。
「見たらわかるだろう。今忙しい。後にしろ」
賢哲さんが飛び込んだの、やーっ、とーっ! なんて掛け声響く道場ですからね。
「話を聞く前に一つ言っておく。僕は賢哲の義弟じゃあない。少なくとも今はまだな」
「良いじゃねえか。じきそうなるんだしよ」
実際そうなったら認めざるを得ませんけどねぇ。
賢哲さんと姉の婚儀は来月らしいんでじきっちゃじきなんですよね、実際。
双肌脱ぎになった良庵せんせへ手拭いを渡します。こんな何気ない事だって、なんだか甲斐甲斐しいお嫁さんって感じで満足感ありますねぇ。
「ありがとうございますお葉さん。それでどうした。何かあったのか? 誰か怪我でもしたのか?」
「ばか、違えよ。そっちの力はあんまアテにしてねえ。こっちの方だ」
賢哲さんがそう言って、握った拳を縦に並べて頭上に掲げて振り下ろしました。
貸して欲しいのは野巫医者の方でなくってやっとうの方でしたか。
「バカ親父のせいでよぉ! 俺が夜回り行かなきゃなんねんだ!」
「そうか、ご苦労な事だな。ここのところ物騒だから気を付けろよ」
「だから一緒に来てくれよぉ! 俺だけじゃ心許ねぇ!」
なんでそんな事になっちまったのかってぇと――
この間から町を駆け回る妖魔の噂に加え、三太夫らの妖魔騒ぎを受けて町長さんや邏卒長がお寺に相談に来たそうなんです。
止しときゃ良いのに賢哲さんのお父上、賢安寺の住職・賢仁さんは大法螺ふいて言っちまったそう。
『神仏の加護が妖魔を祓う!』って。お父上も大概お調子者ですよねぇ。
それは頼もしいってなもんで、町長その他は『では妖魔の事は賢安寺さんにお任せします』って事で白羽の矢が刺さったのが賢哲さん。
「妖魔相手だぜ!? 俺がお経唱えたからってなんとかなると思うかよ?」
「うーん、この間の感じから言って……おまえじゃ死ぬなぁ」
「だろう!? だから義兄ちゃんのお願い聞いてくれ!」
良庵せんせが一緒に行ったからってどうなるものでもないと思いますけど……。
けれど、しばし思案した良庵せんせは頷いてしまいます。
「……分かった。僕にも思うところがある。付き合うよ」
断らないとは思いましたけど、なんだか良庵せんせったら複雑な表情しながらも満足そう……?
ま、何考えてるかあたしにゃ分かりますけどね。
巫戟の力がなんだかよく分からないながらも、再び読み返した地の部と天の部、それから得た何かを試そうってんでしょうねぇ。
これは拙いことになりました。
アレは今の良庵せんせが何度読んでも、何も得られるものはない筈なんですもの。
「助かるぜ! なら明日の晩から頼む!」
……しかも結構急ですねぇ。今晩から明日中、そんな短時間でなんとかなるものかしら……。
賢哲さんはそのあと元気よく帰って行きましたが、良庵せんせはあれから書斎にこもりっきりです。
時折り様子を覗いてみても、食い入る様に野巫三才図絵を見詰めていたかと思うと、今度は筆を手に取り黙々と何事かを書き殴ったり。
恐らくは地の部か天の部に載る呪符を試しているのでしょうが、きっと虫喰いだらけの、野巫として機能しない呪符でしょうねぇ。
淹れたお茶を持って書斎を訪れ、畳に散らばるせんせが書き殴った三椏の紙をさりげなく確認します。
……やはりこれではいけません。
この呪符では妖魔に対してなんの効果もありませんもの。
良庵せんせは巫戟を使えませんから当然ですが、せめてその片割れ、『巫』だけでも使えなければ……
もし万が一にも三太夫並みの妖魔に再び出会っちまったら……
このまま賢哲さんと二人で夜回りに行かせるわけにはいきませんね。……おや? お客さんかい?
あたしの張った結界をどなたか潜りましたね。
知らない方の様ですが、どことなく……なんだか懐かしい感じのする方です。
「ごめん下さい! どなたかおられませぬか!」
「はいはい居ますよ。どの様な御用件でしょ――」
……凛とした佇まいの、柔和そうな笑顔のお若い殿方……
「ど、どなた様でございますか?」
「奥方さまでございますな。それがしは薮井と申します!」
野巫医の家に薮井ですって。洒落たことですね、っても駄洒落どまりですけどねぇ。
「町の者からこちらが野巫医者をされていると耳にしまして、少しお話しを聞かせてもらえればと思い伺った次第でございます」
「まぁこれはご丁寧に。でしたら野巫医をしている主人に聞いてきますので少々お待ちくださいね」
とあたしが申し出れば、僅かに落胆した気配の薮井青年。何か拙いことでも言ったかしら。
とりあえず気にせずそのまま放っておいて、書斎のせんせのとこに行きましょうか。
「良庵せんせ、お客様ですよ。よく分かりませんけど野巫医者のお話ししたいそうです」
「野巫の? いま忙しいんですが……――そうですね、どうにも行き詰まったところです。ちょうど良いかも知れません」
「ならこちらにお通ししてよろしいですか?」
「ええ、お願いします」
そう言ったせんせが畳に散らばった呪符を掻き集め始めたのを確認し、あたしは玄関へと戻ります。
戻りながら彼の人を思い浮かべてみますけど、どこかで見たとかそういう事はないようです。
けれど何故か、どことなく懐かしいような、そんな不思議な感覚があたしのどこかに確かにあるんです。
なんなんでしょうねぇ。
「薮井さま。主人がお話し伺うとの事です。どうぞ上がって下さいな」
何故だかあたしの顔をじっと見て、返事もしない薮井青年。なんです? なんか可笑しな顔でもしてるって言うのかい?
「……あぁ、すみません。見入ってしまいました」
「まぁ構いませんけど……。ご飯粒でもくっついてましたか?」
不快な感じの視線じゃありませんでしたからね、コロコロ笑って適当なこと言っときました。
「失礼ついでに一つ伺っても?」
「なんです?」
「奥方さまも野巫を嗜まれて?」
「いいえ、ちぃとも」
なんなんですこの人。
あたしは嗜むどころの話じゃないですけど、なんだか油断ならない感じですねぇ。