「それさ、どうにかならないの? 気持ち悪いんだけど」
 何人目かの恋人。
 何回目かのこの言葉。
 
 私の服の裾をまくってすぐ、そこには複数の傷がある。
 もう、一生消えないやつ。 
 自分でつけたやつだからさ、自業自得ではあるんだけど。
 誰かに自分の苦しみを分かってほしくて、誰かに気が付いてもらいたくて、つけたもの。
 でも、世間は冷たくて。
 自分の考えの浅はかさだけがこうやって目に見える形で残ってしまった。

「お疲れ様でーす」
「あ、おつかれ~」
 この職場に来て早1年。
 少し前まで新卒で入社したペーペーだったのにいつの間にか後輩なんか出来ちゃって。
成那(せな)先輩今日も長袖ですか? 暑くないんですか」
「いや~なかなか腕をだすタイミング逃しちゃってね」
 これは自分の中での鉄板の言い訳。
 もはや脊髄反射だ。
 大学生の頃から長袖を突き通していれば周りはお腹やら肩やら足やらを出している女子大学生。
 1人だけ着ているのは長袖。そんなの浮くに決まっている。
 そこで私が編み出した方法はユーモアに任せて茶化してもらう作戦。

「そんなことあります? 季節はもう夏通り越して真夏ですよ」
「だよね~いい加減タイミングつかめって話よ」
 内心、ほっといてほしいという気持ちが強いけどしょうがないよね。
 だって、私だって思うよ。暑苦しい。半袖着たいって。
 でも、そうさせてくれないのは世の中だから。
 今日も仕方なく私は長袖を着る。

「あっ! おはようございます! 」
 社内に聞きなれた黄色い声が上がる。
 この声色。顔を見なくても分かる。
 皆大好き律月(りつき)さんだ。
 私達の3つ年上で毎年後輩がはいってくるたびに黄色い声がやまないらしい。
 でも、そのあまりにも整っている外見とは裏腹に中身はかなりひどいらしく、新入社員しかキャーキャー言わないのは皆厳しい現実をつきつけられて心が折れていくからなんだったって。
「成那先輩は律月先輩良いと思わないんですか? 」
 皆が先輩を目で追う中、1人でパソコンを立ち上げていると後輩のみなちゃんに耳打ちされる。
「えぇ? 良いと思わないってより律月さんとは絶対釣り合わないしな~って気持ちが強くて」
 こんなのはごまかしの為の理由。
 大人になるにつれて恋人とすることは変わってくる。
 良い雰囲気になって服を脱ぐたびに言われてきた言葉。
 ”気持ち悪い”
 そんな風に言われるくらいなら恋はもういいかなって。
 自分の腕に触れてそう思う。
 みなちゃんは自分から聞いといて「ふーん」と興味なさそうな返事をした。
 そんな恋バナをしてる場合ではない。
 今日も仕事は待ってくれないんだから。
 デスクに常備してある鏡で今日も自分の顔にゴミが付いてないか、最低限のビジュが保てているかをチェックして仕事にとりかかった。


「おーい成那。ちょっと来い」
 お昼休憩前、ん~っと伸びをしていたところに部長がこいこいと手招きをする。
 顔色的に何かやらかしたわけではなさそうだけど、なんだろ。

「成那、新しいプロジェクトな。お前に任せてみようと思うんだけど、どうだ? やってみるか」

 それは思いもよらない話。
 だって、まだ入社して1年だよ?
 別に何か凄い功績をあげたり、同期の中で特別仕事ができるわけじゃない。
 でも、大きな目標を持って、変わるんだと意気込んで入社したこの会社。
 せっかくのチャンスを”私なんかが”ってネガティブな感情でないものにしたくなかった。
「はい! ぜひやらせてください! 」
 自分に気合を入れるためにもいつもより強めの返事。
 未知数なことに嫌な妄想もちらついてしまうけど、それでも今はひとまず与えられた仕事を与えられたもの以上で返したい。
 そうと決まれば早かった。


****


「成那先輩最近忙しそうですね」
「みなちゃん、おつかれ。ありがたいことに忙しくさせてもらってるって感じかな」
「新しいプロジェクト任されたんですよね。順調ですか? 」
 珍しくみなちゃんが男の人の話以外でくいついてくることに少し意外性を感じながら最近の進み具合を話せる範囲で話した。
 チームの人が協力的で助かってるとか、こんなことでつまずいたけど意外とあの人がそこの所詳しくて助かったとか、色々。
 でもみなちゃんは
「こういう仕事こなせたら律月先輩も少しは興味もってくれますかね」
 って。
 結局律月さんかい。
 興味持ってくれたと少し嬉しくなった私の気持ちを返してくれ。
 みなちゃんの発言に心の中でツッコミをいれて「そうかもね」と笑って返した。
 仕事に気合を入れるのに理由なんてなんでもいいと思うし。
 律月さんに振り向いてもらうことを目標に仕事頑張れるならそれに越したことはない。
 そんなことより私は今日残業だ。
 会社についているコンビニでエナジードリンクを買いにデスクを後にした。


 絶対値上がりしたよね。
 どんどん値上がりするいつものエナドリを片手にレジに並んだ。
「え、うそでしょ? また? 」
 後ろからひそひそとそんな声が聞こえてきた。
 自分の悪口かと冷っとして聞き耳を立ててしまう。
「そうそう。律月さん、また振ったんだって。しかも今度はあのお嬢」
「まじで? お嬢がダメならもう皆ダメでしょ」
 なんだ。律月さんの話か。
 え、てゆうかお嬢アタックしたんだ。
「お次の方~」
 レジに呼ばれた後もちょっと考えてしまう。
 お嬢というのはうちの会社で1番顔面偏差値の高いお金持ちの家の人で律月さんより5つ歳上。
 いつもブランド物を引っ提げて、ブランド物に生かされてるみたいだからとそのあだ名がひそかにつけられていた。
 お嬢に告白した男の数は底知れず、またその分だけ木っ端みじんにされた男も同じだけいる。
 私の同期も確か当たって砕けてたな~。
 なんて呑気に考えてしまう。

「しかもさ、お嬢が告白したときに”そういうの、大丈夫なんで。あなたなら気持ち分かると思ってたんすけどね”って頭ポリポリかいてたらしいよ」
「もはや面白すぎて”律月さん告白玉砕語録”作ってほしい」
「そこは日めくりカレンダーでしょ」 
 それはちょっとほしいかも。
 律月さんの告白玉砕日めくりカレンダー。
 この人達も多分、律月さんと自分は違うステージだからと1周回って高みの見物勢だと思う。
 いかんかんこんなことに時間を使ってる場合ではない。

 もうみんな帰宅してガランとした部屋に電気をつけ、パソコンの電源を入れる。
 結構今、煮詰まってて苦しい時。
 寝不足も相まって少し気持ちもブルーだ。
 でも、やらないと。
 期待に応えたい。
 そのためには今が踏ん張りどころだから。
 
 
****


 どれくらい時間が経ったんだろう。 
 煮詰まって今日やり切りたかったところまで全然終わってない。
 分かりやすく頭を抱えてしまう。
 これで部長から幻滅されたらどうしよう。
 やっぱりお前には早かったかって。
 他の人にも「あいつあんなに気合入ってたのに」って笑われちゃう。
 後輩にも見せる顔が無い。
 どうしよう。
 やばいやばい。

「いつまでやってんの」

 いきなり背後からかけられた声にびっくりしすぎてばかみたいに肩が上がってしまった。
「びっくりした....。え、律月さん、どうされたんですか」
 そこに立っていたのはお化けでもなんでもなくてただの律月さん。
 ただの、って失礼だけど。
 とりあえず今は人間だったことに安堵する。
「どうされたんですかって。こっちのセリフ。まだ帰らないの」
「すみません、まだもう少しだけ」
「別にいいけど明日も仕事なんじゃないの」
「そう、ですね」
「目の前の仕事だけに集中して他の事で人に迷惑かけたら元も子もないと思うんだけど」
 
 ”人に迷惑”
 
 その言葉が私の頭をゴーンと打った。
 私の、言われたら軽く死にたくなる言葉ランキング。
 
 3位 お節介、迷惑
 2位 調子乗ってる
 1位 メンヘラ
 
 今、私のやってることって迷惑な事だったんだ。
 巡り巡って人に迷惑かけてたんだ。
 そうやって言われた言葉がグルグル回ってバッドに入っていく。
「すみません、そうですよね」
 俯いて、はははって乾いた笑いが出る。
 それが今の精一杯だった。
 人それぞれ地雷な言葉ってあるじゃん?
 それを言われて機嫌が悪くなる人もいれば、泣いちゃう人もいる。
 私の場合は必要以上に黒いモヤモヤで心が侵食されていく。
 そんな私を見て
「さっきから謝ってばっか。なんでそんな頑張るの」
 自分の言った言葉が私にとっての地雷だなんて思ってもみないであろう律月さんは私に冷めた言葉ばかりかけてくる。
 さっきの言葉がまだ頭の中をループしてる私は自分の気持ちをセーブするという大切な所が機能せず、わりかし本心に近しい思いが口をついてしまった。
「私は、自分のしたことで人の役に立てることが嬉しいんです。だからこの会社を選びました。バイトしてた頃、任されてもない仕事を請け負うこともあったけど別に苦じゃなかったんです。それに対して”ありがと”って言われさえすれば私は満足だから。認められることでやっと自分が人並みに感じれるんです」 
 またはははって乾いた笑いを1つ。
 こんな気持ち律月さんに分かるわけない。
 なーんもしてなくても皆からキャーキャー言われる律月さんになんか。
 
 あ、そっか。

 私は律月さんと釣り合わないから良いと思わなかったんじゃない。
 いやだったんだ。
 苦しかったんだ。
 皆に慕われて、好きって言葉をもらって、出社しただけでキラキラとした目を向けられて。
 私はこんなに頑張ってるのに、それでもうまくいかなくて評価されないのに。

 あれ

 これじゃ”ありがとさえ言われれば満足”って嘘じゃん。
 見返りがないとしんどいんじゃん。
 人と比べて自分は頑張ってるのにって、なんておこがましい。
 私が自分でそう思うんだから律月さんも思ってるに決まってる。
 案の定
「なんか疲れる、繊細さん見てると。人にも自分にも嘘ついて」
 ほらね。
 もうこれ以上いいです。
 分かったから傷つけないでよ。
「すみません。もう、帰るんで。勘弁してください。それに私繊細さんじゃないです」
「あそ。君なんて繊細さんが1番お似合いだよ。早く帰りな。終電なくなるんじゃないの」
 あーもう。はいはい。
 帰りますよ。帰ればいいんでしょ。
 どうせ私なんて生きてるだけで迷惑なんだから。
 律月さんこそ早く帰りなよ。
 なんでこんな時間まで居るのよ。
 全部心の中でしゃべって、しゃべりきって「お疲れ様です」と冷たく言って会社を出た。
 背中から律月さんの覇気のない声が聞こえてくる。
「そんなんじゃ、手に入るもんも全部すり抜けてくよ」
 無視した。
 返事をせずに振り返りもせずに。
 明日、遅刻をして迷惑をかけないように(・・・・・・・・・・)


****


 朝、職場について、いつも通り皆に挨拶をして、デスクに座って、いつもと違う何かに意味も分からず背筋がぞわっとして焦燥感にかられた。
 え、何?
 なんでだろ。
 何かが違和感。
「成那先輩、お疲れ様です」
「あ、みなちゃん。おつかれー....」
 ここまでいつも通りのはずなのに。
「どうかしたんですか? さっきからキョロキョロして」
「あぁ、いや。なんかいつもと違うなって思ったんだけど。それが何か分からなくて」
 またみなちゃんは「ふーん」って他人事だ。

「おい。これよくできてるぞ」
 その部長の声で違和感に気が付いた。
 隣にいたみなちゃんは「ほんとですか? よかったです~」
 ってぴょんぴょんはねて部長のもとへ走って行く。
 部長の手には私が途中までやってたプロジェクトの事が入ってるファイル。
 
「ちょっと待ってください。それ、何ですか」
 勢いよく立ち上がってしまって、皆の視線が集まる。
 その視線に手首の傷がそわっと音を立ててそのまま心拍数をあげた。

「なんですかもなにもこのプロジェクト、みなに譲ったんだろ? 」

「はい? 」
 身に覚えのない文字の羅列に頭がクラっとする。
 なんであなたはそんなに落ち着いて勝ち誇った顔でこっちを見れるの?
 今まで私の隣にいて何を考えていたの?
 ねぇ、みなちゃん。
「成那先輩、体調悪そうだったし、これ以上無理してほしくなくて代わりますって言いましたよ? 疲れすぎて記憶飛びましたか? やっぱり無理しすぎだったんですよ」
 何その用意してたみたいなセリフたち。
 言われてないよそんな事。 
 だって私、昨日の昨日までこの仕事してたんだよ。
 
 昨日、エナジードリンクを買いに行く前までは確実にあった。
 戻ってきて、そのファイルを使うこと以外の仕事をしていたし煮詰まっていたから視点が固まってて気が付かなかったんだ。
 それより先ににみなちゃんが部長に嘘を言って少しずつ計画を進め、昨日ファイルを持って帰って案を詰めたのなら少し無理はあるけど説明はつく。
「ちょっと待ってください。私はそんな事言われた記憶はないし、引き継いだ記憶もありません。もう少しだったんです。部長も私に何も言わずにみなちゃんの言ったことを承諾されたんですか....? 」
「なんだその言い草は」
 嘘でしょ。 
 今私が怒られるターンなの?
「だいたいお前はいつも自分の事ばかりで周りが見えていない。自分の事でも精一杯なのにあれもこれもと手を出し、作業効率を下げる。ましてやそれに気が付いてない。ただのお節介だ。少しプロジェクトを任せてもらえたからって調子に乗るなよ。せめてTPOに合った格好くらいはできるようになってから偉そうなことを言ってくれ」
 
 なに、それ。
 また頭をゴーンと打つ。
 昨日よりも強く。
 色んな感情が混ざって。
 怒り、悔しい、悲しい、むかつく、怖い、逃げたい、もう何もしたくない。
 そんな感情が混ざって、マーブル模様みたいになって私の体内をめぐる。
「そんなの....」
 絞り出したその時だった。
「TPOに合った格好しろって言われてるじゃないですか」
 そう言ってみなちゃんが私のジャケットの裾をあげた。

「なんですか、これ」
「なんだそれは」
 
 なんでしょうねこれは。
 ねぇ。どっちがいいの?
 TPOにあった格好をしてこの”気持ちの悪い”傷を見せびらかすのと
 傷を隠してTPOにそぐわない格好をするの。
 どっちがいいの?
 どっちかにしてよ。
 
 ざわざわと音を立てる職場。

「なにあれ」「いやよく見えない」「ちょっと見すぎ見すぎ」「なにしてんの。え、なになに」
  「えーなにあれ~」「あ、成那さんってそう言う感じ?」
  「てゆうか部長にたてつくのやばすぎ」「みなちゃん、押し付けられたっていってなかった?」
「朝から勘弁してよ~」「平和に行こ平和に」「なんか面白いことになってるやん」
    「プロジェクトどうなんの」「成那って真面目なタイプだと思ってたのに」
「てゆうか」

「成那さんってメンヘラだったんだ」


 ....お願い。
 もう、やめて。
 
 私がそう叫んでも誰も助けてくれない。 
 昔のことが、壊れてザーッと音を鳴らすテレビに映るみたいに思い起こされて、呼吸が荒く、浅く、短くなる。
 冷や汗が止まらない。
 視線が揺らぐ。
 嫌な汗が滲んで、拳が強く握られていることに皮膚が破ける感触があって初めて気が付いた。
 
 その手を引く、誰かがいた。
「え....? 」
 私のそんな声はその場に置き去りにされてざわざわとした音で埋め尽くされた空間を引き裂いていくように切り入る。
「律月先輩! 」
 みなちゃんの甲高い鋭い声がまた空間を割くけどその声には振り向く素振りすら見せないで会社を後にした。


「ちょっと待ってください、離して....! 」
 抜け殻同然だった私が、引かれる手の力強さに耐えられなくなったのは会社を出て20分後の事だった。
「言ったとおりでしょ」
「....」
 何も言えなかった。
 少しだけ節目で見下ろす律月さんはいつもと表情を変えず淡々と続けた。
「見てられないな」
「見なくていいですこんな酷い姿」
「いいじゃん。似合ってるよ」
「こんな時まで冷たいんですね。でも、会社から逃がしてくださったことには感謝してます」
「うん、だから今からちょっと付き合って」
 そう言われてもう頷くしかなかったから律月さんに言われるがまま電車にのり、バスに乗り、そして歩いた。
 その間、会話という会話は全くなくてどこに向かってるのかも分からない。
 そんな私が連れていかれたのは
「居酒屋....? 」
「そう。入って」
「こんな真昼間に? 」
「入って」
 顎でも”入れ”と命令を受け、渋々木造のスライド式のドアを開けてのれんをくぐった。


****


 気が付けば感覚はかなりフワフワしていてテーブルには空きグラスが散らばっていた。
 久々にこんなに飲んだ。
 眠い。
「眠そう」
「眠いですよ」
「お前めっちゃ飲んでるもん」
「繊細さんだとかお前だとか。名前あるんですけど私にも」
「俺、基本人の名前呼ばない。それが心の壁だから」
「すかしちゃって。友達いるんですか」
「お前に言われたくない」
「あーそうですかー」
 律月さんの鋭い一言を食らってまたやけにお酒を流し込む。
 そのグラスをドンっと置いて聞こえてないならそれでもいいよっていう声量でしゃべった。

「これを中学生の時に自分で切りました。いじめられて辛かったけどその気持ちをうまく具現化できなかったし皆私の苦しみに気づかないから。骨折すれば腫れて、包丁で切れば血がでるように私も何か心の傷を目に見えるようにしたかったんです。まぁ見事に失敗して余計辛くなっただけですけど」
 
 どうせ聞いてないか、聞こえてないと思ってたのに俯いてしゃべる私の頭の上から
「なんか辛そうだね」
 そんな言葉が降ってきた。
 なんだそれ。相変わらずすぎる。
「辛いなんてもんじゃないですよ。傷が出来て隠さなければ”メンヘラ”って言われてテーピングとかで隠したら”いつもなんか巻いてて心配してほしいのかな”って言われて、長袖来たら”暑苦しい”って言われるんです。この傷をつくった時点で私はもう普通には生きられないんですよ。皆人の気も知らないで好き勝手言って」
 乾いた笑い。
 自分で自分に自虐的に笑ってしまう。
 話を促したくせに今の事には一切触れずに「今日、家帰れんの」なんて聞いてきた。
「帰れないです。眠すぎて」
「だろうな」
 その言葉を聞いて最後、瞬きくらいの感覚で目をあけると

 律月さんの家でシャワーを浴びていた。


****


「あの、これ。ありがとうございます」
 律月さんの部屋着を借りたからダボダボだ。
 でも、袖は半袖で私の腕でも七分袖になってしまって傷が丸見え。
 ぎこちなく右手で隠してしまう。
 シャワーを浴びて結構意識ははっきりしてきたのになんだか酔いが抜けきらない。
 律月さんは自分もとっととシャワーを浴びて「そこ。使っていいから」とベッドを指さし自分は敷布団に横になった。
 本当に小さな1室で7畳ほどのリビングとお風呂とトイレ、あとはIHのキッチン。
 モノクロ調で統一されていて無駄なものがそぎ落とされた部屋なのに低いテーブルの周りだけ色んなケーブルがごちゃついてる。
 こちらに背中を向けてスマホを触る律月さんをぼーっと眺めているとホームシックのような何とも言い表しがたい強烈な”寂しさ”がグワっと押し寄せて溺れそうになった。
 
 どうしよ。
 寂しい。
 泣きたいけど、泣けない。
 辛いよ。
 ねぇ、律月さん。
 
 そう心の中で唱えて、律月さんの布団に潜り込み背中に少しだけ触れた。
 驚いたように顔だけこちらに向けられたことを感じたけど恥ずかしくて顔は見れない。
 背中に埋めた顔はこちらを振り返った律月さんの胸にすっぽりと収まった。
「どうしたの」
 そう聞いてくれるけど私の頭の上でスマホは触ったまま。

「寂しくて、死にたくなります」

 ぽつり、音がして私の口から漏れ出した声に小さく息を吐いて、律月さんは私の背中にゆっくりと腕を回した。
 やばい。
 安心してしまう。
「すみません....」
 なんだかもう色々申し訳なくて謝ってしまう私の左手首をつかんで、律月さんは少しだけ体を起こした。
 律月さんに上から見下ろされる形になって目が、合う。
 布団に押し付けられる腕にグッと力がこもって”男の人だ”ってすごく自覚した。
「沢山の事を今まで言われてきました。”気にしすぎ” ”逃げればいいじゃん”って。私の悩みは皆からすればそんな一言で終わるくらいちっぽけなんですよ。そんな、ちっぽけな事でいちいち傷ついて、消えてしまいたくなるんです。私を言葉で責めるならいっそ殺してほしかった。みなちゃんも部長もあんな事するならあそこで私の事を刺してくれればよかった。見えない傷だけつけられて、私はそれを1人で抱ていくんですよ」
 腕が抑えられてるから涙が拭けない。
 酷い顔をしてると思う。
 それでもまっすぐに私を突く律月さんの目を前にしてこれ以上、感情の蓋を無理やり閉めることが出来なかった。

「もう、死にたい。お願いだから、殺してほしい....」
 私が絞り出した言葉を聞いて、律月さんは体制そのままで口を開いた。

「逃げていいとか気にしなくていいとか、無理だと思うよ。そんな簡単じゃないでしょ。我慢しなきゃ。我慢しないと生きていけなんだよ。我慢が正当化されている今の世の中では。でも、1人でどうにかしろなんて言ってないんだよ。誰かと一緒に我慢して、踏ん張って、そうやって大人になっていくんだよ。そうやって、強くなるんだよ」
 
 もう、涙が止まらない。
 好き勝手に流れ落ちる涙をスッと拭って、そして私の腕の傷に顔を落とした。
 
 まるで()でるように。

「成那、お前はよくやってるよ。大丈夫。分かってるから」
 
 きっと私は腕の傷さえも愛してくれる人を求めていたんだと思う。
 強がって、仮面をかぶった私じゃなくて
 弱さを見てくれて、そこも愛してくれる人。
 同情ではなく、受け入れてくれる優しさ。それが私に無くて、そして必要だったものだったんだ。


****


 誰もいない駅のホーム。
 小さな旅行用バッグに入る分だけの荷物を持って新幹線を待った。
 あの日、朝起きると律月さんはもういなくて、借りてた服も洗濯されていた。
 会社であっても、むしろ前よりも距離を感じて少しだけ悲しかった。

 でもあの日の律月さんが背中を押してくれたから、私はすぐに退職届を出した。
 すぐやめるわけでは無いので皆の冷たい視線を浴びつつ3か月働き、みなちゃんのプロジェクトが大成功に終わった打ち上げに参加し、この日を迎えた。
 
 すべてを置いて地元へ帰り、リスタートするつもり。
 だからお見送りなんていらない。
 やめることも誰にも言わないでほしいと社長に言ってあるから。
 引継ぎをする人と部長以外は知らない。
 なのに

「成那」

 その声に目じりがじわっと熱くなる。
 なんでよ。あれからさんざん冷たくしたくせに。
 それでも涙は見せないようにグッと口角をあげて振り返った。
「律月さん、名探偵みたいですね」
 こんなカラ元気で。
 律月さんは似合わないフッと笑った顔でこういった。

「自分に正直に生きろよ」

 あぁ、もう。
 なんで別れ際にそういうこと言うかなぁ。
 
 律月さんに触れたい。
 一緒に居たい。
 寂しい。
 でもこれは、全てあの日起こった1日だけの感情だから。
 全てを置いてリスタートするって決めたから。
 自分の頬をバチっと叩いて、新たに芽が出る子葉のように。
 私は律月さんに背中を向けた。

 さようなら。
 私を1日だけ愛してくれた人。
 またねはありません。
 
 きっと、どうか、お元気で。